【週俳8月の俳句を読む】
描かれたこと
阪西敦子
テレビから音出て黴のコンセント 宮崎玲奈
テレビを点ければ音が出るし、点くためにはコンセントが繋がっている必要がある。描かれたそれ自体は、ある状態であれば何ら不思議のないこと。しかし、それが敢えて描かれれば、もしかしたらその通常の状態ではないのではないかという疑念が湧いてくる。テレビは点いていないのではないか、それなのに音がでているのではないか、それはコンセントについた黴のさせる音なのではないか。
知り合いもなくて夏祭に二人 柴田麻美子
引越してきたばかりであろうか、あるはずの知り合いもないということは。祭といえば夏であるところを夏祭と呼ぶあたりにも、そういう名で近所で呼ばれている小さな祭りという風情がある。新しい街の初めての季節にすこしづつ馴染んでゆく家庭の二人という姿もほほえましいが、「一人の体ではない」ところの二人なのかもしれない。
洗ひたる手をまだ洗ひ秋の水 藤井あかり
「手をよく洗う人は罪悪感がある」とある日聞かされて手を洗いにくくなった。それだからかもしれないけれど、なにか切羽詰まるような、あるいは放心したような、やや異常に始まった句が秋の水に終わるとき、ほっとした一方で、なにか謎が解けていないような、宙ぶらりんの余韻がなかなか気持ち悪い。いえ、よい意味で。
裸子は風に鳴るべくおほきな木 大塚凱
裸といってついてまわる熱気や、充満感、湿度などはこの句からほとんど感じられない。あるのは轟々と駆け上がる生命の音。
棒読みの防災無線南瓜切る 江渡華子
防災無線から情感のこもった声がしたらさぞかし落ち着かないことだろう。落ち着いて南瓜も切ってはおれまい。わかっていることではあるけれど、改めていわれればそれにはそれなりの味わいが生まれる。地味で静かでされど気の抜けない時間が刻々過ぎてゆく。
カミングアウトを徐々に進行して木槿 中山奈々
リストカットをしない代わりにぼろぼろの鰯雲
なるほどそうであったのか。虚をつく言葉は、率直であればあるほど、体の奥へすっと入ってきてしまう。これから見る木槿、これから見る鰯雲は、これまでとは違う形。
洗ったらお姫様用になるトマト 中谷理紗子
洗って艶をあらわにしたトマトは、姫への献上品にうってつけ。トマトの前の軽い間が、トマトは何か、トマトでなければ何か、いろいろ考えさせて楽しい。
第432号 2015年8月2日
■宮﨑玲奈 からころ水 10句 ≫読む
第433号 2015年8月9日
■柴田麻美子 雌である 10句 ≫読む
第434号 2015年8月16日
■青本瑞季 光足りず 10句 ≫読む
第435号 2015年8月23日
■藤井あかり 黙秘 10句 ≫読む
■大塚凱 ラジオと海流 10句 ≫読む
第436号 2015年8月30日
■江渡華子 目 10句 ≫読む
■中山奈々 薬 20句 ≫読む
■中谷理紗子 鼓舞するための 10句 ≫読む
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