今井杏太郎を読む5
句集『通草葛』(1)
鴇田智哉:智哉×生駒大祐:大祐
≫承前
編集部●はい、では始めましょう。今回からは杏太郎の第2句集『通草葛』を読んでいきます。今回はゲストとして鴇田智哉さんにおいでいただき、基本的には生駒さんとの対談という形式で進めていきたいと思います。宜しくお願い致します。
まず春の部ですね。智哉さんから、語りたい一句を挙げていただけますか?
智哉●
昼ごろと思うて春の野にをりぬ
です。時間や場所の特定の仕方が独得で、ぼかしているようなところがあります。この場合は、「昼ごろ」というのは時間で「春の野」は空間なのですが、時間の中に春の野がある、というような、時間と空間を溶け合わせた広がりが感じられます。時間のある「一点」ということではない。
実際、時間は「一点」ではないんですよね。頭で考える「一点」はありますが、一秒だって小さく分けられるし、さらに細かく分けていくこともできます。もちろんそれは、春でないほかの季節だって当然あることなのですが、この句は「春の野」という季語により、〝一点でない〟という感じを一般的に分かりやすく伝えています。多くの人の持っている「春の野」のイメージや雰囲気を借りて、「昼ごろ」の「ごろ」を納得させているんです。杏太郎の季語の使い方の面白さですね。
大祐●鴇田さんがおっしゃったように「昼ごろと思うて」というのが具体的な一点を指すわけではなく、「春の野」もまた茫漠とした広いイメージを持つ語というのは同感で、「昼ごろ」が絶妙だと思いました。
「昼ごろ」という言葉は単純なようでむずかしいです。単純に朝、昼、夜のような大きなかたまりならば、具体的な瞬間を指さないとはいえある程度の時間による差はイメージできます。しかし「昼ごろ」は「正午ごろ」とか「お昼ご飯ごろ」というような時間帯を指すのですが、イメージが限定できるほどはっきりとは指さない。それに「思うて」ですから、さらにぼかしています。杏太郎さんの句の「思う」は「思う」主体はいるのですが、主張が激しくないんです。
池田澄子さんに〈生きるの大好き冬のはじめが春に似て〉という句があります。「思う」という言葉は入っていないのですが、冬のはじめが春に似ているという発見があって、それを自分の感情とくっつけて見せるという、ある意味ではテクニックでもあり、主観と発見を前面に出している句です。
一方この杏太郎さんの句は「思う」と言っていますが、主観とか発見を打ち出すわけではなくて、誰にでも思えることを「思って」いる、というところで、一般性のある言い方だと思いますね。
杏太郎さんにとっては、句集が変わってゆくひとつのポイントになっているのかなと感じています。この句集のあとがきに「猿が木から落ちることの意外性を考えているうちに、猿があたり前のように上手に木をのぼることの面白さに気がついた。」という有名な一文がありますが、「あたり前のことが面白い」という視点がこの句集で導入されたのかなと思います。ふつうの人なら一句にならないようなことを詠んでいるけれど、じつはそれまでこういう句は詠まれていなかった、というパターン、そのひとつの典型だと思います。
智哉●レトリック的なことを言えば、「昼ごろ」の「ごろ」や「思う」というのは、杏太郎のいた句座では「なんだよ、それ」ってケチをつけられるような措辞だと思うんですよね。一般的には「思う」なんていうのは俳句では使ってはいけないよと言われる言葉で、おそらく杏太郎のいた句座でも、よほどのことがない限り「思う」とか「ごろ」を使うと何かケチをつけられるようなところがあったでしょう。
この句はその裏をかいている。「ごろ」のあとにさらに「思う」まで使ってぼかしぼかし仕立ててしまうという、杏太郎のあまのじゃく、ひねくれ者、そういうものを感じます。文面はストレートに見えますが、裏で3回ぐらいひねっている様子が見え隠れしますね。
話が飛びますが、裏で3回ぐらいひねっているという意味に限っていえば、最近の作者では岸本尚毅さんにも、似たようなものを感じます。
大祐●以前「週刊俳句」に掲載された上田信治さんの「すーっと入る」という記事で岸本尚毅さんと高野素十のことを書かれています。ただ、岸本さんの場合はすーっと入ってそのあとに像を結んでいくのですが、杏太郎さんの場合はすーっと入ってそのまま拡散してゆくようなところがありますね(笑)。
智哉●ひねくれ度合いが強い(笑)。
大祐●しかも、ひねくれると自己主張が強かったり、ごちゃごちゃしたふうになりがちなのですが、全然そうじゃない。みんながごちゃごちゃしがちなところで、ひねくれて何も言わないという感じでしょうか。
智哉●そうですね。杏太郎にしてみれば、〝みんなどうせ「ただごと」でない何かを書きたいんだろうけど、オレは違うぜ〟みたいな感じがある。〝「ただごと」は案外「ただごと」じゃないんだぜ〟みたいな……。生駒君は、気になった句はありますか?
