【週俳7月の俳句を読む】
よすてびとのうたⅣ
瀬戸正洋
生きた証など何も残すこともできずに死んでいく。大方の人にとっては、これが現実なのである。今までが、そうだったのだから、これから、私の人生に新しい何かがはじまるのだなどと思うほど馬鹿ではない。
帰宅途中に赤提灯に引っ掛かってしまえば、帰宅後、風呂に入り眠るだけ。どこにも寄らず無事帰宅できたとしても、風呂のあとの冷たいビールを片手に、録画しておいたサスペンスドラマを見る。老妻は「前も見たじゃない」とせせら笑う。
老人にとって夜更かしは禁物なのである。明日の労働のため睡眠はたっぷりと取らなければならない。酒を飲むということは体力がいるのである。
雲の峰獣ほとんど繋がれて 仮屋賢一
ほとんどの獣が繋がれている。繋いだのは雲の峰なのである。人間は誰もが繋がれている。繋いだのは雲の峰なのである。ほとんどの人間は、そのことを知らない。知っていても知らないふりをしている。俳人だけは薄々気付いているのかも知れない。
籐椅子のジョーカー右往左往かな 仮屋賢一
うろたえているのはひとだけなのである。ジョーカーは右に往ったり左に往ったりして楽しんでいる。籐椅子に座りトランプゲームをするなど中々優雅な生活である。そんな優雅な生活ができるのはジョーカーであるからなのである。ひととは毎日を右往左往しながらあたふたと生きていくものなのだ。
誰彼が見る誰彼が蛍指し 仮屋賢一
ひとが見ているのも蛍でありひとが指差しているのも蛍なのである。蛍が見ているのもひとなのであり蛍が指差しているのもひとなのである。風情を壊してはならないのである。蛍の怖さを知っている者は、決して、蛍を指差したりはしないものだ。
羞づかしき罪のいくつか形代吹く 仮屋賢一
羞づかしき罪とは人生そのものなのである。その罪のいくつかを形代に移し、祓えをして流したのである。形代吹くとは形代が風に吹かれていることではない。「羞づかしき罪」を移された形代が身悶えているのである。信じることでひとは心を穏やかにし何とか生きている。生きていくこととは見っとも無いことなのである。
閂をはずして茅の輪とほまきに 仮屋賢一
茅の輪くぐる前の人より頭下げ
世話役が閂を外す。氏子たちは、それを遠巻きに眺めている。世話役は順番に氏子たちを誘導する。ひとりふたりと茅の輪をくぐりはじめる。作者は前のひとより頭を深々と下げ茅の輪くぐりをしたのであった。
夕立や旧字の交じる注意書 仮屋賢一
夕立である。誰も彼もが走り出す。作者は注意書を見たとき違和感を覚えた。それは、注意書には旧字が交じっていたからである。作者が、その違和感に気付いたのは幾日か経ってその場所を歩いたときなのである。
象潟の此処らは紙魚の腹のなか 安里琉太
紙魚に食べられてしまった箇所を見つけて既に紙魚の腹のなかなのだろうと思っている。紙魚にしてみればご馳走なのである。誰が何と言おうと食べなければ死んでしまうのだ。象潟は「奥の細道」の最北の地である。北へ向わず、この地より南下をはじめた芭蕉と、紙魚がこの書物を食べてしまったこととは、どちらも神様のお導きなのである。
灯ともせばいづこの影も夜涼かな 安里琉太
灯を点さなければ影は生まれないのである。生まれた影のどれにも涼気があるのである。影とは納涼のためのアイテムのひとつなのである。だが、影には影の生き方があることを私たちは忘れてはならない。
ときじくの鰡のあぎとふ合歓の花 安里琉太
「ときじく」と「鰡」が繋がらない。「水面近くで口をぱくぱくしている鰡」と「合歓の花」が繋がらない。もしかしたら、鰡は何か言いたいのか知れない。鰡は海水魚であり合歓の花は野原に咲くのである。どちらかを情景とすればいいのかも知れない。とにかく不思議な光景だと思う。
かき氷丈の高さをほめそやす 安里琉太
