【週俳9月の俳句を読む】
私はYAKUZA Ⅵ
瀬戸正洋
理事会の席で顧問弁護士からコンプライアンスに関する講演会の誘いを受けた。事務局内で、いろいろあることを知った上での誘いだったのだろう。講演会は台風18号が列島を縦断した翌日であった。会場に向うと、受講者は法務担当者が多いように見受けられた。私は、講演会では、最前列の席を取るようにしている。なるべく居眠りをしないためだ。それでも、居眠りをはじめてしまったら、講師が悪いのであると考えることにしている。内容は著名な事件の経緯の中からコンプライアンスについて考えるものだった。
講師は、はじめに「人間は50歳になると短所に磨きがかかるようになる」と言った。仕事もそれなりにこなし、自信もつき、上司はいなくなり、部下が多くなると、ひとは、とたんにわがままになる。故に短所に磨きがかかってくるのだそうだ。本人はそれに全く気が付かない。
対処法としては、そのことに気が付くこと。加えて、自身の短所について考えなくてはならないのだそうだ。自分の短所を知ることは、既に、それは長所であること同じことなのであるという。「自分自身を知ることが、コンプライアンスに係わる人間にとって基本的なことなのだ」と言った。それなら、全く文学と同じことなのだと思った。
上り下りありてメロンの肌模様 森山いほこ
果実は、概ね球体だから、確かに上り下りはある。その上、メロンの肌模様は千差万別だ。もしかしたら、メロンの肌を指で上下になぞるだけて美味さを見分けてしまう目利きがいるのかも知れない。
壊さなければ確認できないものは、世の中にはいくらでもある。人は、メロンに限らず、視覚と嗅覚と聴覚と触覚などを駆使し隠れている何かを暴こうと努力する。解らないものはそのまま解らぬままにしておいた方がいいのだ。解った時に落胆したくないから早く知りたいのだなどと願うことが間違いなのである。落胆しない人生など、つまらない人生なのだ。落胆のうしろには経験したこともない新しい何かが隠れているはずだ。
蚊の落ちる田圃のやうな机かな 森山いほこ
机のうえに蚊が落ちたのである。落ちるということは、蚊は死んだという事だ。蚊に刺されると、私たちは何の迷いもなく、後悔することもなく、皆殺しのため蚊取り線香に火を点ける。逃げ遅れた蚊は、田圃のような机のうえに落ちて死ぬ。
それで、「田圃のような机」とは何かと思いを巡らしたりするのだが、よくよく考えてみれば、作者は「田圃のような机」と言っているのだから、目の前の机は田圃だと、何の迷いもなく決めてしまった方が正しいような気がする。そうすれば、視界は、どんどんとひらけていく。
軽すぎて星座になりし干し占地 森山いほこ
ものがたりの場合、悲しみに打ちひしがれた人間、あるいは動物、昆虫とかが、自分の力ではどうすることもできない「大きな力」により救われ、星座になり輝く。夜空で輝くこととは、それは敵対したものも含めた全てのものに、やさしさを分かち与えるということなのだ。
この場合は、軽過ぎた故に、感情のない干した占地が星座になったのである。神様は、えこひいきすることなく何でも星座にしてくれる。神様は、何故、えこひいきをなさらないのか。それは、人間が、えこひいきばかりしているのを眺め落胆していらっしゃるからだ。
ひとびとは頭でっかち鳥渡る 中山宙虫
生きるための知識など余計なもののような気がするが、とかく現代人は頭でっかちなのである。鳥が渡っているのを眺めるには、その大きな頭を後ろに反らさなければならない。そのため、肩が凝り首が疲れてしまうのだ。
念じればいつでも月が赤くなる 中山宙虫
「一念岩をも通す」ということわざがある。これは真実なのである。月だって同じことだ。念ずればどんな色にもなるのである。
私にとって一番身近で、成し遂げなくてはならないことは、体重を減らすことだ。「減量、減量」と念じ体重計にのることだ。これを怠けると百グラム、二百グラムと間違いなく増えていく。念じないと体重は必ず増加する。不思議な現象だと思う。
売れ筋は時間旅行記ばった跳ぶ 中山宙虫
「時間旅行記」が飛ぶように売れていると作者は言う。草むらでは、ばったが飛び跳ねている。草刈りをしていると、ばったの親子が先へ先へと逃げていく。刈払い機の振動か何かに驚いて、ばったは逃げるのだろうが、先へ逃げずに横に逃げてくれれば、こちらは、気を使わなくて済むのにと思う。
俳句を作る場合も、自身の俳句を読む場合も、私たちにとっては自分自身を知るための行為なのだ。必然的に、過去への旅を希望する。ばったの場合も同じことなのである。過去への旅行を経験したばったは先へ先へと逃げることを止めるのかも知れない。
私は未来への旅行はご免被りたい。自分の成れの果てなど見たくもない。日々、耐えて生きているのだ。安心するのか否かは別として、その瞬間、瞬間の気力が萎えてしまうに決まっている。酒神の加護のもと、立ち止まるか、進むか、引くか、あるいは、左へ行くか、右へ行くかを決めること。これが人生だと思う。
草刈の終わった畑には、どこにいたのかと思うほどの山鳥が下りて来る。ある時、畑に下りて来た鳥が、ばったを嘴で銜えては放り投げ、遊んでいた。その鳥は私が見ていることに気が付き、私に向って、はにかみ、そして、微笑んだ。
紙ふぶき拾へば四角秋祭 岡田由季
秋祭りで紙ふぶきが舞う。拾ってみたら紙ふぶきは四角であり、なるほどと思ったのである。紙ふぶきを大量生産する場合、四角は合理的な形だと思ったのである。さらに、祭とは集団生活を送る私たちにとって、極めて論理的な行事なのであると、改めて、気付いたのである。
鶏小屋に葛の重みのかかりをり 岡田由季
鶏小屋に葛のつるが巻き付いてしまっている。それを取り除こうとした時に、はじめて、葛の重さを知った。それにしても葛のつるはしつこい。力任せに取り除こうとすると鶏小屋が壊れてしまいそうだ。
霧抜けて来しトラックの静かなり 岡田由季
霧を抜けて来たトラックが静かなのである。このトラックの荷台には何も積んでいないような気がする。仕事を終えて戻る途中のトラックなのだ。地上の汚さも、人の心の貧しさも、何もかも霧は隠してくれる。その霧を抜けて来たのである。道路も濡れている、トラックも濡れている。それを、静かだと感じた作者の心も濡れている。
講演会のあとの意見交換会は立食パーティーで主催者側が講師を囲む会のようであった。一般参加者は私ぐらいかなどと思ったりもした。それでも名刺交換は行われていた。普段なら、声も掛けられないような別の世界の人たちである。受付にいた女性は弁護士事務所の事務担当者で会場では写真を撮っていた。「ふたりで撮ってくれ」とか「こちらは三人で」などと言われれば何枚でも撮ってくれる。遠くから「あとで送ってくれ」などと言っている人もいた。参加者のイメージと異なり、随分と和やかな、そして、フレンドリーな交換会であった。
第388号2014年9月28日
■中山宙虫 時間旅行記 10句 ≫読む
■岡田由季 多国籍料理 10句 ≫読む
第387号 2014年9月21日
■森山いほこ 昨日の銀座 10句 ≫読む
2014-10-12
【週俳9月の俳句を読む】私はYAKUZA Ⅵ 瀬戸正洋
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