【週俳4月の俳句を読む】
作者が望んでいる事態ではないだろうけれど
山田耕司
剥がすべき国旗のシール 現代鳥葬
現代鳥葬 到達できぬ惑星を滅ぼし 高田獄舎
「現代鳥葬」という箇所にそれなりな季語を入れると、〈いろいろと社会について考えはあるけれどそれに専心するほどでもない良識的な態度〉を示すそれなりな句になりそうである。あえてそうしないのは、〈自分を安全なところに置きながら、であるからこそ、世を嘆いてみせる〉傾向に陥りがちな現代の俳人の有り様を煽って見せているのであろうか。仮にそうだとしたら、何の役にも立たない言葉を提示することでこそナンセンスさがきわまり、〈目的なき合目的性〉の放つ芸術的くすぐりなどが加えられたのではあるまいかと想像する。ところが、「現代鳥葬」とは、なんとも重たく、句の意味内容を収斂する気配を漂わせる言葉であるだけに、〈句が示そうとする情報〉の方向ではなく〈言いたいことを言ってすっきりした作者の様子〉を鑑賞する方向に読者が誘導されかねない。それは、作者が望んでいる事態ではないだろうけれど。
飛行機のまつすぐ進む春のくれ 兼城 雄
「春のくれ」でなくとも「飛行機」は「まつすぐ進む」と考えられる。それをわざわざこのように言いたくなるのは、「飛行機のまつすぐ進む」の環境として「春のくれ」を捉えているからではなく、むしろ「春のくれ」の喩として「飛行機のまつすぐ進む」ありさまを位置づけているのである。
そのもう一つ奥には、人の生を春夏秋冬の区分になぞらえる考え方があるようで、すなわち、青春にある人の有り様を「まつすぐ進む」と示している、とも読めてしまうのである。もちろん、そうした読みは、畳み皺がついてしまってピンと伸びることがないシーツのように素直さに欠けるものであるかもしれないけれど、そうした畳み皺を共有してきたからこそ生き延びてきた側面が俳句には存在しているのである。ともあれ、喩、がシッカリはまっていると、それなりに澄み切った雰囲気が句に漂うのだが、俳句の読者とは、句のどこかに「類型的な喩をぶち壊してしまうような個の表出」というニゴリのようなものをも求めたりするのであって、なんとも度し難いところがある。
朝桜バターのすべるパンの上 満田春日
まだ冷たいうちは動くことのないバターの塊が熱ですこし溶けて、手の上で傾けたトーストの上をすべりはじめる。その様子は、視覚的に捉えられたものではあるけれど、と同時に、ザラザラとしているパンの表面をすべるバターを、触覚的に感受しているのであろう。ひと日の中でも、早朝の光の中の桜こそが、視覚を通じた触覚のようなもので見届けるにふさわしいものと思われたのか。「バター」「パン」と出会うことで「朝」が時間帯を示す情報という立ち位置にしか見えないこともあり、そこは惜しまれる。
パーマ終へPARCOで無敵風光る 工藤玲音
この昭和感。「パーマ」「PARCO」の取り合わせもそのベクトルを支えているものの、やはり購入したサービス(この場合はパーマ)によって都市のまんなかで「無敵」と言い切る感覚、それこそが昭和なのかと思った次第。「風光る」という季語が添えものにしかみえないけれど、1980年代半ばまでは〈自然〉なんかも(金にものいわせて行く海外旅行みたいな)自己を拡大するための消費記号だったような気がするので、このような添え物的扱いがかえってしっくりくるのかもしれない。
第467号 2016年4月3日
■髙田獄舎 現代鳥葬 10句 ≫読む
■兼城 雄 大人になる 10句 ≫読む
第468号 2016年4月10日
■満田春日 孵卵器 10句 ≫読む
■引間智亮 卒 業 10句 ≫読む
第469号 2016年4月17日
■工藤玲音 春のワープ 10句 ≫読む
■益永涼子 福島から甲子園出場 10句 ≫読む
第470号 2016年4月24日
■九堂夜想 キリヲ抄 10句 ≫読む
■淺津大雅 休みの日 10句 ≫読む