丈の高さを褒めているのである。それもひとりやふたりではなく大勢で褒めているのである。これでもかこれでもかと思うくらい褒めているのである。何を褒めているのかと思い返してみれば、かき氷の丈の高さなのである。どうでもいいことなのである。どうでもいいことを褒めている。数の力というのは恐ろしいものなのである。
夏痩の瞳は雲をうつしけり 安里琉太
疲れるとひとは風を眺めるのである。遠くの風を眺めるのである。直接、風を確認することはできない。ひとは流れる雲を見て風が吹いていることを知る。ひとは風を眺めている。だが、瞳には雲しか映っていない。
吾もまた灼くるひとつとしてゐたり 安里琉太
誰もが同じように影響を受けている。私も同じように、そこに居たひとりとして影響を受けている。見習うべきものは太陽なのである。届く限りどこにでも誰にでも分け隔てなく光を注ぐことは難しい。「えこひいき」とは美しい言葉なのである。私は、することも、されることも、大好きなのである。
なきごゑの四方へ抜けたる夏落葉 安里琉太
泣き声の聞こえなくなったのは四方へ抜けたからなのである。泣き声は永遠に地上を走り続けるのである。その泣き声を癒してくれるのが夏の落葉なのである。いまごろ、泣き声は地上のどこかを、こちらに向って懸命に走り続けていることだろう。
シャワー浴ぶまなうらに日の沈まざる 安里琉太
海で泳いだのである。シャワーを浴びても体の火照りは収まらない。その状態を「まなうらに日の沈まざる」と表現したのである。作者は、快い疲労に包まれている。
朝の音いやだな起きる音 馬場古戸暢
朝になると決まってある音が聞こえる。その音が作者にとって一日の始まる音なのである。作者にとっては小鳥の囀りさえも嫌な音なのである。起きなければならないからである。さて、作者は行かなければならない場所があることが嫌なのだろうか。それとも、どこへも行く場所がないことが嫌なのだろうか。
髭剃りへ風来る窓だ 馬場古戸暢
髭を剃ろうとしたら風を感じた。窓を開けたからなのである。だが、風は窓からしか入ってこないと思うことは間違いなのである。うしろの壁からも天井からも床からも風は吹いて来るのである。作者は髭を剃っているときだけは窓から風が吹いてきて欲しいと願っている。
降り始めた空へ口開けてやる 馬場古戸暢
雨が降ってきたので口を開いて天を仰ぐ。舌に一粒の雨。ひとは、何故、このような仕草をするのだろうか。もしかしたら、無限なる宇宙からのエネルギー受けようとする、ささやかな無意識の行為なのかも知れない。
アイス買うて帰る夏夜猫 馬場古戸暢
アイス買うて帰る、のあと「夏」「夜」「猫」と名詞が続く。作者は、コンビニエンスストアーから帰宅するまでの間、「夏」になり、「夜」になり、そして、「猫」になったのである。
褥濡らした夕立だったか 馬場古戸暢
褥が濡れている。夕立が濡らしたのかも知れない。だか、本当は違う理由があったのである。誰もが夕立だと思っているのだから何も本当のことを言う必要はないのだと作者は思っている。何も言わない方が、波風を立てない方が、日々は穏やかに過ぎていくのである。
シュラフで寝入る台所の軋む音 馬場古戸暢
シュラフの中で寝入ってしまった。台所の軋む音がする。台所の引き戸が軋んで音を立てているのではない。台所、そのものが軋んでいるのだ。作者が、それに気付いてしまったのはシェラフで寝入ってしまったからからなのである。
死者の僕による死者のための九段の梅雨 竹岡一郎
九段の梅雨とは、うごめく靖国神社をイメージする。当然のことだが、うごめいているのは生きている人間なのである。作者は敢えて、死者となり死者のための言葉を紡ぎたいと願う。それは、強制されたものでもなく、飾られたものでもなく、正しく日本人の声なのである。
