【週俳5月・6月の俳句を読む】
人間の不自由さについても
岡田由季
遠ざかるほど蒲公英のあふれけり 広渡敬雄
10句中に「慰霊碑は津波の高さ春の雲」「復興の仮設店舗に種物屋」等の句があり、震災五年後の現在の東北を題材とした作品と読み取れるが、なかでも遠景を詠んだ句が多いように感じた。作者の常の詠み方がそうであるとも思えないので、このまなざしの遠さは、作者の立ち位置が旅人であり、当地の現実との距離があることを示すのかもしれない。掲句は「遠ざかるほど」と言っている。蒲公英の黄色は目を引く色であるが、背を向けて遠ざかってゆくのでは、いくら目立つ色でも目に入ってくることはない。振り返り見ているか、心の内でのものか、いずれにせよ作者の気持ちは遠ざかっていくその地に残っている。そして、そこに、あふれるほどの蒲公英の黄の強さ、明るさを見ている。
雨を書く生まれてくる日に追いついて 野間幸恵
「雨を書く」であって「雨を描く」ではない。そこがムードに流れた読み方をされることを回避している。「雨」という字を書く、「雨」について描写する、雨の中で何かを書く、いろいろなパターンが考えられるが、大量の文字情報が猛スピードで書かれている様子をイメージした。その様子は何かに憑かれたようで凄みがあるし、生まれてくる日に追いつくというのも胎児の姿などを想像し、やや不気味に感じた。意味が全くとれない難解な句ではなく、句の内容が像を結びそうで結びきれない不安定な心持ちが、そういう読みを誘うのかもしれない。
箱の蓋ずらし青葉騒を聞く こしのゆみこ
青葉騒は箱の中にあるのか、外なのか。中と考えるのが一般的な読みだろうか。そうすると、いわゆる「神目線」で箱の中の小さな世界を覗き混んでいることになる。逆に外と考えると、箱の中の世界に住んでいる者が、ざわめきにつられ、外界への窓を開けるように箱の蓋をずらしてみた、ということになる。いずれにせよ、箱というものが異なるふたつの世界を結ぶファンタジーの仕掛けになっている。あるいは、そのどちらでもなく箱の蓋をずらすということと、青葉騒を聞くということを切り離して考えて読むこともできるかもしれない。そうするとその二つの行為には不思議に共鳴しあうような気にもなってくる。そんなことをぐるぐると考えて遊んでみたいような句。
耳打ちの蛇左右から「マチュピチュ」と 黒岩徳将
名前の響きだけで惹きつけられてしまう場所や人や物がある。マチュピチュもそのひとつ。マチュピチュは「老いた峰」という意味だとクイズ番組で聞いたことがあるが、ここでは、言葉の意味はあまり関係が無いように思う。いかにも囁きにふさわしい音をもった言葉として「マチュピチュ」が選択されている。蛇の耳打ちであれば、当然原罪を連想するが、蛇の誘惑を空中都市に結びつけて考えるよりは、「マチュピチュ」という言葉の響きの甘美さだけよっていると考えたほうが納得できる。「左右から」と駄目押しをしているところがなんとなく可笑しい。
金魚より長生きをして詩を読んで 小林かんな
金魚より長生きなんという、当たり前のようなことを言われ、気になってしまう。長生きといっても、単に金魚と人間の寿命の比較ということではなく、金魚よりは確からしい、儚くない存在として自分を感じていると読んだ。犬猫では生々しくなってしまうし、虫や植物では儚すぎるから、金魚くらいがちょうどよい。散文を読む場合、さらさらとお茶漬けを食べるように流して読むことも可能だが、詩を読む際には、立ち止まりつつ、言葉の意味や響き等、受け止めつつ読むことが必要になると思う。ゆっくりと言葉を咀嚼する過程で、静かながらも自己の生命感、存在の確からしさも味わっているのである。
ででむしや箱にしんなりふたつの性 嵯峨根鈴子
カタツムリは雌雄同体だそうだ。しかし通常は一匹で増殖するのではなく、異個体と交尾をし、その後それぞれが卵を産む。詳しい生態についての知識がないが、条件により単為生殖する場合もあるようだ。この句の場合、「箱に」とあるのでカタツムリは一匹のみで捕えられているのかもしれない。この個体が単為生殖を企んでいるかどうかは知れないが、ふたつの性を持つことで、ででむしは妙に充足しているように感じられる。「しんなり」という言葉により、ででむしの性のフレキシビリティ、したたかさを感じる。同時に人間の不自由さについても。
2016-07-03
【週俳5月・6月の俳句を読む】人間の不自由さについても 岡田由季
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