時計と言葉とそれらがほんとであるということ
『久保田万太郎句集』の一句
福田若之
時計屋の時計春の夜どれがほんと 久保田万太郎
あるものは壁に掛けられ、あるものは立てられ、あるものはショーケースに飾られながら、時計屋の時計は、それぞれにばらばらの時を刻んでいる。春の夜である。どれが「ほんと」なのだろうか。
『久保田万太郎句集』の一句
福田若之
時計屋の時計春の夜どれがほんと 久保田万太郎
あるものは壁に掛けられ、あるものは立てられ、あるものはショーケースに飾られながら、時計屋の時計は、それぞれにばらばらの時を刻んでいる。春の夜である。どれが「ほんと」なのだろうか。
だが、そもそも、その問いでよかったのだろうか。時計屋の時計は、どれかが「ほんと」であるのだろうか。
もちろん、様々な時計がありうる。振り子時計、ゼンマイ式時計、デジタル時計……砂時計や日時計や水時計などのことはいまはおいておこう。共通していることは、それらが決して時間そのものを提示しているのではないということだ。時計を使うとき、人は時間を目の当たりにしているのではない。時計は時間を間接的に表す記号にすぎないのだ。
では、それらの記号が「ほんと」であるというのはどういうことだろうか。たとえば、今、あるデジタル時計が2015年8月8日の午後8時を示しているとしよう。それが「ほんと」かどうかは、どのようにして確かめられるだろうか。おそらくあなたはこう返すだろう。正しいことが分かっている時計と比べてみればいい、と。だが、それなら、正しいことが分かっている時計とは、いったいどんな時計だろう。
正しいことが分かっている時計とは、一般に、正しいことが分かっている時計に合わせられた時計である。だが、それだけでは、われわれは限りなく遡らなければならないことになってしまうだろう。もちろん、実際にはそうではなく、この遡行には終わりがある。標準時である。
しかし、標準時とは、その決定について、そもそも極めて恣意的なものではなかったか。標準時は、それを正しいと決めたから正しいのであって、それ以上の何ものでもない。要するに、ある時計が「ほんと」であるとみなされるかどうかは、結局のところ、標準時の決め方次第ということだ。時間を知らせる道具としての時計の正しさとは、そのようなものに過ぎない。正しい時計と狂った時計があるのではない。時計の帝国主義、あるいは時計のファシズムがあるのだ。時計と植民地主義のかかわりはおそらく実質的なものだろう。
時計屋の時計のどれが「ほんと」であるかを問うとき、句の語り手は、それらのうちのどれかが「ほんと」であると信じている。時計が時間を指し示すように思われるのは実際にはある約束事によってのことに過ぎないが、このとき、彼はたしかにその約束事を暗黙の前提として受け入れ、たしかにそれに縛られているのである。しかし、今が春の夜であると確かに感じているにもかかわらず、数ある時計のどれが「ほんと」か彼には分からないということが、それ自体、時計の正しさについての規定が恣意的なものに過ぎないことを示唆してもいる。感じられる春の夜という時間と正しい時刻やそれを指し示す「ほんと」の時計とのあいだには、結局のところ恣意的な結びつきしかない。この句においては、問いが暗黙の前提としている正しさの基準が、その問い自体の成り立ちによって揺さぶられているのである。
ところで、言葉と事物の関係は時計と時間の関係に似ている。言葉にしても時計にしても、道具としての記号は、それによっては本来提示できないものを提示するかのようにふるまう。誰も言葉で事物それ自体を提示することなどできないのに、人は、あたかもそれができるかのようにしてそれらの言葉を受け渡す。このとき、人は、言葉と事物を結びつける一定の約束事を前提としている。そして、その限りで、言葉は、ちょうど時計が標準時に基づいて正しいか狂っているかを判定されるのと同様に、あらかじめ構成された歴史的で辞書的な体系に基づいてその選択の妥当性を確認される[i]。
たとえば、ここに、いくつかの線の組み合わせとして描かれた「春の夜」という文様が見いだせる。これが言葉として何かしらを表しているかのようにふるまうのは、まずもって日本語の規定に従ってのことだ。万太郎は、この言葉を言葉として用いる限りにおいて、日本語の約束事に縛られているのだ。
ただし、ここで例として挙げた「春の夜」という言葉は、ただの言葉ではない。これは季語である。このことは注意を要する。ある言葉が、ただの言葉としてではなく、とりわけ季語として読まれるときには、それが単に時計に似ていると述べるだけでは不充分であるように思われる。通常、季語として読まれる言葉は春夏秋冬あるいは新年のいずれかを約束事に従って指し示し、また、そのことによって時間を間接的に表す。われわれもよく知っているように、これこそ季語の定義にほかならない。そして、季語のこの性質は、時計が時刻を指し示し、そのことで時間を間接的に表すのと同じである。したがって、季語は時計に似ているのではない。季語とは時計なのである。仮にその時計が止まってしまっているのだとしても、そうなのだ。