辻の血を吸つて躑躅が咲く今後 竹岡一郎
躑躅が赤く咲いたのは辻の血を吸ったからなのである。血を吸わなければ花は紅くは咲かないのである。辻とは戦場ということなのかも知れない。私たちが躑躅を見て、癒されるのは、その歴史と、それに係わったひとびとの恩恵なのである。私たちは隠されている誤魔化しや偽善や嘘をしっかりと見極めなくてはならない。
僕の巴里祭ツナ缶開ける音だけして 竹岡一郎
ツナ缶は一番ポピュラーな缶詰である。七月十四日、作者はツナ缶を開ける音を聞いた。それが自分にとっての巴里祭であると言っている。ただ、それだけのことなのである。そのツナ缶、自分で開けたのか、それとも、家人が開けたのか。ささやかな巴里祭であると思う。
光速を超えて他生へ未生へ灼け 竹岡一郎
自分ではない生へ、自分ではあるが未来の生へ、灼き尽くせ、あるいは、ひかり輝けと言っている。それも光速ではなく光速を超えた速さでである。作者は何かに苛立っているのだ。それは、時代に対してなのかも知れない。あるいは、自分自身に対してなのかも知れない。
耳目から戦火したたらぬ日は無し 竹岡一郎
テレビ、あるいは、インターネットから戦争の情報の流されない日はないと言っている。ただ、それだけのことを言っているのだ。作者は、そのことを肯定しているのか否定しているのか私にはわからない。だが、為政者に対して不快感を持っているとは思う。もちろん、自己嫌悪も含めて。
餓死ありと朝焼の鳩鳴き止まぬ 竹岡一郎
栄養失調により死ぬことを餓死という。それは自分から離れた場所での出来事なのである。身近な場所では鳩が鳴き続けている。鳩は平和の象徴である。そして、目の前には朝焼け。それは、雨の降る前兆だとも言われている。
俯瞰して郷(くに)は潰瘍たり溽暑 竹岡一郎
高台からふるさとを見下ろせば、あちらこちらが開発されていて昔の面影などどこにもない。暑さに堪えているのは身体や心ばかりでなく、ふるさとそのものも堪えているのだ。
作者には、ふるさとが戦場となっている光景が見えているのだ。
友訪へば人の背丈の蛭しなび 竹岡一郎
血をイメージする作品である。友人を訪問したら蛭を見つけたということなのだろう。作者には、蛭が人の背丈ほどに育つ不快な理由があったのである。故に、友人を訪ねたくなったのである。
鳩は嘴開け蟷螂まさに生れ零れ 竹岡一郎
嘴を開いた鳩と生まれると同時に零れていく蟷螂。平和を象徴する鳩であっても生きるためには他の生を殺さなくてはならないのである。蟷螂がどのように生まれるのかは知らないが、生れ零れからは想像はできる。無意識のうちに、ひとは誰も残酷な行為をしているものなのである。
自傷あまたの四肢暮れなづむ学校プール 竹岡一郎
両手両足の傷ならば生に関しては、それほどの問題はないだろう。原因は自分にあるのでなおさらのことである。だが、不快であることには変わりはない。職員室から、あるいは、教室からプールを眺めているのだろう。プールサイドは、濡れているだけで、そこには誰もいない。
花火あふぐ顔融け合ふや無辜なるや 竹岡一郎
誰もが花火を仰ぎ見ている。顔が融け合うとはひとと花火とがひとつになることなのである。確かに、罪のないことには違いない。
ひもじいと沼が光るよ祭あと 竹岡一郎
はじまるまでが楽しいのである。祭がはじまってしまえば、あとは、終わるのを待つだけだ。何よりも準備の時が楽しいのである。祭のあとに、ひもじさを感じるのはこころの問題なのである。沼ぐらい光ってくれなければ、こののち、生きていく希望もなくなってしまう。
割腹のあとのうつろも夕焼くる 竹岡一郎
割腹とは自裁のことだが命ぜられてするものである。自らの意志により割腹した人といえば三島由紀夫しか私は知らない。私が高校生のときであった。学校から帰るバスのラジオから、そのニュースは流れていた。割腹のあとは虚しいものだと作者は言う。
