2014-06-08

【週俳5月の俳句を読む】私はYAKUZAⅡ 瀬戸正洋

【週俳5月の俳句を読む】
私はYAKUZAⅡ

瀬戸正洋



村の渡しの船頭さんは ことし六十のお爺さん 
年をとってもお船を漕ぐときは 元気いっぱい櫓がしなる 
それぎっちらぎっちらぎっちらこ   (「船頭さん作詞 武内俊子)

先日、ラジオから、この童謡が流れてきて思わず聴き入ってしまった。私も、この五月に六十歳になったばかりだが、自分は「お爺さん」なんだと改めて思った。

毎年、五月から九月までの五ヶ月の間の休日の予定のない日は草刈をしている。老人なのだから、その日の気分で草刈をしようと決めた。嫌になったら、途中でも止めてしまえばいいのだ。これだけやってしまおうなどと思うと疲れてしまう。仕事が捗らず草が残っていても無理はしない。隣地の畑に迷惑さえかけなければと割り切る。それでも、汗はかくし、それなりの達成感もありストレス解消にはなる。終わればシャワーを浴び、冷たいビールと昼食、そして、昼寝だ。

楤の木は地下茎で繋がっていて思わぬところから生えてくる。たまたま、自宅の北側は楤の畑であり、それが自宅の裏庭に生えてきた。地下茎は南に向うのかも知れない。私は変わった雑草が生えてきたなと思い、そのまま、刈り払ってしまった。後で気が付き、来年の楤の芽の天麩羅は幻に終わったのだとがっかりしたが、すぐに、同じ場所から楤の木が生えてきた。もう、刈り払ったりはしない。来年の楤の芽の天麩羅の夢が繋がった。まだ、五十センチメートル程度でも、瑞々しい緑色の楤の芽を見つけることができた。畑の持ち主にお礼を言わなくてはならない。楤の芽をピザにのせて焼いてもイケルかも知れない。


炎昼の熟練工にピザ届く   木村オサム

熟練というと年齢でいえば何歳ぐらいなのか。炎昼である。身体を使いたっぷりと汗をかく。昼食には少し大き目のピザ。これくらい食べなければ仕事などできるものではない。経験と体力が全てなのだから。もしかしたら、後輩に奢ってやるのかも知れない。見習いの頃はよく奢られたものだ。受けたものは、同じように返さなければならないのだ。某月某日、炎昼、熟練工にピザが届く。


なんとなく出がけに覗く扇風機   木村オサム

何となく覗くのである。振り返って見ているのかも知れない。はじめはスイッチが「切れ」ているかどうかの確認。そんな時、必ず気になるものを見つけてしまうのだ。羽根のあたりに、安全カバーのあたりに、スイッチのあたりに、何かが付いている。付いているのは「埃」なのである。その「埃」の形は千差万別、それは、扇風機が回転していたからなのである。


本日はお日柄もよく長い顔   飯島章友

「本日はお日柄もよく」と言った人が長い顔だったのか、言われた人が長い顔だったのか。その一族郎党が、長い顔だったのか。長閑なのんびりとした雰囲気が漂っている。お見合いなのか、結婚式なのか。顔の長い人に悪人はいないなどと作者も読者も思っている。


雨雲が走るぬらりひょんが走る   飯島章友

雨雲が走るのである。「ぬらりひょん」が走るのである。「ぬらりひょん」とは、ぬらりくらりと掴まえどころのない妖怪である。作者は、それを雨雲といっしょに走らせようとした。それは、作者の意思なのである。雨雲が走っている。雨は止んでいる。風の音だけが聞こえている。


ひるふかき巣箱に穴の在ることを   堀込 学

ひるふかきという表現から森の奥というイメージが湧いてくる。鬱蒼と生い茂った木立、そこに巣箱はあるのだ。巣箱に丸い穴が開いていることはあたりまえのことである。だが、作者は、敢えて、巣箱に穴が在るということに対し念を押す。言葉を繰り返すと、いつのまにか、巣箱には本来、穴は無いのではないかという思いが芽生えてくる。念を押し続ける行為からは、そうではないのかも知れないという疑いが、確かに生まれてくるのだ。言葉は不思議なものである。


摘み草の二人のうちの一人哉   堀込 学

二人が摘草をして遊んでいる。そのうちの「一人」に焦点が当たった。娘なのか、妻なのか、恋人なのか、見知らぬ少女たちの一人なのか。ただ、言えることは「二人のうちの二人」ではないのである。「二人のうちの二人」が正しいことならば、「二人のうちの一人」は間違っていることなのか。それとも「二人のうちの一人」も正しいことなのか。


バツカスもかつて阿佐ヶ谷商店に   表健太郎

阿佐ヶ谷商店である。阿佐ヶ谷の商店街ではない。かつて、酒の神は、阿佐ヶ谷商店にいらっしゃったのである。阿佐ヶ谷商店とは、酒屋ではなく味噌とか醤油とか、そういったものを商う店なのだと思う。たとえば「もろきゅう」でワインを頂くことも乙なものなのだ。味噌を舐めながらスコッチウヰスキー、これはこれでイケルのである。


新宿の空に噎びし神でよい   表健太郎

新宿の空に噎せたのである。息が詰まりそうになったのである。そして、それは神でよいという。汚染物質が浮遊しているのは何も新宿だけなのではない。偏西風から飛散するものだけでもない。汚染物質が浮遊していなくても噎せることは、いくらでもある。私たちは、無学ゆえに自覚することもなく無邪気に日々を過ごしてゆく。地球は、既に、充分に、汚れ、病んでいる。


