2015-05-10

【週俳4月の俳句を読む】よすてびとのうた 瀬戸正洋

【週俳4月の俳句を読む】
よすてびとのうた

瀬戸正洋


北大路翼の「花の記憶」十二句は、句集「天使の涎」が尼崎市武庫之荘の邑書林より刊行され、その余韻の中で作られた、作者らしからぬ穏やかな作品群である。

なんとなく付き合つてゐる福寿草  北大路翼

男女間に関係なく、ひととは、なんとなく付き合うことが正しいのである。深くもなく浅くもなく、近くもなく遠くもなく。福寿草が咲いているところをみると、それなりの関係を保っていることが理解できる。

紅梅やキスするときの身長差  
北大路翼

キスをしようとしたら梅の香に気付いた。あたりを見回せば紅梅が咲いている。梅林に紛れ込んでしまったのだ。そんな行為の中で腰を屈めている自分に気が付く。自分自身のことを別の自分として見ることができたこと、それは男女間の問題では基本中の基本なのである。

温泉のタイルのぬめり辛夷咲く  北大路翼

タイルが滑っている。山奥の鄙びた温泉宿なのかも知れない。掃除が行き届いていないことなど、さして、重要なことではない。辛夷の花の咲く温泉宿、それだけで十分なのである。タイルが滑れば足もとも覚束ない。転ばないように彼女に手を差し伸べること。これは、ひととして大切なことなのである。

遅桜お金がなくなつたら死なう  北大路翼

お金がなくなったら死ぬのではなく「死のう」なのである。男女間の問題の究極は心中であることは、古今東西の文学を読めば一目瞭然なのである。この情熱、スレッカラシの老人にとっては、羨ましい限りだ。遅桜の季節、「遅」という言葉も意味深といえば意味深な言葉だと思う。

見たことがない苧環が誕生花  
北大路翼

 苧環が誕生花であることを知った。だが、それは作者の知らない花なのである。何気ない会話の中から、そんなことを知った。どうでもいいことだと作者は思っている。 

近づくほどにブラジャーは紫陽花だな  北大路翼

彼女は釦を外す。遠くから見ると胸のあたりが紫陽花のように見えた。ブラジャーが紫陽花なのではなく、彼女の胸のあたりの全てが紫陽花なのである。

姫女苑ごまかしながら連れて来る  北大路翼

連れて来るという表現から、恐る恐る手を繋ぎながら部屋の中まで連れ込んで来た作者の表情を伺うことができる。作者は、その筋の大家であるが、このような場合もあるのである。もちろん、それを楽しんでいることも理解できる。「連れて来る」がいい。

百日紅女に運転してもらふ
  北大路翼

運転しているのは高級車。そうなると、運転しているのは美熟女。連れて行ってもらう場所は料亭、鮨屋、レストラン、あるいは連れ込み宿ではなく一流のホテルなのかも知れない。あるいは、中古の軽自動車ならば、運転するのは年下の彼女。薄汚れた安アパートへ送ってもらうのだ。「百日紅」から、ひとりやふたりではなく、作者を助手席に乗せる複数の女を思い浮かべる。

傷つきし猫は君かも野菊の上
  北大路翼

野菊の上で猫が日向ぼっこをしているのだろう。実際に傷ついているのは猫ではなく猫に乗られている野菊の方なのである。それを眺めている作者は、傷ついている彼女に対して、傷ついている自分自身に対しても思いを馳せている。何故ならば、彼女を傷つけたのは作者自身だからだ。

葛の花小さき車窓に顔二つ
  北大路翼

葛の花は、摘まれて車窓に置かれているのかもしれない。作者はホームに居るのである。車中の二人は、言葉を交わしたり、作者に手を振ったりしているのだろう。小さな車窓なのだから、何も二人で顔を出さなくてもいいのではないかと作者は思っている。

葉牡丹が特殊な性癖だとしたら
  北大路翼

葉牡丹が何を象徴しているのか。男女間の問題で特殊な性癖といえば...。ただ、普段の暮らしの中で使う性癖というと性格とは異なり負の傾向が強いような気がする。葉牡丹とは特殊な性癖を持つ人間に愛される植物なのである。

ポインセチア君の電話がやたら鳴る
  北大路翼

二人で居るとき、相手の携帯が頻りと鳴ることは面白くないものだ。ポインセチアといえばクリスマスである。この恋はクリスマスから始まった。作者はスリルな気持ちを味わっているのだ。電話が鳴らなくなったとき、その恋は終わるのかも知れない。

「捜龍譚(どらごんくえすと)純情編」を私は知らない。知らない故に、前書きに束縛されてしまっている。そんな訳で、なかなか、書き出すことができない。「捜龍譚」を読んでみようとも思わない。(「捜龍譚」は読むものなのかも知らない)前書きを読むと、ものがたりのあらすじは何となく見えてくる。何度読んでも、作者が浮かんでこない。いくら書こうとしても跳ね返されてしまう。歯が立たないということなんだろう。

