2015-03-08

【週俳・1月2月の俳句を読む】私はYAKUZA Ⅸ 瀬戸正洋

【週俳・1月2月の俳句を読む】
私はYAKUZA Ⅸ

瀬戸正洋



馬鈴薯を五分程茹でて四等分にする。それをサランラップで包み会社に持っていく。胃が痛くなるとそれを歯ですり潰し唾液といっしょに飲み込む。三日、四日、続けると大概の痛みはなくなる。

三十歳代の頃、ストレスから来る胃痛のため通院したことがあった。胃潰瘍と診断された。病院で処方された薬を手放すことができなくなった。そんな時、薄汚れた喫茶店で無気味な老婆に出会った。「オニイサン、オニイサン」と話し掛けて来る。いい加減にあしらっていたら胃潰瘍の話になり「馬鈴薯を下し金で擦り、それをそのまま飲めば、あっというまに治っちまうよ」と老婆は言った。

さすがに、生の馬鈴薯を下し金で擦って飲むことには躊躇したが馬鈴薯を生茹でにして食べてみた。馬鈴薯の芯は冷たく生のままだ。無気味な老婆には不思議な力がある。珈琲一杯奢っただけの数十年前の思い出である。

それ以来、老婆と馬鈴薯に騙され続けている。既に、その時の老婆の齢を追い越してしまっているのかも知れない。騙され「続ける」ことは、信じることと同じことなのである。責任は自分自身にある。馬鈴薯がこの世から消えたら私は、再び、通院しなければならないと思う。

螺子としてひとの命よ国の春  赤野四羽

七十年以前の日本のことを思い出したりしている。作者は、ユーラシア大陸の西の方の戦のことを言っているのかも知れない。戦になれば、ひとの命は螺子のようなものだと言っているのかも知れない。同じように、戦後七十年間の日本人の命も等しく螺子であったのである。戦とか特異な環境になると人は特にそのことを強く感じる。

とおくからひとをみているおおかみよ  赤野四羽

おおかみは神様なのである。神様がとおくから私たちを眺めていらっしゃる。神様が近くにいらっしゃることはないのだ。それに気付くと、隠れてしまいたくなるほど、私たちはうろたえてしまう。そんな時、恐れ戦きうつむいてやり過ごすしか私たちには方法がないのだ。胃が痛くなるのは、決まってそんな時なのである。そして、私は呟く「汝自身を知れ」「度を越すなかれ」と。

紫陽花はつねにただしくあやまらぬ  赤野四羽

人間以外は常に正しい。これは常識である。自身を振り返ってみればよく解るだろう。何と恥の多い、くだらない人生であったのかと。そんな人間に対して、紫陽花があやまるはずなどないのだ。その中でも私は最低の人間だと思っているので、誰彼構うことなく、いくらでもあやまることができる。そんな訳で、時々、私の心が見透かされてしまい不快な顔を見せる人たちもおられる。そんな時、私は気付かないふりをする。

なんとなく崖へとすすむ蟻の列  赤野四羽

蟻とは作者自身なのである。蟻が列を成して崖に向って歩いている。崖にたどり着くと、蟻は垂直に下りて行くことができるのかも知れないが、私は、蟻は崖から落ちて死んでいく、そんな風景を想像する。何故ならば蟻は作者自身なのだから。最後尾あたりを歩いているのか、あるいは、崖の直前を歩いているのかは、誰も知らない。確かに、私たちは生まれた時から死に向って歩いているのだ。それも、なんとなく。自分だけは違うなどと間違っても思ってはいけない。なんとなく生まれて、なんとなく死んでいくのが、正しい人生のあり方なのだ。

コトあるごとに例えにされる柱  兵頭全郎

柱にとってみれば誇らしいことなのか、それとも不快なことなのか、それは私には解らない。だが、どんな時にでも例えになどされないものは、柱をどう思っているのだろうか。羨ましく思っているのかも知れない。私は、目立たず、相手にされないことを希望する。自分の好きなことだけができる能力と環境、それさえあれば幸せなことであると考える。こんなことを言うと「そんなに欲張ってはいけないよ」と、いつも、うしろの方から、誰かが私を戒めるのである。

ボタンにしか見えないものを押している  兵頭全郎

ボタンにしか見えないものは「ボタン」なのである。洋服の「ボタン」は、留めたり外したりするもので押すものではない。だが、「スイッチ」ならば押すことによって入ったり切れたりするのである。だが、作者は動き出すか否か半信半疑なのである。これが対話についてのことだとすると「ボタン」はどこにあるのだろうか。どの「ボタン」を押せば、私の言っていることを相手に理解してもらえるのだろうか。

緑と白の境が葱のなきどころ  なかはられいこ

全て緑色ならば「葱」ではないと思っているのである。全て白色ならば、それも「葱」ではないと思っているのである。人にとって「なきどころ」とは、その人の優しさが育つ大切な場所なのである。葱にとっても、葱であるために、その境は無くてはならないものなのである。

対を為す言葉に炬燵優しかり  花尻万博

対を成す言葉は私たちにとって優しい言葉なのだと言っている。つまり、片方だけで生きていくことは辛いことなのである。愛憎、善悪、明暗...。私たちの行為は何もかもが対を為しているのである。故に、自身の中で折り合いをつけることができる。もちろん、私たちにとって炬燵ほど優しいものはないのだ。

結昆布結び目の暗きをつまむ  小野あらた

暗きをつまむとした作者の心の動きに興味を覚えた。作者は、結昆布の結び目を見て「暗き」と感じなければならない何かがあったのである。お目出度いはずの結昆布をつまむ時、無意識のうちに正反対の表現になったということは、作者のこころのどこかに、負の何かが育ちはじめたのかも知れない。

私の住む集落にも診療所がある。その診療所の医師が結婚したというので、老人たちが、そのご夫妻を招いて、簡単な講演とお祝いを兼ねた茶話会を開いた。雨の降る休日で、何もすることがなかったので出掛けてみた。私は、馬鈴薯のことを聞いてみようと思っていた。「馬鈴薯は胃潰瘍に効くのか。馬鈴薯を齧り、胃の痛みが治まった場合、医学的にみて、それは、治ったといえるのか。」の二点である。

ところが、過疎地に暮す老人たちは、「終活」の話で、何故か盛り上がってしまい、私は、何も聞くことができなかった。せっかく診療所の医師夫妻をはじめ参加者全員が楽しんでいるのに、何もわざわざ、余計なことを話して、座を白けさせてしまうことはないだろうと思ったからである。雑木林には春の雨が降っている。


第405号
小野あらた 喰積 10句 ≫読む
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