【週俳・1月2月の俳句を読む】
その青を結ぼう
羽田野令
結昆布結び目の暗きをつまむ 小野あらた
昆布は黒っぽいものであるし、結び目はその黒が何重か重なっているところなのだけれど、黒くはあっても普通は暗いとは言わない。食べ物をあまり明るいか暗いか等とは考えないが、例えば、硝子の器に盛られてドレッシングや香草を掛けられたサラダと比べてどちらが明るいか暗いかと言えば、サラダは明るくて昆布は暗いと思う。
結昆布は縁を結ぶ、喜ぶ、に掛けておめでたいものとされ、伝統的なおせち料理の一品で新年を寿ぐ食べ物である。それを「暗きをつまむ」と言って、めでたさの反対にあるもの、裏側を見るというのは個人の感性である。表面のものだけを見るのではなく、自意識にめり込んだようなこの見方は惹かれるところである。作者の言う「暗き」のゆえんを考えてみるに、村社会のうす暗い廚で女から女へ受け継がれて来たことによる暗さを、醤油のしみ込んだ昆布の煮しめは表しているとも言えるのか。
蜜垂れる女(をみな)の背中県境 花尻万博
和歌山県の県境は変っている。紀伊半島の山中、和歌山県と奈良県と三重県が接しているが、和歌山県は県の一番面積の大きなところから離れて。陸地の中に島のように和歌山県である地を持つ。所謂飛地である、奈良県と三重県の接する所の間を裂く様にして、和歌山県から滴たれている様に飛地がある。そのことを詠まれているのではないかと思う。
多雨の中で青々と樹木の育つ一帯、緑の色もひときわ濃い様に感じられる地方であるが、その地の持つ生命感を女の背と見立てて詠む。そして蜜。乳と蜜の流れるところという聖書の言葉を思い出すが、小さなこの地形をこの地に住む作者は、豊饒を表す言葉によって表現している。
おふとんも雲南省も二つ折り なかはられいこ
紙を二つに折るならきちんと折り目がついて二つの同じ形の重なりになるが、蒲団の場合はそうはいかない。綿で膨らんでいるから、そのふくらみのまま丸みを持って折り重ねられる。その蒲団と雲南省。なんとも変ったものが並べられているのだが、読んでいて雲南省という語の面白さを言っている句ではないかと思った。
雲南省のなかにある雲はふわふわしたものだし、南という字も北とは違った温かな感じがする。「うん」「なん」という音は似ていて、ふっくら畳まれた二つの面のようだという気もしてくる。「うん」「なん」と音が往復しているような感。「うん」と行って、折り返される方が「なん」だろうか。というのは、全くの誤解かもしれないが、私には言葉の持つ音と字から浮かぶものとに着目した句に思われる。「うんなん」が蒲団へ結びついたところに一句が成った。
清流の写真束ねる青い紐 兵頭全郎
紐だけがあって、青い色、何に使う?もしとてもきれいなブルーなら、空のようであり、海のようでもあり、碧を湛えているそんな紐だったら何に使うだろうか。・・・婚礼のsomething blueとして花嫁の衣装の裏に縫い付けるのはどうだろう。いやいや、それでは紐本来の使い方ではないから、紐としての用途を中心に考えるとやはり、何かを結んだり束ねたりということになる。そう、花を束ねる、サフランを束ねるのに丁度いい。四つんばいになって摘む少年のサフランのためにある紐。ちょうど岩の間の碧い波から取り出したように見える。でもそれは駄目だ。少年に届ける手だてはない。紐は、明日或いはその明日かそのまた明日わたしが撮る清流の写真を束ねるため。もう写真は紙に焼くことはあまりないけれど、美しい流れに遭ったら、写真に撮って紙に焼いて、写真のその流れに触れながらその青を結ぼう。
とおくからひとをみているおおかみよ 赤野四羽
人間社会から離れて人間の営みを見ているこの狼の目は、なにか神聖なもののような気がする。狼という言葉は「かみ」の音を含んでいるのだが、そればかりではなく、人間を外から見続ける存在というのは、人間の創り出した神しかあるまい。その鋭い目には、人間の愚かしさがさぞかし写っているのだろう。
第405号
■小野あらた 喰積 10句 ≫読む
第406号
■花尻万博 南紀 17句 ≫読む
第409号
■なかはられいこ テーマなんてない 10句 ≫読む
■兵頭全郎 ロゴマーク 10句 ≫読む
■赤野四羽 螺子と少年 10句 ≫読む
2015-03-08
【週俳・1月2月の俳句を読む】その青を結ぼう 羽田野令
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