それでも、一作品だけ、

 このあなにはいっていったものは だれもかえってこぬ。
けふはこの子の宮参り
  外山一機
ひとつ落ちましよ
どんひやらゝ

洞窟へ入ったものは誰も帰って来ることができない。お宮参りの日に、この穴に落ちてみようかというのだ。冒険には神様のご加護は必要なことだ。景気づけに「どんひやらゝ」という合いの手が入る。この子は、ものがたりの中で宿された子なのかも知れない。もちろん、落ちてみようと思っているのは作者自身なのである。無謀なことなのかも知れない。だが、得てしてひとは、気が付かないだけで、このようなことを、日常茶飯事的にしているのである。そんなとき、頼るのは神様のほかはいない。

これが「捜龍譚(どらごんくえすと)純情編」に対する、私の限界である。今まで、このような作品に対して雑文を書いたことがなかったからなのかも知れない。歯が立たないことが解ったとき、半惚けのちんぴら老人は退散してもかまわないだろうと思う。

花時やいまも昔も頬やせて
  阪西敦子

さくらをながめながら誰もが、あと何回、この花を、この季節を迎えることができるのかと思うのであろう。作者は旧友と会っているのかも知れない。その人は、今も昔も変わらないなと思う。頬とは、頬だけのことではない。すがたも精神も、そのひとの全てのことなのである。もちろん、作者自身も何も変わっていない。あたりまえといえば、あたりまえの話なのである。

腕組みのポケット歪む花見かな
  阪西敦子

相手はポケットに手を突っ込んでいる。その腕に作者は腕を絡ませているのだ。相手のポケットは歪んでいる。花の下では宴会の真っ最中。ふたりは、そんな中、腕を組みながら酔っ払いの集団を眺めながら、言葉を交わし散策をしている。

春昼のネオン時々目覚めけり
  阪西敦子

春昼は誰もが眠りたくなる季節だ。作者は、昼間でもネオンのある場所にいる。眠っているのは赤ん坊なのだろうか。赤ん坊は眠るのが仕事だ。そして、時々、目覚める。目覚めた時に、赤ん坊は周囲のひとたちを幸福にする。

桜さくら空の見えない桜かな
  阪西敦子

満開の桜の木の下にいる。見上げると枝は重なり空の見えないほど咲き誇っている。「空の見えない」と置き、あとは、さくらで調子を整えている。さくらの美しさにとても感動し何も言いたくなくなってしまったということなのであろう。

血管の眠りて桜色となる  阪西敦子

眠れば血管も眠るのであると思ってしまった。さくらの季節なので眠るのだ。血管だけではなく、その眠っているひとそのものが桜色なのである。だが、血液は脈々と血管の中を流れている。

田楽の跡の皿掻く串の先
  阪西敦子

田楽を食べたあとの皿の上に残っている味噌だれを、食べたあと、その串を使って掻いているということなのだろう。作者は、相手に何かを告げたいのである。だが、それを言い出せずに残った味噌だれを串で掻きながら、話し始める切っ掛けを伺っている。

爪切りて手の皺新た百千鳥  阪西敦子

爪を切った時にあらためて手の皺をまざまざと見たのである。そこには、いろいろの鳥がいる。公園の池の辺のベンチなのかも知れない。老眼鏡を掛け太陽の下にて爪を切る。深爪をしないために。不幸にならないために。

茫々と地下の涸びや花の雨  阪西敦子

地下街はどこもかしこも涸びているような気がする。さくらの季節なので、なおさら、そのように感じる。地上では花の雨が降っている。

春灯の届いてをりぬ庭の椅子  阪西敦子

庭木に遮られて椅子にまで春の灯りが届かない。作者は庭の椅子に座っているのかも知れない。寒さも和らぎ、春風に誘われて作者は庭へ出たのだろう。

硝子戸へ人よき顔を月朧  阪西敦子

田舎でよく見掛ける玄関の硝子戸であろうか。硝子戸に手を掛けようとした時、そのひとは、とてもよい顔をしたのである。それが横顔でもはっきりと解った。充実したよい一日だったのだろう。天空には、ぼんやりとかすんだ月が出ている。

西原天気の「戦争」を憲法記念日に読んでいる。単なる偶然ではあるが、何となく面白く感じ、思わず、記してしまった。

戦争にいろんな事情九条葱  西原天気

それぞれの主張を掲げる平和主義者たちが自分の主張が正しいと争いを始める。そんなときは、冷凍うどんを冷凍庫から取り出し、刻んだ九条葱だけで食べるに限る。空腹が満たされてくれば、いろんな事情もいつのまにか消えてしまうものだ。

