2014-12-14

【週俳11月の俳句を読む】私はYAKUZAⅧ 瀬戸正洋

【週俳11月の俳句を読む】
私はYAKUZA 

瀬戸正洋



九里順子氏は邑書林より句集「静物」を上梓した。

この句集には、三枚前後の「詩の基点」が掲載されている。その書き出しと終わりには、犀星の詩と俳句について書いてある。その詩と俳句とは、

「馬が虻に乗つて出かける山の中。」(『あらくれ』2巻9号 昭9・9)
「馬が虻に乗つて出かける秋の山」(『犀星発句集』野田書房 昭10・6)

である。このふたつの作品を例にし、「お手軽な往還に俳句の本質が読み取れるように思う。」と書く。「詩の基点」は、ここからはじまる。そして、少ない枚数にも係わらず、最後に、再び、このふたつの作品を取り上げ、

句点を外した「山」は、流れる時間の中からその場面を取り出され、まだ強い「秋」の日差を感じさせてくれる。僅かな差異が異なる次元の入口になること。それは、<詩>の基点である。俳句はこのような基点に成立している。

と書いた。

犀星の部屋にある道具類が非常に高価で良いもののように見える。机だとか灰皿だとか火鉢だとか、そういったものなのだが。思わず欲しくなってしまい、それを持ち帰り自分の部屋に置いてみる。すると、どこにでもある何の変哲もない普通の道具であることがわかる。犀星が使っているから、犀星の部屋にあるからこそ、その道具が引き立って見えたのだというようなことを、どこかの誰かが書いていた。このことは、犀星文学の本質に触れることなのかも知れない。

「週刊俳句」第394号に九里順子氏は「心なき窗」10句を発表した。

心なき窗より鴫の飛び立てり   九里順子

題名となった作品である。「心なき」とは断ち切りたくても断ち切れない心情なのだそうだが、それを持つものが「窗」であり、そこから「鴫」が飛び立っていくのである。「心なき窗」も「鴫」も作者自身であり、さらに「心なき窗」とは入口のことなのである。幼い頃、異なる世界に行くことのできる「抜け穴」がいくつもあったという作者にとって、この「窗」とは詩歌の世界に向うためのひとつの通り道なのである。

山水を嵌めて花鳥の塒かな              

自然の物寂しさやみすぼらしさを題材とすることが花鳥詠だと言っている。花鳥とは自然の風物を題材とした詩歌、絵画を楽しむこと。安直かも知れないが「嵌めて」を題材としてと訳してみる。また、嵌めるという表現から「嵌め込む」を連想し額の中の花鳥画を眺めているのかとも思った。これも、須らく安直な考えなのかも知れない。

羽化登仙爪の先まで草紅葉

昼酒に酔い野山を散策しているのだろう。一面の草紅葉に身体が染まっていく。それは爪の先までも続く。更に、快い酔いが身体を巡っているのだ。この作品の場合は、酒に「酔う」ことが異なった世界へ入るための入口の役割をしている。

ひとふでで描く稜線野紺菊

どこかに腰を下ろし目の前の風景を描いている。絵の具、あるいは、墨を使い、稜線を「ひとふで」で描く。気が付くと、そこには野紺菊が咲き乱れている。

秋寂びの声が出てくる喉ぼとけ  

人は声帯を振動させることにより声を発する。喉ぼとけが動くことにより声の質は変化する。秋も深まると枯野が広がりその色彩も薄れていく。生気や活気が衰え失われていくのだ。秋寂びの声とはそのような声なのであり、あたかも、喉ぼとけから発せられているように作者には感じられたのである。

その窗の深さに秋日差し込まぬ

窗を照らす秋の日差しは「深さ」のため床までは届かない。建物の高いところにある窗ということなのだろうか。あるいは地下室の窗のようなものなのだろうか。秋の日差しの明るさと、それが届かない室内の暗さ、それらを対比しているのだ。「その窗の深さ」とは、過去の自分を知るためのもの、あるいは、異次元の世界を覗き込むために何らかの役割を負っているものなのである。

わたくしを骨まで愛せ鰯雲  

鰯雲から肋骨を連想したのかも知れない。数十年前、骨まで愛して欲しいという歌謡曲があったがこの場合は命令である。女性からこのようなことを言われてみたい気もするが、女性からそう言われれば、その女性に近付きたいなどとは絶対に思わない。

すつぴんでするりセーター脱ぎながら  

化粧をしない人は、すっぴんとは言わない。それが当たり前なのだから。作者はセーターを脱いている時、すっぴんであるということに気付いた。すっぴんであるから何の気兼ねもなくセーターが脱げたのである。作者は、どこへも出掛けなかったのだろうか、出掛けてもすっぴんでもかまわないところへ出掛けたのだろうか。

柿色に燈るはるかな夜長かな

とある街角の「BAR」から柿色の灯りが漏れている。扉は開かれたままなのだ。カウンターには果物が置かれ、その中に柿の実もひとつ。「はるかな夜長」とは人生のことなのである。サントリーウヰスキー「オールド」のCMソング「夜が来る」のメロディーがどこからともなく聴こえてくる。don don din don shubi da don ...

月の蝕一重瞼は窓になる   

私は、「窗」と「窓」の違いがわからない。この雑文を書いているうちにわかるのかとも思ったが、結局、わからないまま10句が終わってしまった。作者は、この作品だけに「窓」という文字を使っている。日本人であることを意識しているのだろうか。月蝕といっても普通に暮す人々にとっては、何ら関心のない自然現象なのである。誰もが、いつもと同じような生活を送っている。確かに、人の一重瞼は窓になるのかも知れない。

句集「静物」の「あとがき」の中で、作者は、「人は、自分の生きてきた時間を何かに刻むことによって確かめる。―略― 甦る瞬間を目の前の情景として描きうるのが、俳句という形式だろう。」と書いている。だが、私の頭の中では、don don din don shubi da don ...のメロディーが、相変わらず駆け巡っているのだ。私は刻むものなど何も無いということに気付く。ことさら、小林亜星のぶっきらぼうな低音の唄声がこころに沁みる。「BAR」の扉とは、酒神の加護のもと、全く別の、新しい自分を知るために開かれているものなのかも知れない。今宵は、どの駅で下車しどの店に入ろうか。それとも、見たこともない「抜け穴」を見つけるために、はじめての店を開拓してみようかなどと考えている。

ところで、昨今、サントリーウヰスキー「オールド」を飲ませてくれる店などあるのだろうか。


第394号 2014年11月9日
秋尾 敏 何かある 10句 ≫読む
九里順子 心なき窗 10句 ≫読む
かたしま真実 凹み 10句 ≫読む
荒川倉庫 豚三十句 ≫読む
岡田一実 美食の耳 10句 ≫読む
太田うさぎ シナモン 10句 ≫読む

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