【週俳5月・6月の俳句を読む】
老人のブルース
瀬戸正洋
三年前、左足首の手術をした。それ以来、ふくらはぎから足首のあたりが痛む。足を引き摺りながら歩くのは老人くさくて嫌なので、普通に歩こうとすると痛みが酷くなる。湯ぶねに浸かるたびにマッサージをするようになった。
私は、O線でE駅まで行きE駅でS線に乗り換える。E駅のホームでは、二輌乗り過ごし座席を確保している。ある日、発車間際、ひとりの若者が乗り込んできた。「足が悪いのでご協力して下さいませんか」と言う。座っている三人に向かって言い続けるので、必ず、そのうちのひとりは立ち上がり席を譲る。私は怯えた。六十歳を越えた老人の前には来ないだろうと思ってみても、その若者が私の前に立ったら、勇気を振り絞り自分の左足の痛みを説明しなければならない。だが、大勢の中、そんなことを言うより、座席を譲った方がいいに決まっている。私は憂鬱になった。
油絵具全色滝を搾り出す 嵯峨根鈴子
油絵具は憂鬱なのである。滝も憂鬱なのである。もちろん、作者自身も憂鬱なのである。油絵具だけを搾り出すだけでは「憂鬱」さを描くことはできない。作者は自身のことを未熟だとも思っている。自分自身の全てを搾り出さなければ「憂鬱」な私自身を描くことはできないと考えている。
充血した地球に添うて蚊柱が立つ 嵯峨根鈴子
充血といえば目を思い浮かべるが、作者は地球が充血したと言っている。地球が充血していると作者には見えるのである。充血した地球は憂鬱なのである。その地球に添って蚊柱が立つ。群れをなして飛ぶ雄のユスリカに雌のユスリカが飛んできては雄をつかまえて、どこかへと飛び去っていく。巨大なユスリカなのだ。不快なものでも何でもかまわない。誰かが、あるいは何かが寄り添ってくれればそれでいいのだと思う。
心臓のかゆきところに花ざくろ 嵯峨根鈴子
心臓を見たことはない。石榴の花は見たことがある。小学校の校庭に老木があった。心臓がかゆいと感じているのだから心臓に何か違和感があるのかも知れない。作者も自身の心臓は見たことはないだろう。その心臓のかゆいところに花ざくろを置こうというのだから、これも風流のひとつなのかも知れない。
かかとからくるりとむけて夏の月 嵯峨根鈴子
くるりとむくには、頭から、あるいは、踵からというのが常套の手段なのだろう。そのひとの本質、性格は、なかなか変えることはできない。従って、見た目ぐらいは変えて、他人に対しても、自分に対しても、気分転換を図ってもいいと考えたのである。地球の上でくるりとむくのである。夏の月に見られていることが恥ずかしい。
朝ぐもり開封の前よく振って 小林かんな
朝食にはサラダが似合う。サラダにはドレッシングをかける。かける前にはよく振らなくてはならない。冷たい野菜サラダ、こころも身体もシャキッとして、今日も一日がんばろうという意欲がみなぎる。
記憶より明るきくらげ出てきたり 小林かんな
明るきくらげを先に見るか暗きくらげを先に見るかによって人生は変わるのである。たまたま、「暗きくらげ」を先に見てしまったということなのである。その他のことも、すべて同じことだ。どちらを先に見るかによって幸不幸は決まる。恐ろしい話だと思う。
そうめんの乱れぬように帯の色 小林かんな
そうめんがばらばらにならないように帯をまく。帯が、そうめんをまとめているのだが、本当にそうめんを乱れぬようにしているのは帯ではなく帯の「色」なのである。「色」とは、全てのものを束縛する不思議な**なのである。
海の底見てきた夜の扇風機 小林かんな
海辺の旅館、あるいは、民宿なのかも知れない。一日、海で遊んだあと、大広間での冷たいビールと夕食。素潜りで楽しんだ海の底の話で盛り上がる。窓は開け放たれ、大きな扇風機と蚊取り線香のけむり。
金魚より長生きをして詩を読んで 小林かんな
金魚より長生きをすることは奇跡なのである。詩を読むことも奇跡なのである。ひとは奇跡の積み重ねで生き続けることができ、詩を読むことができるのである。
夏の月字を消しているボールペン 小林かんな
ボールペンは文字を書く道具である。ボールペンで文字を消すとは黒く塗りつぶすことである。ボールペンの本来のはたらきとは異なっている。ひとは意思を持って文字を書く、意思を持って文字を消す。夏の月は何も言わずにおろかなひとの行為を、ただ、じっと眺めている。
六月の鼻緒に指の開きたる 黒岩徳将
