2015-04-12

【週俳3月の俳句を読む】私はYAKUZA Ⅹ  瀬戸正洋

【週俳3月の俳句を読む】
私はYAKUZA Ⅹ

瀬戸正洋



三ヶ月間、馬鈴薯を食べ続けたおかげで胃潰瘍もだいぶ落ち着いてきた。芯を少し残して茹で上げ、マヨネーズを添えて食べる。仕事に追い立てられた時、胃の存在を少し意識する。その程度まで持ち直してきた。馬鈴薯を食べ続けているので『牛肉と馬鈴薯』を読んでみようという気になった。何か唐突なような、こじ付けのような気がすると思うかも知れないが、私はいつもこのような流れで生きてきたし、誰も、気付かないだけで、多かれ少なかれ同じような繋がりの中で生活しているのだと思う。点と点で結ばれているだけの暮らしの範囲など、誰であっても、高が知れているものだ。

『牛肉と馬鈴薯』は、二十歳代の頃、文庫本で読んだ記憶がある。内容は忘れてしまった。家の中を引っ掻き回していたら文庫本ではなく、珠玉の名作選『武蔵野・牛肉と馬鈴薯他11編』国木田独歩(金園社、昭和45年9月1日刊、300円)が出てきた。金園社は他に、『酒中日記・運命論者』も出している。埃にまみれていなければ全くの新品で、この本は、一度も開いていなかったようだ。私は蔵書の半分程度しか読んでいないのかも知れない。

僕等は生まれてこの天地の間に来る、無我無心の小児の時から種々なことに出遇う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここにおいてかこの不可思議なる天地もいっこうに不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となってしまう。―(略)―どうにかしてこの古び果てた習慣の圧力から脱がれて、驚異の念をもってこの宇宙に俯迎介立したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯主義となろうが、はた厭世の徒となってこの生命を呪おうが、決して頓着しない!(『牛肉と馬鈴薯』国木田独歩)

英文の箇所は省いた。英文が読めないからだ。かといって日本文はしっかりと読めているのかと言われても困る。ただ、日本文を読むために「勘」を働かせることができるということだけだ。独歩は、現実と理想とは異なる、ある境地を求めている。それは驚異論である。そのことについて、自分の「不思議な」願いは驚くことだと言っている。「不思議な」と自分でも思っているのだ。

影の木に人間吊るす冬木立   安西 篤

光の当たらない暗い場所にある木に人間を吊るす。この人間は他者に吊るされたのである。他者とは何なのか。過去なのか、運命なのか、それとも、寿命を告げるために過去から来た飲んだくれの老人なのか。一歩離れると冬の落葉樹の林が広がっている。自分の死を離れたところから眺めているのだとしたら、これもまた、ひとつの自画像なのかも知れない。

未来よりの記憶かふくろう首回す

ふくろうが首を回している姿は過去の記憶ではないものを視ようとしているのだ。記憶とは経験であるということは常識だ。作者は目の前にある風景の、その先を視ようとしている。目の前の風景とは、ふくろうが首を回す風景なのである。作者は未来の記憶を思い出そうとしている。俳人は千里眼でなくてはならない。

色即是空尾骶骨より雪もよい

般若心経二百六十二文字のうちの四文字をはじめに置き、無に等しいはずの肉体に戻る。それも退化している尾骶骨なのである。そこから外に向って自己を解き放つ。その解き放たれた先は今にも雪の降り出しそうな空模様なのである。

せりなずなごぎようはこべら被曝せり

新しい年を祝い「七草粥」を食べる。これは邪気を祓い一年の無病息災と五穀豊穣を祈るための風習なのだ。日本列島はもとより地球のそこかしこが被爆し続けているである。いくら知らないふりをしても人類は汚染続けているのだ。


これから書くことは、どうでもいいことなのだが、私のつまらない感想だが、人は「碌でもないことばかりやりたがる」ような気がする。批判することは簡単だがそれを止めることは他人にはできない。胸に手を当てて人生を振り返ってみても、そのことは理解できるだろうし、新聞を読めば、うんざりするほど、そんなことばかり書いてある。

