2015-03-08

【週俳・1月2月の俳句を読む】すべての俳句は究極的にはトートロジーである 小野裕三

【週俳・1月2月の俳句を読む】
すべての俳句は究極的にはトートロジーである

小野裕三



数の子に黒皿透けてみどりいろ 小野あらた

色のことを詠んだ句は、昔から多くあると思います。よくよく見るとこんな色をしています、とか。なのですが、色の合成はあまり詠まれてこなかったのではないでしょうか。しかもこの句では、食べ物が透けて皿の色と合わさっている、という景。その上、黄色と黒が合わさって緑色、という、色としてはあまりきれいとも言いづらい色。特に食べ物の句は、色もおいしそうに表現されるのが不文律というものでしょう。その不文律が、あっさり無視されています。でも、結果としてとても特徴的な俳句に仕上がっています。

鼬得て温もりゆけり鼬罠 花尻万博

こういうトートロジーめいた俳句って、なぜだかけっこう名作を生むことが多い気がします。ふつうに考えれば、字数がきわめて限られた中でトートロジー的なことをやっているのは情報量的にムダ、ということになりそうですが、意外にそうでもない。これはきっと、俳句というものがそもそもトートロジー的な仕組みをどこか基盤にしているところがあるからのように思います。つまり、すべての俳句は究極的にはトートロジーである、と。虚子の句なんて、特にそんな気がします。トートロジーの回路をくるくると回っているうちに、気づいたらどこか不思議な場所に連れて行かれる、みたいな感じ。この句も、「鼬得て」と「鼬罠」のあいだでくるくるとトートロジーの回路が小気味よく回っていて、面白いです。

F2を押すと液晶身もだえす
 なかはられいこ

パソコンとかケータイとかスマホとか、そういうものを詠んだ俳句は意外に多いのです。みんな、俳句の素材としては目新しいだろうと思って取り上げるのですが、逆に言うとそこでは「目新しい風俗」であること以外に着眼点がないので、結果としてその句に着眼点の面白さはたぶんありません。おまけに実はけっこうたくさん詠まれるので、かなり食傷気味になります。そんな中で、「F2」ボタンのことを詠んだ人は過去に見たことがありません。液晶の身もだえも面白い見立て。新しい素材を、きちっと詩として消化できた好例の句だと思います。

ボタンにしか見えないものを押している 兵頭全郎

形式的には川柳のカテゴリーに入るのでしょうが、この句も、もっと俳句っぽくすることは物理的には可能です。「見えないものを押す」と整理すれば、あと三文字入る。「見えぬもの押す」と整理すれば、あと五文字入る。そこに季語を入れるというのは物理的には可能。さてそれでは斡旋は何がよいのか、とついつい考え出してしまいそう。この句ではそのような斡旋の余地を、実に潔く放棄しています。この潔さこそが川柳なのでしょうか。季語をどうしようかとか、斡旋はとか、そんなふうにうじうじしていない感じが、かえってすぱっと現代社会の一断面をうまく切り出しているような、そんな気がします。

とおくからひとをみているおおかみよ 赤野四羽

ひらがなだけの俳句というのはたまに見かけます。でも、全作品をひらがなだけで作っている俳人というのはいまだに見かけたことがないように思いますので、つまりある特定の句において、その作者なりのある種の合理性を持って(あるいは勇気を持って?)、その句を全部ひらがなにするという選択をするわけです。でも、そもそもひらがなという文字自体がその発生を遡ると、和歌とか連歌に近い場所から生まれてきました。当然、俳句の根源みたいなものともつながっているのでしょう。時々俳人たちがひらがなだけで俳句を作るのは、俳句の根源みたいな場所を少しだけ覗きに行っているのかも知れません。だからか、そんなひらがなの句はどことなくおとぎ話めいてもいます。ひらがなは、俳句の根源的な何かをいつもすうすうと呼吸しているのかも知れません。



第405号
小野あらた 喰積 10句 ≫読む
第406号
花尻万博 南紀 17句 ≫読む
第409号
なかはられいこ テーマなんてない 10句 ≫読む
 
兵頭全郎 ロゴマーク 10句 ≫読む
赤野四羽 螺子と少年 10句 ≫読む

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