【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
繋がる言葉
森山いほこ
わかめ好きの私は毎年6月、横浜スタジアムの周りで開催されるバザーへ出かける。正面入口を入ってすぐの所に「鳴門わかめ」が店開きする。もう10年以上も私はここの客。どっさり買って冷凍しておけば数ヶ月はわかめに不自由しない。塩漬けわかめを水に戻すと数分で柔らかく腰のある肉厚のわかめが蘇る。世の中の好きな食品のベストファイブを挙げよと言われたら私は躊躇わず「わかめ」を一つ挙げるだろう。
そんな私の目に留まった「ふるえるわかめ」。
むむ!私の身近にあるわかめがどんどん変身してゆく。
泣いたってわかめわかめのショウタイム 榊 陽子
泣いたっての「たって」に、泣いても笑ってもというヒロインの思いと開き直りが篭っている。これからわかめ尽くしのショウタイム。
水に戻した緑のわかめが蛇口の下でゆらゆら動くのは、何 かショーめいている。涙と笑いの予兆。
夢忘れ老いぼれわかめ走るよホイ 榊 陽子
夢に膨らんだ身体を持て余していたのは何歳の頃か。そんな身体だっていつのまにか少しづつ萎んで夢を忘れてしまう。悲しいかな老いぼれに年齢の規定はないのだ。30代40代だって自身が老いぼれと思えば老いぼれ。この年齢不詳のヒロイン、老いぼれわかめが世の中を疾走するのである。〔ホイ〕が切なくて可愛い。そして可笑しい。人はどんなアクシデントに遭遇しても「ホイ」と飛び越えねばならぬ。
わかめ=私であることは言うまでもない。
暮らしより遠のく身体鰯雲 千倉由穂
作者の暮らしの実態はOLだろうか。それとも弁護士?介護士?或いは美容師?どんな仕事の環境にあっても人は暮らしという宿命からは逃れられない。繰返される毎日は平凡、時に苛酷。そんな日常がふっと遠のいてしまう一瞬。こんな一瞬、詠めそうで詠めない。現実の暮らしを忘れてしまう「身体」と果てしなく広がる「鰯雲」だけが厳然として存在する。何処かに怠惰な匂いもする。
凍星のどこかでペンを置く教師 千倉由穂
映画の一齣のように「ペンを置く教師」がクローズアップされる。この場合ペンを置くのが教師ではなく、小説家や教授では全く様にならない。教師という地味であってエネルギッシュ、そして何処にでも居そうな職業だからこそこのしぐさにストーリー性があり、読者を誘い込む。山のようにある答案用紙。ほんのひと時の休憩時間かも知れぬ。ペンを置く小さな音をまるで何億光年の凍星から届いたかのように錯覚してしまう。
「要らん子」と競技場が僕吐く秋 竹岡一郎
数万人が観戦した競技場出口。興奮冷めやらぬ貌貌貌が出口に殺到する。後ろからの「早く出ろよ」と言わんばかりの威圧感を全身に浴びながら出口ゲートより吐き出される。「僕は要らん子ではないのか」と少年の頃思った両親への懐疑心がふと蘇る。少年の登竜門の如く多くが感じるであろう「要らん子」疑惑。懐かしさほろ苦さが体中に溢れる一瞬。秋が良い。
議事堂無月見渡す限り髑髏馬 竹岡一郎
まずリズムが独特。「議事堂無月」は仮名にして七文字。この僅か七文字の言葉以上に今の社会を端的に表す言葉を私は知らない。議事堂の背景は「無月」。今の政治を司る象徴としての議事堂に何の希望をも見い出せない作者の貌が少し見えてくる。そんな議事堂を見渡す限りの「髑髏馬」が埋め尽しているのだ。異常な光景である。「髑髏馬」から連想出来るのは「竈馬」。馬繋がりの言葉である。竈馬は鳴かない虫として時々俳句に登場する。「竈馬」転じて声を出さない「髑髏馬」へと繋がる。何と寂しい無音世界なのだろう。声の無い世の恐ろしさを叫んでいる作者の声も髑髏馬の中に埋没されてしまいそう。
だがしかし……無月は夜を重ねる度にほんの僅かづつではあるけれど明るくなってゆく。微かなそれでも確かな希望があるのにほっとする。
後篇:
番外篇:正義は詩じゃないなら自らの悪を詠い造兵廠の株価鰻上り
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