それでも、何事もなかったかのように日は沈み、西の空は夕焼けで赤く染まる。
大陸が海を埋め立てつつ焦げる 竹岡一郎
海を埋め立てているのは大陸の意志なのである。ちっぽけな人間の意志などではない。焦げるとは争うということなのである。大陸の意志なのだからこそ人は争うのである。大義名分とは重宝な言葉だと思う。
昼寝して知らぬ赤子が這ひまはる 竹岡一郎
昼寝していると知らない赤子が這いまわっているのである。それは夢なのか現なのか。その赤子は父なのかも知れない。あるいは母なのかも知れない。たとえば、見知らぬ男が赤子である作者を抱いていたりする夢ならば、祖先が作者を守ってくれていることになる。作者は愛されているのである。
水漬く鞄がとめどなく産む舟虫 竹岡一郎
軍歌を連想する書き出しである。波打ち際に流れ着いた鞄が舟虫の通り道になり鞄が舟虫をとめどなく生んでいるように見える。だが、真実は波打ち際に流れ着いた屍から蛆が生れ蠅が群がっていることなのである。作者には日本の未来が視えているのかも知れない。
晩夏ことに睡眠薬の舌に痛し 竹岡一郎
舌に苦いのではない。舌に痛いのである。ことに晩夏、睡眠薬が舌に痛いのである。平成二十七年の晩夏、睡眠薬が舌に痛いのである。
寂静や寝冷子に鬼寄り添へる 竹岡一郎
寂静とは煩悩を離れた解脱の境地であるという。それでも、寝冷子に鬼が寄り添うのである。煩悩を離れた解脱の境地の鬼が寄り添いたいと願っているのかも知れない。つまり、鬼は自身が鬼の役割を捨ててしまおうと考えているのである。
瓜熟れて円錐のまた太るなり 青本柚紀
瓜と円錐のあるものとの関係を言っている。瓜が熟れると円錐のあるものが、また、太るのであると言っている。
むかしむかし、年が詰まると場末のスナックできらびやかで安っぽい円錐形の帽子を被らされ高い安酒を飲まされた。馬鹿な私たちはその帽子を被ったまま、肩を組み、改札口を通り抜け帰宅を急ぐのであった。その頃の、改札口は肩を組んでも通り抜けられたのであった。
過去ばかり見てゐる海老の曲がり方 青本柚紀
過去のことばかり考えているとひとも海老のように曲がってしまうのだと言っている。曲がり方について考えることは無用のことなのである。賛成するか反対するか決断することが大切なのである。
明るい惨劇けふも胡瓜は曲がつてゐる 青本柚紀
胡瓜が曲がっていることを明るい惨劇だと言っている。それならば、真っ直ぐな胡瓜は惨劇ではないのかというとそうでもないらしい。何故ならば、明るい惨劇だからである。たまには、胡瓜も私たちと同じように曲がってみたいと思うこともあるのだ。
噴水が平らで街の死が近い 青本柚紀
死に向かっている街だなと感じるときがある。酔って繁華街を歩いていて、やけに明る過ぎる、やけに陽気だなと思うときである。噴水そのものが自然ではないにしろ、噴水を平らにしようとする、自然を捻じ曲げようとする、ひとのエゴイズムを否定するだけでは、街は決して生き返らないと思う。
母語どこにもなくて花火が水に映る 青本柚紀
この花火は縁日とか駄菓子屋に売っているものだ。たとえば、火消し用にバケツに水を汲んで置けば、そこに映ったのかも知れない。公園ならば池に映ったのかも知れない。母語がどこにもないということだから、日本語を話す多国籍の人たちが花火を楽しんでいるということになるのだろうか。
邂逅の窓汚れゐる如く夏雲 生駒大祐
何の変哲もない窓。それは、作者にとって思い出の窓なのである。窓から夏雲が見える。その日から汚れ続けてきたのはまぎれもなく作者自身なのである。大切な人が亡くなったとき、誰も自身の薄汚さに気付くものなのである。
君持つ其れ流木或いは氷菓の匙 生駒大祐
