帰ってきた奥村晃作同好会〔後篇〕
太田うさぎ×西原天気
うさぎ●2010年に入ります。富士山の連作がここでも出てきます。「夕富士」5首の1首。
沈む日が富士に食まれて欠け行くを赤塚七丁目路上に目守(まも)る
元 日の太陽が富士山に沈んでいくという大変ドラマチックな景色が詠まれています。先の富士山とちょっと違うのは、ここでは富士山と入日が相剋するように描か れていることではないでしょうか。「夕富士」1首目は富士に沈む日を「ゆくりなく見つ」と行きずりの立場ですが、この3首目では「目守る」と、決闘の立会 人のように積極的な目撃者になっています。
天気●すっくと立つ。富士や太陽を前にして、背筋が伸びる。
うさぎ●伸びてますね。そして赤塚七丁目という地名が生きてませんか? 赤が夕日の色を連想させるからでしょうか。この景色を眺めながらオクムラさんは「富士山も太陽も生きている」と思ったんじゃないかなあ。
天気●ご自宅の住所ですね。
うさぎ●ちょっと俳句っぽいものもあります。
昼の月クラゲの如く青空に浮かぶ二月も下旬となりて
世間一般では二月はまだまだ冬ですけれど、俳句では浅春。下旬ともなれば春めいてきたなあ、となります。この歌はぽやんと浮いた昼の月がのどか。
天気●前半のシンプルな直喩から、後半、やはりシンプルな日々の経過へ。裏切ったり身をかわしたりせず、読み手の気持ちのまんなかへ、すっと素直な球を投げ込む感じです。
うさぎ●この年オクムラさんは各地で桜を見ています。三島、靖国神社、千鳥ヶ淵、上野、市川、飯田。靖国神社はこんなふう。
咲く花を見ると言うより宴席の巨大を誇る靖国神社
桜よりも延々と広がるブルーシートに気を取られています。桜には目もくれず浮かれ騒ぐ人、人、人。「巨大を誇る」がいかにも靖国神社です。
天気●ブルーシート。今日的な宴ですね。
うさぎ●先を急いだほうがよさそうなので、オクムラさんの出身地飯田に飛びましょう。桜連作でこの飯田ユニットだけが全首桜に特化しています。
「四〇〇年生きて来たボクそれはもうオイトマシタイ」シダレザクラ言う
樹 齢400年の立派な桜ですが、人間の勝手な都合で延命されている。保護する立場の人からすればここで絶やすわけにはいかないという懸命の努力なのでしょう けれど……。なかなかむつかしいテーマですね。オクムラさんは桜の代弁者になっています。大変は古木だから「ワシ」でもよさそうなところが「ボク」。意地 らしくなります。
天気●「ボク」「オイトマシタイ」。400歳のキュート(笑。「劇団四季『キャッツ』横浜公演」の6首、いきいきとしていますね。
うさぎ●この連作大好きっ!
歌うまく踊りも巧みせりふよし全てのネコがベストを尽くす
美男美女健康の若きネコたちがステージに跳ね全ネコ主役
俳優が演じているわけですが、むしろネコとして見ていますね。躍動的なステージを彷彿させます。客の入りや劇場の作りにも感心して、最後が≪案内の女性も明日はネコだろうとことん計算済みの劇団≫ですもん。浅利慶太怒るぞ(笑)。
天気●続く「牡丹」5首、「芍薬」5首は、描写、写生っぽくて、ちょっと新境地でしょうか。
芍薬のピンポン大の蕾から花開きたりテノヒラ大の
それでもオクムラさんらしさは色濃いわけですが、ピンポンとテノヒラの表記の呼応、後半の語順(テノヒラ大の花開きたり、とはせずに倒置)。コクがあります。
うさぎ●「牡丹が燃える」などの情緒的レトリックには走らずあくまで即物。ピンポンからテノヒラへ。大きさと形の変化がミラクルっぽい。
天気●「大きな愛」5首はメダカを飼う話です。
メダカらを死なせぬようにふるまえる妻の大きな愛を見ている
メダカ愛と夫婦愛が交差する、微笑ましくも神々しい一瞬です。こうしてみると、オクムラさんの歌は、宇宙のしくみと目の前の愉快がチカチカとまじわることがしばしばで、そのへん、ほんと、ラヴ、なのです。
