2015-04-12

【週俳3月の俳句を読む】切迫する声 岡野泰輔

【週俳3月の俳句を読む】
切迫する声

岡野泰輔



俳句は声だ、と考える、ときどき。

俳句を作る環境はほとんど自宅のデスク。メモ用紙とキーボードと電子辞書の間を目は忙しなく動いている。気がつくと耳はほとんど声を聴いていない。
BGMがときどき聞こえる。(因みに私的に背景音はバロックが最高)

そんなわけで自分の句を声として聴くのは句会での他人の声が初めてである。

そこで自分の句の音声としての貧しさに出合う。読みの巧拙もあるが、切れをどこで、あるいはどの程度意識して読むか、あるいは句跨りをどう読みこなすか、読み方によって句の印象はずい分違う。他人の読みによって句の景色が一気に啓かれることもたまにある。そういうことだったのか・・・と。

前置き長いね、要するに

痛みまた襲ふ夜も黄のフリージア   山西雅子

早い話がこの句なんです。意味の上では襲ふまでの八音と以下の九音に分かれますが、読むときは イタミマタ/オソウ、ヨモ、キノ/フリージア とこんなふうになる、私は。中七の音と意味の相乗された切迫感がいいんです、来るんです、私には。特に「夜も黄の」→「ヨモキノ」。この黄色の不吉なこと。
どんな痛みなんだろう?

一方、こんなのもあります。

せりなずなごぎようはこべら被曝せり   安西 篤

わらべ歌ではないが、そのようにして憶えている。七草のうち四種が前半の十二音に納まる。下五、座五ともいう場所には、なんと仏の座。この尽くし言葉、もともと俳句の韻律でできている。せりなずな~はこべらまで平板に読んで、結句で被爆芹!(ヒバクセリ)あれ、芹がでてきた。読みながら結句部分では仏の座も遠く響いている。みな野の花だけに被爆がリアル。
子供の合唱に声明がオーバーダビングされている。

これはどうだろう。

春霙中空涙ほども濡れず   渡辺誠一郎

五七五の音数律で読もうとすれば齟齬を来たす、読みの不全感が句の中央に居座り、それが中空という何とも半端な空間と、濡れずという半端な否定の総じて虚の美学によく見合っている。霙とか涙とか書かれているものの実体はなく虚空に響く幻聴のようでもある。「中空涙ほども」はアレグロと読み速度の指示を入れたい。ミゾレ、ナカゾラ、ホド、ヌレズ、と濁音群も中間の速度を要請している。


第412号
安西 篤 影の木 10句 ≫読む
渡辺誠一郎 国津神 10句 ≫読む
第413号
山西雅子 母の顔 10句 ≫読む

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