木片を持っている。それは流木、あるいは氷菓の匙。自然なものと加工されたもの。それを持っているのは死者でもあり作者自身でもあるのだ。氷菓の甘さとは悔いの残る人生を象徴しているのかも知れない。
遠い祭囃子呼吸に水を使ふ彼ら 生駒大祐
むかし、ふたりで縁日を歩いた。遠くに祭囃子が聞こえる。呼吸に水を使う彼らとは金魚掬いの金魚のことなのである。ふたりで金魚掬いをしたのである。ビニール袋に金魚を入れてもらう。それを眺めながら、どちらかが「金魚って呼吸するのに水を使うんだね」って言ったのかも知れない。
昔話止めて帰しぬ熱帯夜就寝のため 生駒大祐
葬儀とは再会の場である。それは、死者から生者への最後の贈り物なのだ。旧友同士でむかし話に花を咲かせている。二、三人ならばBARのカウンター、五、六人ならば居酒屋。作者は彼らを眠らせるため、彼らと別れて自分ひとりになるためにお開きにしたのである。
真白き箱折紙の蟬を入れる箱 生駒大祐
真白き箱は骨箱のイメージもある。その箱に、折り紙の蝉を入れるという。それは、ひとつひとつの思い出を確認していく作業であり、さらに、その思い出を、無意識のうちに忘れていこうとする作業でもあるのだ。真白き箱とは折り紙の蝉だけを入れる箱なのである。
灼けて全て光駅に待てる列車すらも 生駒大祐
夏の太陽の直射熱は地上の何もかもを光にしてしまうのである。この列車は亡き友を光とともに宇宙へ連れて行ってしまう列車なのである。さらに、作者自身を、またもとの何の変哲もない現実へ連れ戻してしまう列車なのでもある。
そして夏は終る車内束の間楽流れ 生駒大祐
その年の夏は終わったのである。
音楽が流れ駅名が告げられる。作者は網棚から荷物を降ろしドアに向って歩き始める。ドアが開き冷房の車内から真夏のプラットホームへ。そのとき、作者は悲しみも思い出も何もかも捨て去り、またもとの平凡な暮らしへの第一歩を踏み出すのだ。
作者は「夏の訃」という作品を書かなければならなかったのである。書かなければ心の整理をすること、現実との折り合いをつけることができないと思ったのである。このことは文学に関り合うひとにとっては大切なことだと思う。
とある鮨屋の職人と親しくなった。生ビール四杯、日本酒二合で帰ることにしている。私には丁度良い酒量なのである。それにあわせて、焼いたり煮たり、その日の新鮮なネタをいろいろ出してくれる。一生懸命、考えてくれているという思いが伝わってくることが嬉しい。
ある日、お世話になっているお礼ですと言って伊勢丹の紙袋を渡された。開けてみると、江戸切子のぐい呑が入っていた。ここで使って下さいという。その日から、この店の私専用のぐい呑になった。新宿まで買いに行ったのだと言うのでお礼も渡しておいた。
だが、その職人、いつもカウンターの前に立てる訳ではないらしい。先輩の休みの日に立つのだという。曜日を変えて行ったりすると、店の奥からのれん越しに顔を出し挨拶される。
私には何かが足りないのである。それは山葵なのかも知れない。刻み葱と生姜なのかも知れない。あるいは、海鞘の塩辛の塩加減なのかも知れない。私にはよくわからないのである。
誰も彼もが笑っている。笑顔の中にいることは幸福なことなのである。いつのまにかに、ひとは生れ、そして、死んでいく。怯えることなく苦しむことなく、その日が、突然、やってくることを願い「かんぴょうをつまみで、山葵で和えてね」などと言っている。
第429号2015年7月12日
■仮屋賢一 誰彼が 10句 ≫読む
■安里琉太 なきごゑ 10句 ≫読む
第430号2015年7月19日
■馬場古戸暢 一日 10句 ≫読む
■竹岡一郎 炎帝よなべて地獄は事も無し 30句 ≫読む
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