【週俳1月の俳句を読む】
三人の俳人と七つの作品
瀬戸正洋
眠ることと死とは近い関係にあると思う。永遠に目覚めなければ、それは死なのである。老人が居眠り好きなのは、そのせいなのかも知れない。うつらうつらするということは、この世とあの世を往ったり来り、所謂、死への予行演習なのである。
いつか滅びる地球のうえで、うとうとと居眠りをしながら……。それでも、日々は過ぎていく。
揚羽蝶耳のうしろが痛くなり 曾根 毅
生きているということは痛みが伴うものなのである。作者は、たまたま耳のうしろに痛みを感じた。揚羽蝶を視たからからなのである。揚羽蝶が通り過ぎたからなのである。こころが痛いということと、からだが痛いということとどちらが辛いのだろう。揚羽蝶はこころの痛みをからだの痛みに換えてくれた。揚羽蝶は作者にとって神なのか。それとも・・・。
寒月光松に習えば松に消え 曾根 毅
松のことが知りたければ松に聞けばいいと「三冊子」にはある。松に聞くということは自分自身に問うということと同じことなのである。だが、松といくら向き合っても本質は視えてこない。その先は霞んだままなのである。寒月光は、私自身に降り注いでいる。
寒林過ぐ次の電車は血を流し 曾根 毅
電車とは血を流して走るものなのである。乗車している電車が寒林を過ぎたから、次の電車が血を流すのではない。私たちは見ることができないだけなのである。
血管が破損し皮膚を破って、はじめて、私たちは血の流れを意識する。血管を流れている血は、私たちの全く知らない世界の話なのである。
河豚白子バター焦がせる鉄板に 椎野順子
鉄板の向こう側には、シェフが立っている。バターを焦がせた鉄板のうえで河豚の白子を焼くのである。ワインなど飲みながら会話を楽しむ。「お客様たちは、どんなご関係なんですか」と尋ねられたことがあった。バターの香りが鉄板のまわりをを漂う。ほろ酔い加減の私の頭では、洒落た答えが思いつかない。そして、少しの罪悪感。
牡蠣殻隙間ナイフ揺すりて差し込みぬ 椎野順子
牡蠣を剝こうとして殻の隙間にナイフを揺らしながら差し込んでいく。貝柱を切れば殻は開き、殻についている海水とともに牡蠣を飲み込む。ひととは残酷な生きものなのである。牡蠣にしてみれば、たまったものではない。たまには、ひとさまに、貝毒とやらを差し上げたくなる気持ちも理解できない訳ではない。
椎野氏の作品を読み、このようなことしか書けないことに対して自己嫌悪に陥っている。実に貧しい人間なのである。生活が荒んでいる以前の問題なのである。こう書くつもりで書いているのではない。書いているうちに、こうなってしまうのである。
ケーキ詰めて箱やはらかし冬夕焼 今泉礼奈
洋菓子店でケーキを買うと白い箱に詰めてくれる。それを受け取ったとき、白い箱のやわらかいことに気付いた。箱が潰れてしまえば中のケーキもくしゃくしゃになってしまう。そう思うと不安になる。何故、今まで気付かなかったのだろうと考える。
商店街をゆっくりと歩く。通りの向こうには夕焼けが見える。「今日は、いちだんと寒いよね」などと呟いてみる。
蠟梅が顔の高さにあれば寄る 今泉礼奈
闇の中を歩いていた。ふと、蠟梅の匂いに気が付く。振り返れば、蠟梅は顔の高さに咲いている。私は考え事をしていた。何故か、焦っていた。そんなときの、思いもかけない蠟梅の匂い。ふと、我に返った一瞬の出来事であった。
「交響曲第6番 ヘ長調」をBGMとして流すこと。晴れた休日の午前中、居眠りをするには、一番相応しいような気がする。うつらうつら、この世とあの世を往ったり来り。それに、木漏れ日と珈琲の香り。庭には、白梅が咲いている。
年を取ると、一週間分の疲れは、夜の睡眠だけでは、なかなか抜けないものだ。不安なことは、月曜日の朝、出社するまで忘れてしまえばいいのだ。それから、動き始めても十分に間に合う。「余生」とは嫌な言葉ではあるが、老人は、そこに希望を見出さなければ生きてはいけないのである。
2016-02-14
【週俳1月の俳句を読む】 三人の俳人と七つの作品 瀬戸正洋
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