【週俳3月の俳句を読む】
日常的な事象と季語の距離
生駒大祐
仮にではあるが、評語として、「季語を自らの言葉として扱えている」「かつて季語が日常語であった頃は」などという表現があったとしたとき、僕はその評論を信じない。
その表現は以下の2つの意味で危険性を含むと、僕は考える。ひとつには、季語はそれが季語として用いられる限りにおいては、我々の日常の空間・時間軸からかけ離れた異質の存在であり、現実と交わる言葉であると捉えるのは困難であると、僕が考えるため。もうひとつには、季語と現実を近づけようとする、あるいはそれらが近づくことを是とする考え方自体に僕が違和を覚えるためである。
前置きが長くなったが、西川火尖の句に現れているのは、日常的な事象と季語の距離を句の中で適切に設定しようという営みであり、それは僕の抱いている季語への実感と近しいものがある。
10句中最もその距離設定に成功していると感じたのは、
陽炎へるまで試聴機を再生す 西川火尖
であった。
陽炎という真に視覚的な現象の季語と試聴機の再生という聴覚的な日常の現象とは、いわば言語をベクトル空間的に捉えると「ねじれの位置」にあるとでもいうべき関係性であり、それを「まで」という言葉で一見なめらかに接合して見せたのは氏の手柄であろう。
「デモテープ」という10句のタイトルにもあるように聴覚的な内容が多く、日常の世界の聴覚と季語の世界の聴覚が入り混じる10句には、くらりとするような構成の楽しさがあった。
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