【週俳5月の俳句を読む】
生乾き
田中 槐
荻原裕幸の短歌の代表作といえばなんだろう。
歌、卵、ル、虹、凩、好きな字を拾ひ書きして世界が欠ける
たはむれに美香と名づけし街路樹はガス工事ゆゑ殺されてゐた
(梨×フーコー)がなす街角に真実がいくつも落ちてゐた
比較的初期の作品から引いたが、荻原裕幸の俳句がそれらに似ているのか似ていないのか、そもそも比べることに意味があるのかないのか、わたしにはまだわからない。
ただ、〈短歌は抒情〉で〈俳句は諧謔〉のように大雑把に括られることを拒んでいるような作風が、荻原裕幸の短歌にも俳句にもあるのではないかと、同じく短歌と俳句を両脇に抱えている身としては切実に彼の作歌・作句を見守っている。
歌人の俳句、と言われるときにまず指摘されるのは「湿り気」である。なぜ短歌には湿り気があるのか。それはここでは措くとして、歌人の俳句が湿ってしまうのは、季語の斡旋にあるのかもしれない。歌人が好みそうな季語、というのはなんとなくわかるような気がする。別に統計をとっているわけではないので、非常に個人的な感想ではあるが。
世界征服やめて何する花は葉に 荻原裕幸
たとえば「花は葉に」である。これが季語であることを、ほとんどの歌人は(たぶん)知らない。そして、知ったら絶対につかってみたくなる。桜の花が散って、葉桜になる、そこに歌人は抒情を見てとる。わたしも好きな季語だが、難しい季語だ。その抒情の部分を荻原裕幸は「世界征服」という語をもってなんとか乾かす。余談だが、荻原裕幸の野望は世界征服なので、この句を冒頭にもってくることによって、彼は俳句でも世界征服を狙っているのかもしれない(ご用心ご用心)。
ひぐらしや箪笥の底の新聞紙
この新聞紙は湿っている。そう確信してしまうのは何故だろう。それは季語の「ひぐらし」が原因ではないか。
ほかにも「卯の花腐し」「蝉時雨」「大夕焼」「春夕焼」あたりは、多少なりとも歌人の触手に触れてくる季語な気がする(個人の感想です)。一方で「迎春」「去年今年」といった(歌人の苦手そうな)季語を器用に処理してしまえるのは、荻原俳句の美点でもあろう。
片蔭のこれはマヨネーズの蓋か
「片蔭」、これも歌人が好きそうな季語だ(個人の感想です)。ここでも荻原俳句は「マヨネーズの蓋」という「澤」的(?)な無機質グッズをもって一矢を報いる。ただ、マヨネーズの蓋はだいたい赤い。この赤は、やや湿気を帯びていないか。
だとしても、わたしはこれくらいの「生乾き」感が心地よいと思ってしまう。乾ききれない歌人の性だろうか。
俳句がちょっと湿っていてもいいと思うことと、湿った俳句にもいい句があることとはだいぶ違うような気がする。一方で、乾いた短歌が別段問題視されないのはなぜだろう。短歌も俳句も川柳もつくる荻原裕幸は何か答えを見出しているのだろうか。まだまだ迷いつつ、わたしは俳句の世界の片隅にいる。
第367号2014年5月4日
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2014-06-15
【週俳5月の俳句を読む】生乾き 田中槐
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