◆俳句の型は茶目っ気を呼び込む◆
大祐●僕は
ゆく春と思ひぬ行かぬかも知れぬ
です。
智哉●僕もこの句はチェックしました。
大祐●好きな句ですが、この句は杏太郎さんのど真ん中の句ではないかな、という気がしています。
杏太郎さんは季語自体はそんなに崩した使い方をされないというか、もちろん、熟語を開いて使われることはありますが、否定する使い方はされないですよね。でもこの場合は「ゆく春」という春の季語を「行かぬかも知れぬ」と否定してかかるという、ふつうの人もあまりしないことだと思いますが、それを杏太郎さんはなさっています。
あとは、語調というか言い方がなにかぼんやりしていて、断定する人なら「行かないよ」と言っちゃうのですが、「行かぬかも知れぬ」というのがちょっととぼけているような気がして、でもその感じが晩春には合っています。「夏がゆく」だともっとシャープな感じがしますが、「春がゆく」にはぼんやりしたイメージがありますから。
智哉●語調に茶目っ気があります。内容に関して言えば、「近江の人とをしみける」のような、季語「ゆく春」の割とオーソドックスなイメージ、憂いを含んだ雰囲気でできているんですが、詠い方がお茶目なんですね。ふふ、と笑いながらつくったような感じがします。これも、季語の一般的イメージの力を借りて面白くできています。
でも、杏太郎であることを超えて、俳句の型というのは、一般的にそういうお茶目な感じを呼び込むものではあると思います。
大祐●こういう句の世界を味わったあとで「ゆく春や」で取り合わせの句を読むと、違和感というか、ああ、何か詰め込んでいるな、という感じになってしまうような気がしますね。季語を開いていって共有されているイメージを抽出してゆくとこういう感情やつぶやきが生まれるというところがあって、そういった意味では実は純粋な季語の使い方をされているのかもしれない、と思いました。
『麥稈帽子』を読んだときに、杏太郎さんはあまり上五で切ることをしない、というお話を伺いました。そういう意味では「ゆく春」という季語は上五で切るという使い方をよくするのですが、杏太郎さんはやはりそれをしない、というところに特徴が出ているんだな、と思います。
智哉●きちっとしたものに対する、アンチのような意識がある。で、そのアンチの意識は、きちっとしたものに対する気恥ずかしさから来ているように思う。
大祐●面白いなと思うのは、その「アンチテーゼ」であるということが杏太郎さんの句の特徴のひとつだと思うのですが、「あたりまえの面白さを詠む」というスタンスが「ひねくれたところ」から出てくるというのは、俳句がそもそもとても特殊な文芸だから、ということなんですね。俳句がふつうの感覚から少し違うところにあるということが分かるというか。
◆「たり」に見られるさまざまな役割◆
智哉●ちょっと「たり」の話をしてもいいでしょうか。
馬の仔の風に揺れたりしてをりぬ
「たり」は、「……たり……たり」と重ねて使われる言葉なので、この句のように一つだけしか使われていなくても、もう一つの隠れた「たり」を想像させます。「たり」という言葉により、馬の仔が、風に揺れる以外のほかのこともしているということが感じられるんですよね。
で、ここからは、リズムとか語感の話なんですが、この句の場合、「たりしてをりぬ」という措辞が、いかにも馬の仔がふらふらしながら立ち続けようとしている、その感じそのものなんですね。言葉ってたまにそういうことがあるのですが、言葉のありようとものの存在感が連動しているな、というのを感じるんです。
ただ私は、この「馬の仔」を、割と生まれたばかりに近い、まだちゃんとには立てないような姿を想像して読んでいたのですが、もしかしたら、もう少し育った馬を想像する人もいるかもしれないですね。同じ句のことを言っていても人によって違うイメージだったりすることもあるので、読者として、その辺はどうなのかなと気になります。
大祐●僕は、生まれたての仔馬というよりは、もう少し大きな、立てるようになった仔馬が立っていると感じました。大きなものが風に揺れるとは、ふつうはあまり言わないですが、馬の仔という存在には軽やかさがあり、さらにその奥にあるものは風が吹いたら揺れそうなものなんだ、という印象を持ちました。それが「たり」という言葉の働きなのかな、と思っています。
智哉●そちらの方がほんとうかもしれないですね。生まれたての仔馬というよりは、もう少し大きいはずですよね。
大祐●でもそれは、人それぞれの感じ方ではないかと思います。