うさぎ●2首前に《不憫なり妻が買い来て買うメダカ日毎つぎつぎ動かなくなり》。不憫なのはメダカか妻か。どちらなんだろうと考えるとまた可笑しいです。前回も数首取り上げましたが、オクムラ作品にときどき登場するマダム・オクムラ、素敵ですね。
天気●江ノ島にも出かけています。
愛用の浮き輪を使い長々と海に寝そべる泳ぎを休み
「愛用」て(笑。
うさぎ●そこはもう、鉄人ですから(笑)。亀に甲羅、人類に浮輪を。
天気●「初冬の石神井池」は、くつろぐオクムラさん、です。
うさぎ●本当によくお出かけになってます。
自販機の前で思案しアイスクリーム図柄で選びコインを落す
アイスクリームごときにも熟考です。「オカネ」や「硬貨」でなくて「コイン」。同義語からどの単語を選ぶかやはり熟考なさるのでしょうね。この場合、「コイン」だと落下音が聞こえるような気がします。
次の「蟬」の章にある
近づけば鳴き止みたれどしばしして先ずは小声に鳴き始めたり
自分でもなぜだかわからないのですが、これは抱きしめたいくらい好きです。一目惚れ。ハッと鳴き止んだ蝉がやや経って気配を窺いながらミーンと小っちゃく鳴き出すところ、もう可愛くって、ハートを鷲掴みされました。
天気●「対の歌」という、2首×5の10首。「対」というのは、短歌ではよく用いられるスタイルなのでしょうか。
「俳句の巨匠」の前書のある2首は、
九十を越えていよいよ盛んなる金子兜太の頭脳、精神力
金子兜太推奨の尿瓶(しびん)デパートの介護用品売場に鎮座す
尿瓶に着目とは、さすがです。「鎮座」がなにげなく技(わざ)ですね。
うさぎ●「鎮座」によって金子兜太と尿瓶が同格で結びついてしまったような。虎の威を借る、じゃないですが、この尿瓶には風格を感じます。
天気●尿瓶の風格!(笑
うさぎ●オクムラ作品の特徴のひとつとして、生き物であれ無機物であれ、与えられた力や備わっている機能を100パーセント、あるいはそれ以上活かしている状態に対する感動があると思うのですがどうでしょう? 金子兜太のバイタリティーもそのように読めるかな、と。
天気●洞察によって本質を引き出す。短詩の大事な役割のひとつかもしれませんね。
うさぎ●「こまかな雪」2首。
〈降(ふ)る〉と言うよりは〈ゆっくり下(お)りてくる〉こまかな雪が空間に満ち
きれいです。降り始めの雪でしょうか。静謐でやわらかな世界に包まれます。ひらがなが多くて1行が長いのも内容にマッチしています。
「樹木はつらい」のなかの1首。
いくら樹が伸びてもせいぜい一〇〇メートル天まで届く心配はない
これも結構ツボにはまりました。
天気●オクムラ的ツボですね。このパターンは。誰も心配していないことにあえて言及していて、「いや心配ないぞ」と。
うさぎ●「天まで届く」は一般的には願望は筈ですが、杞憂の逆バージョン的な心配が珍妙。まあ確かにねえ、雲の上まで伸びちゃったらそれこそ飛行機なんかオチオチ飛んでいられませんけれど……誰もそんな心配しないって(笑)
夫婦岩近くにカエル岩ありて言われてみればカエルに似てる
夫婦岩からカエル岩への視点の移行。言われるまでは気がつかなかったのに、それと見た途端にカエル岩の存在感がぐぐっと増すんですよね。相対的に夫婦岩が小さくなってしまう。
天気●「伊勢、志摩の旅」のなかの1首ですね。
うさぎ●こうした短歌が収まっている2011年のチャプターですが、東日本大震災と引き続いての福島の原発事故はやはり影を落としています。
微量なる放射能腹一杯に吸いてはためく真鯉、緋鯉も
屋根より高い鯉幟は幸せの象徴のはずだったのに。空恐ろしいです。
天気●「わ れも加担者」11首は、ある種、文明論的悲観に彩られた部分です。ここはかなり異色に感じました。1首1首はわかりやすく、内容に曖昧さはないのですが、 全体になると、私たちの現実の複雑さ、それは現実との関わり方においてシンプルなままでいさせてくれないたぐいの困難を含んだ複雑さなのですが、それが伝 わる。