いつもより人の影踏む雛の日   渡辺誠一郎

人の影を踏むことを私は意識したことはない。だが、作者は人の影を踏むことを意識している。雛の日には人の影を多く踏んでいることを確認する。下を向き、人の影を踏むことばかり意識しているうちに作者は、祖霊や地霊と親しくなってしまったのかも知れない。作者は、改めて、人を愛しく思っているのに違いない。

春は曙末期に未来思うべし

人生が終わる時に未来のことを思うことは当然であると言っている。そのスイッチを入れたのは「春は曙」なのである。確かに過去を思い出しながら死を待つことより、来るか来ないか解らないにしても、明日の準備しておくことの方が正しい死に方のような気がする。

国津神坐せばたちまち春めけり

天津神がいくら座しても春めいては来ない。高天原出身者ではだめなのである。国津神が座すからこそ大地は春めいて来るのだ。作者ははじめからいらっしゃった神様に親しみを持っているのだろう。

差別とか区別という言葉がある。他人に対して使うと問題になるかも知れないが、自分自身に対して使うと非常に役に立つ言葉だと思う。理想と現実との中で折り合いを付けるためには無くてはならない言葉なのである。

薔薇いつも一つの距離でありにけり

薔薇とは美しいもの大切なものの象徴なのである。一定の距離を保ち続けることは非常に難しいことなのだ。この距離を誤ると、夫婦関係も、親子関係も、カウンターの内側の人との関係も危うくなってしまうのである。


但し、職場の人間関係だけは、何があっても違う。職場の人間関係は「適当」が一番なのである。何故ならば、彼らは決して薔薇ではないからだ。

母にその兄より手紙蕗の花   山西雅子

母に伯父より手紙が届いた。母に対して、お見舞い、あるいは、励ましの手紙なのかも知れない。その伯父は母のふるさとに住み、家を守っているのだろう。そこへは、作者も幼い頃、母に連れられてよく遊びに行ったのかも知れない。「蕗の花」からそんなことが思い出される。

母の顔剃れば健やか雛祭〉〈痛みまた襲ふ夜も黄のフリージア〉〈気付くとは常に遅るる柳の芽〉を読めば、作者が何故、母の傍にいるのかも理解できる。そこは、作者にとっては、ふるさとなのである。

春の灯や読みたるあとの新聞紙

作者は、ゆっくりと新聞を読んでいたのだった。だが、朝刊にしても夕刊にしても読み終わってしまえば新聞ではなく、ただの新聞「紙」になってしまう。読む前の新聞と読んだ後の新聞、新聞を読んでいる時の私と読んでいない時の私、その対比をおだやかな春の灯が照らしている。

現在は知らないが、数十年前、私の住む集落では、夕刊は翌日の朝刊といっしょに配達されていた。そんな訳で私の家は夕刊を断ってしまったのだという。新聞代は同じなのだそうだが、今でも、私の家では朝刊しか配達されていない。


胃が良くなってきたと思ったら目の調子がおかしい。片目ずつ見て気が付いたのだが左目の方が霞んで見える。それに太陽が眩しく感じるようになってきた。誰に聞くともなく、これは白内障だという。「手術は簡単なもので、数十分程度で済み、日帰りもある。白内障を治すには手術するしか方法はない」と言われ、眼科医に行くことを勧められた。

眼科医で視力検査と眼圧の検査を済ませ診察室に入った。「視力は裸眼で、0.7。眼鏡を掛けて1.2。眼圧も正常。乱視が少し入っていますが、問題ありませんね。」と医師は言った。「白内障ではないんですか」と尋ねると「霞んで見えるから、そうなんでしょう」と答え「白内障の薬はありません。眼鏡を掛けて、視力が0.7になったら手術を考えましょう」と言われた。


眼科医へ行くと必ず視力と眼圧を測定し診察室へ入る。何故、そうしていたのかが理解できたような気がした。視力さえあれば白内障の症状が出ていても問題はないということなのか。目が健康であるか否かは視力により判断する。これも、私にとっての些細な驚きのひとつなのかも知れない。


第412号
安西 篤 影の木 10句 ≫読む
渡辺誠一郎 国津神 10句 ≫読む
第413号
山西雅子 母の顔 10句 ≫読む

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