2014-06-15

【八田木枯の一句】おもてから夕刊が来て梅雨ふかし  太田うさぎ

【八田木枯の一句】
おもてから夕刊が来て梅雨ふかし

太田うさぎ



いよいよ梅雨到来。関東地方は平年より3日、昨年より5日早い梅雨入りだそうだ。この時期の雨の恵みが米を育てると言われれば、お米及びお米から醸される発酵飲料を好む者としては長雨に不平を零すわけにもいかないけれど、青空を見ぬ日が続くとやはり気ぶっせいではある。

おもてから夕刊が来て梅雨ふかし  八田木枯

この句はそんな梅雨籠りの午後を詠んだもの。梅雨もたけなわとあって叩きつける雨音に家の中まで濡れそぼつようだ。外出もままならないどころか、雨のシールドで外界からも隔絶している心持。夕刊はその閉ざされた時間と空間の帳をひょいと押しわけてやって来る。うっすらと湿りを纏った数頁の重さはついさっきまで隔たっていた巷の重さだ。おもてに市井はあるのだ。公明正大でございという顔の朝刊ではなく、少しくだけた感じのある夕刊が「おもて」という把握にぴたりと嵌る。

とまあ、逼塞しているところに世間が侵入するという風な読み方をしていたのだが、途中から違うかなと考え直した。「夕刊が来て梅雨ふかし」なのだ。「来て」は軽い切れでもあろうが、順接として用いられているならば、夕刊が梅雨を持ち込んだのだ。その場合、「ふかし」は単に雨の激しさだけではなく、作者の心情をも表すこととなる。

木枯句のなかではいささか地味な部類に属する句ではあるけれど、どうしてどうして味わい深い。

ふと永井龍男の『青梅雨』を思い出した。ご存じの方も多いに違いないが、僅かばかりの借金のために心中を遂げる一家の最後の夜をしみじみと静かな筆致で描いた短編だ。確か実際に新聞の小さな記事から構想を練ったとか。夕刊だったのだろうか。


掲句は『俳句』(2011年8月号)より。


 

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