剥がすべき国旗のシール 現代鳥葬
現代鳥葬 到達できぬ惑星を滅ぼし 高田獄舎
「現代鳥葬」という箇所にそれなりな季語を入れると、〈いろいろと社会について考えはあるけれどそれに専心するほどでもない良識的な態度〉を示すそれなりな句になりそうである。あえてそうしないのは、〈自分を安全なところに置きながら、であるからこそ、世を嘆いてみせる〉傾向に陥りがちな現代の俳人の有り様を煽って見せているのであろうか。仮にそうだとしたら、何の役にも立たない言葉を提示することでこそナンセンスさがきわまり、〈目的なき合目的性〉の放つ芸術的くすぐりなどが加えられたのではあるまいかと想像する。ところが、「現代鳥葬」とは、なんとも重たく、句の意味内容を収斂する気配を漂わせる言葉であるだけに、〈句が示そうとする情報〉の方向ではなく〈言いたいことを言ってすっきりした作者の様子〉を鑑賞する方向に読者が誘導されかねない。それは、作者が望んでいる事態ではないだろうけれど。
飛行機のまつすぐ進む春のくれ 兼城 雄
「春のくれ」でなくとも「飛行機」は「まつすぐ進む」と考えられる。それをわざわざこのように言いたくなるのは、「飛行機のまつすぐ進む」の環境として「春のくれ」を捉えているからではなく、むしろ「春のくれ」の喩として「飛行機のまつすぐ進む」ありさまを位置づけているのである。
そのもう一つ奥には、人の生を春夏秋冬の区分になぞらえる考え方があるようで、すなわち、青春にある人の有り様を「まつすぐ進む」と示している、とも読めてしまうのである。もちろん、そうした読みは、畳み皺がついてしまってピンと伸びることがないシーツのように素直さに欠けるものであるかもしれないけれど、そうした畳み皺を共有してきたからこそ生き延びてきた側面が俳句には存在しているのである。ともあれ、喩、がシッカリはまっていると、それなりに澄み切った雰囲気が句に漂うのだが、俳句の読者とは、句のどこかに「類型的な喩をぶち壊してしまうような個の表出」というニゴリのようなものをも求めたりするのであって、なんとも度し難いところがある。
朝桜バターのすべるパンの上 満田春日
まだ冷たいうちは動くことのないバターの塊が熱ですこし溶けて、手の上で傾けたトーストの上をすべりはじめる。その様子は、視覚的に捉えられたものではあるけれど、と同時に、ザラザラとしているパンの表面をすべるバターを、触覚的に感受しているのであろう。ひと日の中でも、早朝の光の中の桜こそが、視覚を通じた触覚のようなもので見届けるにふさわしいものと思われたのか。「バター」「パン」と出会うことで「朝」が時間帯を示す情報という立ち位置にしか見えないこともあり、そこは惜しまれる。
パーマ終へPARCOで無敵風光る 工藤玲音
この昭和感。「パーマ」「PARCO」の取り合わせもそのベクトルを支えているものの、やはり購入したサービス(この場合はパーマ)によって都市のまんなかで「無敵」と言い切る感覚、それこそが昭和なのかと思った次第。「風光る」という季語が添えものにしかみえないけれど、1980年代半ばまでは〈自然〉なんかも(金にものいわせて行く海外旅行みたいな)自己を拡大するための消費記号だったような気がするので、このような添え物的扱いがかえってしっくりくるのかもしれない。
第467号 2016年4月3日
■髙田獄舎 現代鳥葬 10句 ≫読む
■兼城 雄 大人になる 10句 ≫読む
第468号 2016年4月10日
■満田春日 孵卵器 10句 ≫読む
■引間智亮 卒 業 10句 ≫読む
第469号 2016年4月17日
■工藤玲音 春のワープ 10句 ≫読む
■益永涼子 福島から甲子園出場 10句 ≫読む
第470号 2016年4月24日
■九堂夜想 キリヲ抄 10句 ≫読む
■淺津大雅 休みの日 10句 ≫読む
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