2015-04-12

【週俳3月の俳句を読む】身体から私が抜けるまで 宮本佳世乃

【週俳3月の俳句を読む】
身体から私が抜けるまで

宮本佳世乃



冬日向赤いビーズの行方かな (悼まどみちお)   安西 篤

「影の木」の10句全体からは荒涼とした「匂い」を感じた。視覚でも聴覚でもない、嗅覚。人間にとって太古からある、安否を嗅ぎ分けるための感覚だ。
「人間吊るす」や「銀の鉗子」「被爆せり」などという言葉からは、今日何かが停滞しているようなやりきれない部分を感じた。
そのなかで揚句が放つ透明感には救われる思いがした。赤いビーズがいい。ほかの色なら冬日向の印象が薄れてしまう。
日だまりのなかに消えていく赤いビーズは、英知なのかもしれない。あるいは、明るさのなかにある冬が本来もつ侘しさだろうか。


いつもより人の影踏む雛の日   渡辺誠一郎

「国津神」、円環的な時間を感じられる10句だと思った。
私がいて、息をしていることと自然の歴史とが繋がっているようにも思えた。
それはこれらの句の世界を創造している言葉たちがもつ性質からくるのかもしれない。ゆったりと、うらうらと。
いつもの対比としての今日、もしくは今。それはいささかかもしれないけれど、俳句になる前と俳句になった後は明確にものの見えかたが変わっていることを示している。


膝ついて小さき川洲の芹を摘む   山西雅子

「母の顔」は温痛覚や触覚の10句であると感じた。
感覚というものは、私の身体からすうっと抜けていけることがある。
「そのとき」、私は風にもなれるし幼にもなれる。花木五倍子としてただ揺れていることもできる。
身体から私が抜けるまで、力を抜いて待つ。抜けていけたら、そこからは自在だ。


第412号
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渡辺誠一郎 国津神 10句 ≫読む
第413号
山西雅子 母の顔 10句 ≫読む

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