そして、「春の夜」という言葉もまた時計だというのであれば、「ほんと」なのか分からないのは、もはや、時計屋の時計ばかりではないということになるだろう。時計屋の時計、「春の夜」、どれが「ほんと」なのだろうか。時計屋の時計と、「春の夜」という言葉と、どれがほんとか、もう分からないのである。この読みにおいては、句中の「春の夜」はそれが本来指し示すはずだったものをもはや指し示さなくなる。もはや、「春の夜」は時計そのものではない。それは時計の写しでしかないのだ。事態は複雑である。おそらく、このような読みのもとでも、句の語り手は、単に「春の夜」という言葉を意識しているだけでなく、そう呼ばれる時間を現に過ごしていると考えざるをえない。そうでなければ、ここで意識にのぼる言葉が「春の夜」である必然性はもはやないだろう。だが、この句の語り手は、それにもかかわらず、この「春の夜」という言葉が通常この言葉によって意味される時間帯を指し示すということがはたして「ほんと」なのかどうかということを、改めて問いかけているのである。
「春の夜」という言葉がほとんど「春の夜」という言葉それ自体をのみ表わしているこのとき、われわれは、それをもはや言葉ではないただの文様と見なしたほうがよいのかもしれない。だが、いずれにしても、そこにその文様、すなわち「春の夜」という文様、あるいは「時計屋の時計春の夜どれがほんと」という文様があることだけは、たしかである。
そもそも、書かれた言葉はただの文様としてもそこにあることができたはずのものだ。それゆえ、書かれた言葉は文様として鑑賞されうるだろう。なにより、「時計屋の時計春の夜どれがほんと」は、そのような鑑賞にもきっと堪えうるだろう。この句の「春の夜」という一部分についてわれわれが今しがた確認したことは、そうしたことであろう。
ところで、時計もまた、それ自体としての鑑賞に堪えうるものではなかったか。とりわけ、時計屋においてはそうではなかっただろうか。時計屋に行ったとき、どの時計を買うか、われわれはそれが示している時刻を見て決めるのではなく、時計そのものを見て決めるのではなかったか。置き時計を買うのに、その針が規則正しく動くこと、時報がちゃんと必要な数だけ鳴ることはたしかに大事なことには違いない。しかし、それ以上に、あなたは、それがものとして自分の家に置いておきたいものかどうか、たとえば、それが部屋に合うかどうかといったことを、考えるはずだ。そのとき、時計はいくらか美的に鑑賞されている。時計には、仮にそれが正しい時刻を知らせていなくとも、ものとしての美しさがある。だからこそ、時計屋の時計は、ばらばらの時刻を示していても、ゼンマイを巻かれないまま止まっていても、かまわないのではなかったか。
そして、このとき、見方を変えればどの時計も「ほんと」なのである。そこに、現に、ものとして、ある。したがって、やはり言葉は時計に似ているし、季語とは時計なのである。言葉をそれとして眺めるなら、その意味がどれほど嘘や偽りに満ち溢れていたとしても、どれも、現に、そこに、ある。少なくとも、言葉をそれとして眺めるということは、それが、そこに、そのようにしてあると信じることのはずだ。
時計や言葉はそれが指し示すとされているものを真に指し示すことは決してないが、それ自体としては疑いようもなく存在している。すなわち、時計や言葉はどれかが「ほんと」なのではなく、どれも「ほんと」ではないと同時に、どれも「ほんと」なのである。
「時計屋の時計春の夜どれがほんと」と書いたとき、万太郎はおそらく、時計屋の時計が時間を表しているのだと信じていただろうし、ましてや、一句がその意味によって「ほんと」の世界そのものを表すということを疑わなかっただろう。だが、それでも、先に述べたように、それが書かれた言葉であるかぎり、この句はそれそのものでしかないような文様としても眺めることができるのだ。
時計屋には時計がたくさんあって、それが売られている。ところで、季語が時計であるならば、季語を含んだ俳句は時計を内蔵した言葉である。そして、季語にのみ着目するなら、季語を含んだ俳句は全体がひとつの時計とも見なしうる(人々がしばしば携帯電話をあたかも最新式の懐中時計であるかのように使うことを思い起こしてほしい)。時計が並べ置かれている時計屋と俳句が並べ置かれている句集には、どこか似たところがあるように思われてくる。句集には、季語を含んだ無数の句が、止まった時計のようにして、それぞれに別の時間を指し示すかのようにして、並べられている。だが、実際のところ、それらはどれも「ほんと」ではなく、そしてまた同時に、どれも「ほんと」なのである。
あらゆる時計、あらゆる言葉が「ほんと」であるということは、すなわち、それらが過去の証であるということだ。どんなに新しい言葉にも、どんなに新しい時計にも、過去がある。古い句集の焼けた紙の上に見つけられる一句は、われわれに時間を感じさせずにはおかない。言葉や時計がここにこうしてあるという事実は、いつでも過去に支えられている。言葉や時計を記号として見るとき、われわれはそのことをどうしても忘れがちになる。反復された記号はわれわれの習慣に刻み付けられており、あまりにも自然に理解できるので、われわれの意識を記号が記号として今ここに見いだされるまでの歴史的な過程から反らしてしまう。過去は、言葉や時計をただそれとして見るときにこそ、強く思い起こされるのである。
[i] このように時計と言語を類比的に考えるとき、人は「標準時」という言葉から「標準語」という言葉を連想するかもしれない。しかし、ここでは、時計と標準時の関係が単に言葉と標準語の関係に似ていると主張したいのではない。語と意味の関係があらかじめ決定されている限りにおいて、あらゆる語は何らかの仕方で標準化された語の用法に従属しているように思われる。
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