【週俳5月の俳句を読む】
記 憶
中山奈々
眠っていた。目が醒めると同時に、さっきまで見ていた夢を、脳が必死に消し始める。身体があちこち痛む。傾いたから寝相によって痛められた身体を早く使えるようにしないと。脳の一部の電波が、夢を消すのやめて、痛みを除去する。おかげで夢はまだらに消され、時折、間違えて過去も消す。そうやってなにがなんだかわからない脳に今日の記憶が刻まれるのだろう。
腹にたまった水分を排出してもとれない微熱。そして疲れ。昨日は何をしていたのか。記憶は曖昧で。ああそうか。消されたのだ。間違えて。そのくせ子どものころの記憶は鮮明で。子どものころと、今とのあいだがすぽんと抜けて、きっとはじかれていたんだ。自分の人生から。
雪間草青年ヘーゲル派が眠る 五十嵐秀彦
一時期学問の場がヘーゲル派にしか開放されなかったように。はじかれて。そのヘーゲル派だって分裂して。まるで痛みながら眠っていた眠っていた私の身体の細胞のように。分裂。
ぽるぽとの死後つちふまずつちふまず 武藤雅治
分裂しているのではない。神経が目覚め始めているのだ。ああ、昨日脱ぎ捨てた靴下が足裏に当たる。アルコールで動きの鈍い血流もその小さな布切れに愛着を抱く。もう一度触れてみる。ああどうか、手足が奪われませんように。
方丈のぐるりの縁の緑雨かな 村上鞆彦
身体が痛むたび、まじないのように「ミミモトジ」と呟く。『死者の書』をいつも二三ページで閉じてしまうため、主人公を腐敗臭から救ってあげられない。そう。誰ひとりとして救った記憶なんてない。消さなくて、ない。そんな記憶は。
だから寝そべる。そしてアルコールを摂取する。
緑陰のほら吹き輩座談会 森島裕雄
アルコールによって滑舌がよくなったら、話すんだ。まだらな夢と過去の記憶と、本の知識と。全部自分の体験として。
そのときは私はだれで、だれが私か分からなくなる。わからないなら戻れ。前世まで。
籐椅子に十七歳となりて猫 下坂速穂
眠っていた。私も歳をとったが、籐椅子も歳をとったようだ。ささくれに、びくっとしながら目覚め、過去の、木登りのことを思い出している。
空の青さだけは憶えているが、自分が誰だったのか、憶えていない。
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