ひとりっきりのポストモダン
宮崎斗士句集『そんな青』を読む
小野裕三
※本書栞文より転載
3D立体視、というのをご存じだろうか。パターンの羅列のような絵があって、焦点を合わせずにぼんやりとそれを見ているうちにふっとそこから立体的なはっきりとした像が浮かびあがって知覚されるという、あれのことだ。
斗士さん(と、長い交友の中で慣れ親しんだ呼び方をあえて使わせていただく)の俳句は、なんだかそれに似ている。一見したところで、どうにも焦点を合わせにくく、なかなかすとんと腑に落ちない。俳句には「二物衝撃」というものがあるが、それに比較して言うなら彼の句には二物どころか三物くらいばらばらのものが顔を出していることが多い。三物もあるから、どれとどれをぶつけるというより、もはや三物がそれぞれ気ままに浮遊している感じ。つまり、「二物衝撃」ならぬ「三物浮遊」。だからそれぞれの三物をどのように扱っていいのか、俳句の一般的な定理に照らしてもよくわからず、最初は戸惑ってしまう。
ところが、この浮遊する三物にむりに焦点を合わせようとせずにしばらく眺めていると、ふっとすべてが氷解したようにきわめてクリアな何かがそこから立ちあがる。像というのとも少し違う、なんだかよくわからない感覚の塊のようなもの。
それがなんだかよくわからないのは、もちろん斗士さんが悪いのではない。われわれがまだ名づけ得ないものを、彼がずっと希求してきたからなのだ。そのようにきわめて孤高な道を彼が歩み続けた挙句に出てきたのが、三物浮遊の中に立ち現われる、なんだかよくわからないもの。一般的な俳句的定理には当てはまりにくいが、しかしそれでも確かに俳句的感性をぎりぎりまで突き詰めた先にある、何かの名づけ得ないもの。
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一番最初の句はおそらく三物浮遊の典型例だろうが、そのあとの句も、直喩や暗喩のように使われてはいるものの、どこか脈絡のない三物が並んでいる印象がある。その比類なき句の姿は、まさに孤高の境地のようだ。
そんなわけで、現代俳人の中で孤高という言葉がぴったりくる人は、僕の印象では間違いなく斗士さんなのだ。もちろん、斗士さんの持つ俳句関連の交友の広さからすれば、「孤」という言葉は似合わないようにも思える。だが、俳句を作るという、言葉を構築していく純粋な世界の中において、斗士さんは常に孤独だ。実直もしくは愚直とも言えるほど、あえて難しい道ばかりを選びとって進んでいく。その先に道があるのかすらもよくわからない未開の場所へと、彼は進み続けてきた。その強い後ろ姿は、やはり孤高と呼ぶしかない。
ところで、以前から僕は「ポストモダン俳句」という俳句運動がなぜ二十世紀の末頃に存在しなかったのかということを疑問に思っていたのだけれど、もし世の中に「ポストモダン俳句」があるとしたら、斗士さんこそがそのひとつの完成型かも知れない、とも思う。あらゆる価値観から切り離したばらばらのものを並列に並べる。まさに記号として浮遊しているような感じ。その様はまさにポストモダン的だ。
もちろん、ただ単に記号化して切り離しただけではない。その三物に、何か説明のしようのない感覚的な合理性を見つけている。そんなものを見つけたのはたぶん、世の中で斗士さんだけだろう。とにかく浮遊する記号をぼんやりと見る。見続ける。焦点を合わせずに。ここで、俳句の一般的なやり方に逃げてはいけない(そのようなことを、きっと斗士さんは潔しとしなかったのだ)。なので、とにかく焦らず見る。見続ける。すると、ある時、ぽんとそこから名づけ得ないものが立ちあがる。
そうだったのか。「ポストモダン俳句」運動は宮崎斗士に始まり、宮崎斗士において完成したのだ。たった一人きりの俳句革新運動。どうやら世の中の多くの人がそのことに気づいていないらしいのが、どうにも歯痒く思えるのだが。
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宮崎斗士句集『そんな青』(2014年6月22日・六花書林)
≫http://rikkasyorin.com/syuppan.html
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