2016-02-14

【週俳1月の俳句を読む】 壺に嵌まる 竹内宗一郎

【週俳1月の俳句を読む】 
壺に嵌まる

竹内宗一郎


俳句では、「先入観を排した凝視の中に『永遠』が顔を出し、生きている『自分』が刻印される」と習ってきた。
この言葉は、カッコいい。句作の視座としては、絶対に間違っていない、と信じている。
でも、読む際には、俳句には実に多様な滋味があって、どうやらそれを感じるのは、読み方次第で、多面性(作品をいろんな側面から見た時の物珍しさ)とか、多角性(作者の立場の違いに思いを馳せた時の際どさ)とかのうちのどこかが一瞬心に引っ掛かるからなのだと思い始めた。壺に嵌まるというのはその辺りのどれかですね、きっと。


特集 2016「週俳」新年詠

ゆるゆると初夢をでて夢に入る  月野ぽぽな

誰しも経験のありそうな事象。夢から覚めて、覚めきらずにまた眠ってしまう。このことを連続的に捉えた事象が「ゆるゆると」の表現でモワモワっと急所をつかんだ。本来初夢は元日の夜から二日にかけて見る夢だが、掲句では、大晦日にカウントダウンとか言って夜更かしをした後の元旦の布団の中のイメージもある。去年今年貫く棒のような「夢」ですな。

「お正月ですから」とばかり言うてをり  松尾清隆

あるある、と思わせて、経験の中から更にいろいろな場面を蘇らせてくれる。朝からお酒を飲むのも「ま、今日はお正月ですから」と許される、だらだらと飲み食いするのもそれ。お笑い番組を何時間も観て「お正月ですから」、普段は学習を強いられる子供もずっとゲームかなんかしていて「ま、お正月ですから」。そう、実際には正月にかこつけて言い訳ばかりしているのだ。そこが楽しいし、このセリフを俳句として切り取った作者が可笑しい。壺に嵌まりました。

餅抜きの雑煮に浮かぶ毬麩かな  猫髭

餅抜きの雑煮が常識を超えている、が実際にある。そこがリアル。予定調和でないところに真実がある。予定調和を壊すところに俳句の魅力がある。そして掲句では「毬麩」がきれい、これは正月に対してある意味調和的。でもこれがないと句としては救われない。


今泉礼奈「顔の高さ」

冬芒ちがふ高さに流れけり  今泉礼奈

蠟梅が顔の高さにあれば寄る

「高さ」という言葉が使われている二句。高低を捉える、違う高さと同じ高さ。この空間の把握が眼目。

冬芒は枯芒ほど乾き切ってはいない。だから、ぎりぎりのところでしなやかさが残っていて、風が吹けば流れるように見える。また、秋のそれと比べれば一本一本の成長の差があからさまになっている。なので丈の違いから風が吹けば違う高さに流れるように見える。

一方、蠟梅の句は人間の本質を切り取っていて巧み。吟行で顔のあたりの高さに蠟梅を見つけようものなら、近寄って行って、鼻を差し込むようにして香りを嗅ぐ方がいらっしゃいますものね。

対象が各々、冬芒、蠟梅と違ってはいても、いずれも作者の凝視が感じられる確かな写生句。


椎野順子「身と海水」

牡蠣殻隙間ナイフ揺すりて差し込みぬ  椎野順子

貝柱伐れば牡蠣開くゆつくりと

牡蠣開け師開けくるる牡蠣そのまま食ふ

連続的な人間の所作の確かな切り取り。感情を排した「写生」の妙。上等な俳句は、読者をその場面に連れて行ってくれる、と星野高士氏が仰っていたが、これらの句もそう。牡蠣の味まで感じさせる。そのまま食ふ、が好いですね。


曾根 毅「国旗」

平和憲法蠅の手つきを真似てみる  曾根 毅

「平和憲法」は何を象徴しているのか。蠅の真似をしているのは私だろう、それは何のために? イメージとしては権力におもねる人間の様が連想される。否、心持は、その逆かも知れない。この独特な取り合せが様々な可能性を立体的に押し広げて行く。つまり解釈を思い切り読み手に委ねる創りだと思った。そしてこれはこれで正しいのです。読み手の側に好き嫌いはありますけどね。




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今泉礼奈 顔の高さ 10句 ≫読む

椎野順子 身と海水 10句 ≫読む

第458号 2016年1月31日
曾根 毅 国 旗 10句 ≫読む

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