「たり」はふつうに使うと適当な感じがして、あまり成功しないと思うのですが、この句はしっくり来ているし、「たり」という言葉のところでちょっと「あれ?」と思いますが、違和感を感じるところまではいきません。それはやっぱり何か本質をつかんでいるところがあって、だからこの句を好きな人が多いのかもしれないと思います。
智哉●「たり」がつくことによって、改めて考え直す、というところはありますね。
「たり」という言葉には、その動作の主がわざとやっているというニュアンスが少しあるのではないかな、と思います。自然にそうなっているだけではなくて、そいつの意識みたいなものが出ているんじゃないのかな、とも思います。
この句は馬の仔だから、馬に自意識というのは変かもしれませんし、自分でやっているわけではないのだけれども、わりに積極的な動作をしているような可愛らしさ、子供が一生懸命歩こうとしているようなけなげさが感じられて、自分の子どもを見るような、頭の後ろがじーんとするような気持ちになります。「たり」のけなげさ……。
大祐●そうですね、たしかにこの句の文体には、生きものの生の感じが強くありますね。意思というわけではないのですが、生命がいて、その生命が自発的に揺れているという。「揺れる」というのも、動作としてはなかなか細かい動作ですよね。そこを書くというのも面白いですし。
あとは「風」が入ってくるところですね。杏太郎さんの句には「風」がよく出てきますが、「風」は何か展開をもたらしてくれるもの、という意識が少しあるのかもしれませんね。
「たり」を使うことで断定を避けて、「揺れる」という言葉の意味が確定しないという効果もあるでしょうね。「揺れる」という動作に幅が出るんです。
智哉●それから、この句が一句一章で、一息でゆく軽やかなリズムでできていることにも関係があるでしょう。
◆ひねくれて「遊び」を詠む◆
大祐●でも、成功している句もあれば失敗している句もあるのかな、という気がしていて、例えば
蝌蚪生れて水のあそびをしてゐたる
この句は杏太郎さんの領域にはあるのですが、ここでやろうとしていることは、杏太郎さんがやらなくてもいいことかな、という観点から言えば、そうかなと思います。杏太郎さんには〈老人のあそびに春の睡りあり〉などのように「遊び」の句がいくつかありますが、「水のあそび」というテクニカルな言い方をしているのは、杏太郎さんの句としては積極的にとる気はしないですね。
……あ、そうか。「水遊び」を開いたということもあるのかな。
智哉●それもあるでしょうね。これもあたりまえのことを詠んでいて、おそらく、周囲の風潮へのアンチテーゼからできた句なのかな、という気がします。そもそも、「何でも『遊び』と読んでしまう俳句」はダメだ、みたいな話があったようですよ。周りがそう言うから、あえて「あそび」という言葉を使いたい、というのもあったのかもしれません。
そういうことを考えると、ちょっとひねくれて、こねくり回してつくったのかな、という気がしないでもないです。
俳句では、「遊び」という言葉を使うとなんとなく句が面白い感じになる気がするので、割と手軽に「遊び」という措辞が使われるという傾向がある。
大祐●風が遊んでいる、とかいう言い方ですね。
智哉●そうです。「遊び」というのは割と安易に出て来やすい言葉なんですね。
大祐●「俳句らしさ」みたいなものが出やすいのかもしれません。
智哉●ここでいきなり変な話ですが、杏太郎には句に裏の意味を込めるところがあって、実はこの句の「蝌蚪」などはバレ句的な意味にも読めるし、「水のあそび」もそうなんです。男ばかりの句会などではそういう読み方をしていたらしく、この句にはそうした雰囲気がちょっとするようにも思います。そんな風に読める句が、杏太郎には、実はけっこうあります。
大祐●でも、そういう目で見ると実はどの句もそんなふうに見えてしまうところがありますよね。
智哉●そう。あまりそういうふうにだけ解釈しちゃうと、全然面白くないんですけどね。
この句も本人は何も言っていません。何も言わず、さりげなくつくって、うっすらと気づかせるというような遊び方をしていたのでしょう。こういう句をつくる世代がいなくなって、今はもうそんな句が出る句会もないのでしょうが。
あとは
ポー川の岸辺に咲いて桃の花
外国の地名で書いているところが面白いなあと。ポー川で桃の花、いいよなぁ。
外国詠は杏太郎にはたくさんありますが。その流れで言うと、
ひまはりの種蒔きにゆく男たち
この句は地名を言っていませんが、明らかに日本の風景ではないですよね。でも、外国へ行ったんだよ、という報告の句ではなく、そこにいて描いた絵のようにできている句。
編集部●では、今回はこのへんで。
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