部屋中の灯りを付けてキーを打つわれも加担者、原発事故の
オクムラさんが加担者なら、こうしてキーを打っている私たちも加担者、というわけです。で、どうすればいいのか。その答えはもちろんここには書かれていません。
うさぎ●政府や会社を責めてもその切っ先は自分たちに向いてもいるということ。
節電の役を担いて登場のいのち逞し緑のゴーヤ
オクムラ家もゴーヤのカーテンをこの夏に始めています。ゴーヤの連作はどれも捨てがたいのですが、このゴーヤの健気さに惹かれます。緑がとても眩しい。
天気●そこが私たちにとっての「救い」であり「希望」でしょうか。
殆どがあだ花と知るゴーヤにてそれでいいんだ葉さえ茂れば
そして最後のチャプターは「田老見聞記」。被災地の三陸・田老に出かけての24首です。
基礎のみを白く残して壊滅の更地となりぬ田老の町は
さきほどの「われも加担者」とは対照的に直截でシンプルな接近法と叙法で、被災後の田老を伝え、ご自身の悲嘆もまた率直に歌にされています。
歌 集『青草』には2009年から2011年まで3年間の作品。前中後篇に分ければ、後篇に3.11という出来事が入ってくる。おそらくこれをどのように歌集 に収めるかの工夫や葛藤があったと想像しますが、そうした過程を経て、私たち読者に届いた歌には、不思議に、イヤなザラツキがない。これは「奥村晃作同好 会」の贔屓目ではなく、やはり、歌を作るときに、正直に事実・現実と向き合っているからだと思います。
うさぎ●私 は震災の起こる数年前から俳句の友人たちと毎夏気仙沼に遊びに行っていたんです。一昨年の夏に再び訪れたときはその変わりように息を飲みました。この歌は すごくよく分かります。むき出しになった基礎工事部分の白さが際立つことのむごさ。「壊滅」という言葉はショッキングなんですけれども。
ちょっ と話が逸れるようですが、先に揚げた歌集『鴇色の足』のあとがきに歌人としての所信表明と読んでいいと思われることが書かれています。外界や物や事に出会 う都度動き出す、運動態としての心を<情(こころ)>と名付けた後、「その情を、感動を丸ごと掴み取って、微塵も損ねること なしに一種の中に取り込み、封じ込めるための最善の方法は、きっかけとなった物や事を、出会いの現場において、つまり時空の座標軸の上に、正確に表現する ことであると、私は信じている。」と続けています。この基本姿勢はおそらく変わっていませんね。
屋根の上に舟乗り上げて自動車はひっくり返って乗り上げている
堤防を一瞬に壊し家壊し高台の二軒のみ残りたり
1首目はおそらくテレビ映像でご覧になったものでしょう。二首目は田老で実際に目にされた光景です。先ほどの歌を含め無機的な叙述ですけれど、安易な情緒表現を用いない分、ストレートに胸に突き刺さってきて、読者は作者が衝撃を受けた瞬間を共有するのではないでしょうか。
天気●私たちもこうして電気を使っている以上、東電と違う国に住んでいるのではない。その複雑さを忘れず、「どうしてこんな海の近くに原発をつくった? 正気か?」と怒ったりもする。
わかったふうに、また楽観的に単純化するのはあまりにも愚かかもしれませんが、「健やかな知性」というものが大事だなと思いました。健やかな知性をみずからの内に育てて、それに正直に生きるしかないのだな、と思っています。
最後にちょっと深刻になっちゃいましたが、今回、『青草』を順に読んでいき、とても楽しかったです。次の歌集も楽しみです。心待ちにしたいと思います。
うさぎ●こ の歌集を読みながら再発見したのですけれど、オクムラ短歌を読んでいるときの喜びはアタマとかココロではなく、もっとプリミティブというか体内から湧き上 がってくる感じで、これはもう細胞レベルで反応しているんだと。細胞が活性化する実感があります。次の歌集、待ち遠しくて首が伸びそうです。
(了)
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