鼻緒のある履物をはくとき無意識のうちに足の親指が動くのである。六月とあるのでビーチサンダルなのかも知れない。ビーチサンダルで街を歩く。六月の雨は舗道を濡らし、舗道からビーチサンダルへ、ビーチサンダルから素足へ、素足から身体全体へと、だんだんに侵されていく。
サイダーや花屋の前の男たち 黒岩徳将
老妻に花を買って帰ろうなどと思ったことはない。私が花を買うのは、春と秋の彼岸、旧盆、それから暮の三十日等々、墓参りの時だけなのである。そんな私は、「花屋の前に男たちが意味もなく屯っているのを訝りながら眺め、サイダーをらっぱ飲みしている」などと思う。これが精一杯の鑑賞なのである。
空の箱つみあがりゆく夏の家 こしのゆみこ
空の箱が積み上がっていくというと八百屋の店先というイメージだ。それも繁盛している商店街にある八百屋なのである。店先には、夏野菜であふれ買い物客でごった返している。その奥には、誰もいない開け放たれた住居があり卓袱台には団扇が置かれている。
郭公のきこえてきたる眠りかな こしのゆみこ
郭公を聞くには、丹沢、箱根、富士の裾野あたりまで出掛けなければ難しいのだと思う。だが、自宅でも、他の野鳥の声はいくらでも聞くことができる。尾崎一雄のように野鳥図鑑と双眼鏡を買い込み観察をしなければ、どの野鳥がどのように鳴いているのかを知ることができない。作者はおそらく山荘かどこかで休日を過ごしているのだ。うつらうつらしながら郭公の声を聞いているのだ。
泰山木の花はずれかかった冠 こしのゆみこ
泰山木の花は冠に見えないことはない。咲いているすがたは、はずれかかった冠のように見えないこともない。生きるためには、見っとも無いこともするし嘘も付く。悪を拒むことなど至難の業なのである。尊厳、あるいは、プライドなどが外れかかっていてこその人生なのである。それにしても泰山木の花の白は眩し過ぎる。
雨を書く生まれてくる日に追いついて 野間幸恵
雨を眺めていたら何故か楽しくなってきた。言葉に整えようとしてもなかなかうまくいかない。それは、あたりまえのことなのである。言葉を整えていくことは苦行なのである。苦行など忘れて、ただ、雨を楽しめばいいなどと弱気のかみさまは囁く。だから、作者は幸福な出来事を傍らに置いてみた。これで何とかなるかも知れないと思う。
good-byeと鰯の群れを思いけり 野間幸恵
「good-bye」と彼氏に言ったのである。最後のデートは水族館、鰯の群れが泳いでいる。鰯の群れの泳ぐ勢いは虚しさの象徴だ。数十年を経て作者は、ふたたび、「good-bye」と言う。その時、脳髄いっぱいに鰯の群れが勢いよく泳ぎはじめたのである。
戦没と津波の位牌梅の花 広渡敬雄
七十一年前に亡くなった方の位牌と五年前に亡くなった方の位牌がある。花立には梅の花が飾られている。戦死広報が届けられたのもこの季節だったのかも知れない。作者は、梅の花が開く度に、ふたりのことを思い出すのである。暦のない時代、季節の変化は、ひとが何かを思い出す切っ掛けとして大切なものだったのである。
遠ざかるほど蒲公英のあふれけり 広渡敬雄
足元に蒲公英が咲いている。その程度に思っていた。しばらく歩き振り返ってみると野原一面に蒲公英に驚く。また、「振り返る山の遠さよ花辛夷」という作品もある。蒲公英は振り返った先、花辛夷は振り返ったところ。作者には、振り返らなければならない何か理由があったのである。
私は、E駅では三輌、乗り過ごすことにした。毎日、乗っていた改札口に近い、一番うしろの車両も二番目の車両に乗ることにした。逃げることにしたのである。そこで、気付いたことがあった。その車両には見知った顔が多く乗っていた。避難してきたひとたちであった。座席を若者に譲ったひとは、必ず、その車両から出て、どこかへ行ってしまう。満員の通勤快速で立つことは苦痛なのである。誰もが座りたい一心で、朝早く起き、ホームでは数輌、乗り過ごし、やっとの思いで座席を確保するのだ。
だが、このように、いくら弁明してみても逃げたことに対し、私には罪悪感のようなものが残る。どんな小さな罪悪感でも残る以上、私は悪人であるのだ。いつものように、同じ時刻、同じ車両に乗る。その若者が前に立ったら、すこしぐらい左足が痛くても座席を譲る。「ソンナ人間ニ、私ハ、ナリタイ。」
2016-07-03
【週俳5月・6月の俳句を読む】老人のブルース 瀬戸正洋
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