ひぐらしや箪笥の底の新聞紙   荻原裕幸

ひぐらしが鳴いている。箪笥の引き出しの底には新聞紙が敷き詰められている。新聞紙は、箪笥の底だけではなく畳の下にも敷き詰められている。新聞紙は湿気から衣服や畳を守るものなのかも知れない。古い記事を読んだりすると、その時の自分を思い出したりして、昔の流行唄を聞くことと同じような感慨に陥ったりするのだ。


行きつけの書店なくなる春夕焼   荻原裕幸

行きつけの書店がなくなるということは寂しいものだ。かつては、この街にはこの書店、あの街にはあの書店と、電車を降りれば、必ずといっていいくらい行きつけの書店があったものだ。あとで考えてみると、何故、この本が見つかるのかと思うことも多々あった。自分が欲しい本が見つかるのではない。思ってもみなかった本が見つかるのだ。その本は、確かに私自身にとって必要な本なのである。当たり前のことなのだが書店には神様がいらっしゃるのだ。とある街角のセンチメンタルな春の夕焼けと閉店した書店のある風景。


熱の子に蚊帳の天井低かりし   池谷秀子

熱の子の世話をして立ち上がったときに、蚊帳の低いことに気付いた。あるいは、そのことが気になった。蚊帳の低さは熱があろうと無かろうと同じなのである。見慣れた風景であっても、見えなかったものが見えてしまうこと、感じなかったものが感じてしまうことは、私たちの生活の中においても多々あることなのである。


夏至の夜のもつとも遠き足の指   池谷秀子

昼の時間の最も長い夜に、夜の時間の最も短い夜に、足の指がもっとも遠くに感じた。たとえば私たちは足の指の爪を切る時などこのように感じることがある。身体が硬くなってきたからなのか、腹筋が緩んできたからなのか。こんな些細なことから、私たちは老いを感じてしまうのである。


黒百合のふところ深く眠りおり   仲田陽子

ふところ深く眠っているのは作者なのだろう。黒百合から「恋」とか「呪」とかを感じ取った人の感性には驚きを感じる。惚れてしまえば、しかたがないのだ。どうせ、呪うならば力いっぱい呪えばいいのだと思う。それが恋なのである。


触角の長い順から虫籠に   仲田陽子

虫籠に虫を入れるのであるが、入れる順番は触覚の長いものからとした。触覚の長い順に入れる理由はあるのだと思う。たとえば、虫籠の形から考えて長いものから入れないと虫の触角が傷付いてしまうとか。人が何かをする場合、必ず何かがあるのだ。人の行為には、意識、無意識に係わらず必ず理由がある。


人登りては消えてゆく春の坂   庄田宏文

怠け者の私は、坂の途中に腰を下ろし、過去の風景を眺め思い出に浸っている。そんな私を後から来た人たちは、どんどん、追い抜いていく。確かに「春」の坂だったのだ。まだ、「春」なのだからと油断していたら、それが、いつのまにか「夏」の坂になる。その時、少し、身体に堪えたりもしたが、しばらくすると「秋」になり、再び、過ごし易い季節となった。風景も、それなりのものになっていった。私は弱い人間なので、楽な方へと楽な方へと流れていく。私は、いったいどのくらいの人たちに追い抜かれてしまったのだろうか。未だに、坂の途中で人生について考えているふりをしている。


いくばくか太りし鳩や暮の春   庄田宏文

鳩が何となく太ったような気がした。飼っている鳩なのか、それとも、駅前広場などにいる野生の鳩なのか。私の体重も毎日「いくばく」か、増えたり減ったりしている。体重を増やさない秘訣は、嫌でも、面倒くさくても、毎日、体重計に乗ることだ。春も終わり、旬の食材が食卓に溢れるくらいに並ぶ。もちろん、冷たい瓶のビールも一本。


サラリーマンにとって休日の前日が一番だ。どこかへ寄って一杯引っ掛ける。「ことし六十のお爺さんに」なっても退職しない理由は、そこに尽きるのだ。そんな訳で、帰りはタクシーを利用することになる。顔なじみになったドライバーも多く、乗れば黙っていても自宅まで運んでくれる。一杯ひっかける時もそうなのだが、入ると何も言わなくてもカウンターの前に私の好みの銘柄の生ビールが出る。それと同じくらい嬉しいものだ。

ある時、タクシーに乗ったら顔なじみのドライバーが「魚を使って料理していたら失敗してしまい、そのままにしておいたら、へんてこなもの出来上がり、それを食べてみたら体調がよくなった」と言った。その日のタクシーの中は、その話でそれなりに盛り上がった。私は、酒盗のようなもの、塩辛のようなものを作っていたのだろうと思った。

ある日、そのドライバーが、わざわざ自宅まで尋ねて来て「いつも、持っていたが、なかなか出会わないので」と言い、タッパーに入った『あるもの』を手渡してくれた。舐めてみると塩辛く確かに魚の内臓のような味がした。「朝昼晩と豆粒程度の量を舐めるといい」とも言われた。私は、それを舐めている。身体にいいものなら試してみようという軽い気持ちからだが、その軽い気持ちが老いなのだろう。箸で掬って口に含み日本酒を飲む。それはそれで酒の肴としてもイケルのである。


第367号2014年5月4日
木村オサム がさごそ 10句 ≫読む
飯島章友 暗 転 10句 ≫読む

第368号2014年5月11日
堀込 学 輕雷 10句 ≫読む
表健太郎 沿線物語 7句 ≫読む

第369号2014年5月18日
荻原裕幸 世ハ事モ無シ 20句 ≫読む

第370号2014年5月25日
池谷秀子 蝉の穴 10句 ≫読む
仲田陽子 四分三十三秒 10句 ≫読む
庄田宏文 絵葉書 10句 ≫読む

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