乳首ああ冬の乳房のてつぺんに
  西原天気

誰の乳首なのだろうか。乳房とあるから女性なのだろう。乳首が乳房のてっぺんにある。言われてみればなるほどだと思う。もしかしたら、こんな発見の積み重ねが、他人に対して、女性に対して、おおらかに接するために必要なことなのかも知れない。

いきなりの展開熊を撃つ女  西原天気

熊が現れたことがいきなりの展開なのである。その熊を女が撃ったこともいきなりの展開なのである。そのとき、右に行くか、左に行くか。瞬時に、正しい判断ができるように、俳人は俳句を作り続けなければならないのだ。

一年中おでんつくつてゐる会社
  西原天気

生活の糧を得るための職場。良いこともあれば悪いこともある。希望もあれば不満もある。ただ、それだけのことなのである。どろどろした人間関係。会社にとっては誰も彼もがひとつの歯車なのである。

おでんのネタをつくっている会社の社員が帰宅途中、おでん屋で一杯引っ掛けて帰る。カウンターの中ではおでんがグツグツと煮えている。ネタには個性がある。それぞれの個性を調和させているのがおでん屋の主人なのである。おでん屋の主人の頭の中には平和に暮らすためのヒントが詰まっている。

代々木署へ俺のふとんを取りにゆく  西原天気

どなたかが、そのようなことになり、作者は代々木署へふとんを差し入れた。おおごとにはならず、そのひとは、すぐに帰され、そのふとんを引き取りに行った。あるいは、買ったふとんをどこかに置き忘れ、交番に届けておいたら、見つかったという連絡が入り、代々木署まで、取りに行った。あるいは、作者が、不孝にも酔っぱらって、そこに、一泊、あるいは、二泊されて出て来た場合は、第三者から差し入れられたふとんは、取りに行ったのではなく、持ち帰ったということになるのだ。ところで、作者は代々木署へいったい何を取りに行ったのだろうか。

トリオ・ロス・パンチョス春を待つ心  西原天気

誰もいない早春の午後、ひとり、台所で朝刊を読んでいたら、ラジオからトリオ・ロス・パンチョスが流れてきた。今日は、ことのほか、寒さを感じる。灯油も安くなってきたことだしストーブでも点けようかなどと思っている。原油価格が上がらないことを願っている。

街ぢゆうにネヂ軋ませて家具の恋  西原天気

家具は嬉しいのである。家具の喜びを表現するにはネジを軋ませること以外に方法はないと作者は考えた。作者は、いったい誰に恋しているのだろう。

うれしいとはしやぐいそぎんちやくひらく
  西原天気

たまたま、いそぎんちゃくがひらいていたのである。うれしいとはしゃいでいるのは作者なのである。だが、ひらいているいそぎんちゃくを眺めて、いそぎんちゃくは怒っていると感ずることもある。ひとの目は、何を見ていても自分自身のことを見ているに過ぎないのかも知れない。

鉄分を豊かに春の眠りかな
  西原天気

鉄分不足は睡眠を妨げる。春は体が眠りをことのほか欲する季節である。そんなとき、たっぷり眠らないで、いったい何時眠るのだ。目覚めれば、雑木林を、あるいは、畦道を散策することも楽しい。何もかもが芽吹く季節なのである。疲れがたまるとひとは得てして碌なことを考えないのである。

戦争はぜつたいあかん夏蜜柑
  西原天気

夏蜜柑の酸っぱさを噛み締めなければならない。酸っぱくなければ夏蜜柑ではないのだ。「ぜったいあかん」というのは甘い夏蜜柑はあかんということなのだ。「夏蜜柑をすこしでも甘くなるように改良しよう」などと考えてはいけないのである。そんなことを考えているうちは、人類は戦争を回避することなどできない。

楤の芽の天麩羅を飽きるほど食べた。雨が多かったせいか、摘み取っても、摘み取っても、いくらでも芽が出てくる。そんなとき、畦道に咲く、菜の花も摘み取り天麩羅にした。楤の芽も菜の花も、辛子で和えてお浸しにして食べても悪くはない。

筍は季節になると従兄弟が夜明け前に玄関に届けておいてくれる。今年は、猪にやられて全滅してしまったと言い、庭に続く竹林のいつもと比べて細身の筍を届けてくれた。老妻は、さっそく油揚げを買い、筍づくしの夕餉とした。トリオ・ロス・パンチョスが流れている。そんな日は、半惚け老人にとっては、ことのほか贅沢な一日なのである。




第415号2015年4月5日
北大路翼 花の記憶 12句 ≫読む
 
外山一機 捜龍譚 純情編 10句 ≫読む 
阪西敦子 届いて 10句 ≫読む
第416号 2015年4月12日
西原天気 戦 争 10句 ≫読む

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