【週俳9月の俳句を読む】
僕の目から
脇坂拓海
仔羊反芻あきくさあまく融けゆくか 池田瑠那
秋草は噛まれては飲み込まれ、再び口の中に出され、また噛まれては飲み込まれる。草食動物は口に入れたものを味わい尽くすかのような食べ方をするな、くらいに考えていた時期があり、反芻のシステムを知った時はなんでそんなことを……なんて羊に思ったが、作者の把握を読むと、この反芻という行為も納得してイメージ出来る。
秋草は反芻して初めて「あまく融けゆく」のである。草の深いところにある甘さを仔羊達は知っていて、秋草を反芻する。思えば草食動物の歯もすり潰すような噛み方をするように出来ているらしく、反芻というワードと相まって「あきくさあまく融けゆく」に説得力を加えている。
鼻歌や長芋摺り過ぎてしまふ 冬魚
「あっ!」って聞こえてしまいそうな句。とてもドジの実感を表していて、楽しい句である。鼻歌は長芋を摺るという行為と結びついて、無心で摺り続けてしまう。「あっ!」となってしまった瞬間に鼻歌のリズムもなにもかも崩れて、やっちゃった摺り過ぎた~となる落差がいい。多めに食べるとか、冷蔵庫に置いておくとかいう解決策で簡単に解決できそうなほどには深刻さがなく、軽いことであるのも魅力である。いつか摺り過ぎたら絶対に思い出してしまう。
ウツボカヅラに秋の蠅溶け揺れつつも 同
秋の蠅だからこそちょっと孤独な存在感があって、夏だったらどうぞ食われてしまえなんて思うのに、秋という季節がそうさせるのか、蠅にもわびしさみたいなものを感じてしまう。別に体につやがあるわけでもないのに、遠目から見ても蠅だななんて分かってしまう。そんな虫がウツボカヅラに捕まってしまっていて、ちょっと手足なんかをばたばたさせてしまって揺れながら溶けていく哀れさのようなものを、蠅の存在感の消失とともに感じる。虫、という季語、情緒ある虫は秋の季語なのに、蠅やゴキブリなどはどうして夏にばかり出てしまうのだろう。
秋風や羊楕円のひとみ持ち 同
「羊の持ちて楕円の眼」とかではなく、「羊楕円のひとみ持ち」である。この句において、羊の眼は楕円だ、という客観的な定義が言いたいのではなく、羊が楕円の眼を持っている、という発見を言いたいのだと感じた。人間がまん丸の瞳を持っているとするならば、羊は楕円なのだ、という人間から見た対比がこの句の裏に見えてくるように思う。もしそうであるならば、もしかしたら羊の見ている世界は少し楕円に歪んでいるのかもしれない、なんて想像の世界へ読者を誘ってくれる。羊から見たら人間は歪んでいたりするのだろうか。
太刀魚の首掴み折る釣りたれば 嶋田恵一
下五で具体的な動作を示す句。上から読んでいくとただただ太刀魚の掴み折るスプラッタな映像が頭に浮かぶが、「釣りたれば」を読んで頭に入れた瞬間にみるみる映像が立ち上ってくる。掴み折る、とするほどの豪快な折り方(釣った際に首を折らなければならない理由が特別にあるのかは知らないが)は漁なんかをしている光景で、釣る度に釣る度にこの作中人物は太刀魚の首を掴んではへし折っていく。下五まで読み切っても情景は上五に戻って帰るまで続けているようなそんな印象に残る漁業詠である。
漁夫の田にこつそり秋の海が入る 秦鈴絵
海が近い町に生まれ育ったからか、漁夫の強い臭いというのがよく分かる。服の深いところまで磯の臭いが侵入していて、洗っても洗ってもとれなくて、他の洗濯物にちょっと移ったりもする。「田」に「秋の海が入る」という詩的な把握には確かな実感があって、川とかどこかで漁具を洗ったりして、家の近くに干していたりなんかすると田にどこか潮の香に気づけたりするような感覚。またそのように海、田んぼなどが近いような環境の村なんてものも想像できる。とても田舎の質素な、しかし力強い生活を思うことが出来る。
今日からは秋日の竹でゐてもらふ 同
今日からは、ということは昨日までは夏日の竹でいてもらっていたのだろうか。この句の中でおもしろいのは竹に対しての言い放ち方である。上司かなにかなのかと思って可笑しかった。実に主観的だが、どうやっても竹に身長など勝てるはずがないのに態度大きめで上から目線で言いつけているのが滑稽でたまらない。秋への移り変わりを感じた作中人物によって竹は立場と名前を変えられてしまうのだが、竹はどんな竹にもなれてしまいそうな感じがする。この句が作られた日には秋日の竹で、もうちょっとしたら冬の竹で、またもうちょっとしたら淑気の竹とかにもなりそうだ。竹は楽しい。
永遠に下る九月の明るい坂 今井聖
真夏の坂を下るより、暑さがしつこくまとわりついてくるような坂を下る方がずっとずっと不快に感じる。まだ暑いのか、まだ涼しくならないのか、なんてことを高校の時、山の中の家から通学していた時分に思っていた。暑い暑いと思っていれば少し涼しい風なんかが吹いたりして、一瞬だけ心地よくなる感覚を味わうことがある、そんな九月である。夏と秋の中間のような時期、明るい昼の坂にはまだ夏がアスファルトにばら撒かれていて、それをずうっと踏んづけていると秋が入り込んできて、イライラしながら坂を踏む必要はなくなる。永遠の中でも九月は進んでいて、明るい坂の中で目に見える風景、風、温度は変わってきている。ポジティブとネガティブ、夏と秋、暑さと涼しさ、明るさ暗さの二面性が世界になっている。
ミニカーを戻し放つや廊冷ややか 小澤實
懐かしさに溺れてしまいそうな句。そうそうミニカーを無心で走らせていたあの時何故か長い空間を探していて、気づけばフローリングに手をついてミニカーで遊んでいて、そのフローリングはとてもとてもひんやりしていた。ミニカーを戻して、またそれから放つ。ただそれだけのことなんだけれど、戻す時の音とともに指にかかる抵抗が重くなるあの感覚や、放った時の音が高揚感とともに冷ややかな廊下を駆けていくのがくせになっていた。あの頃ミニカーをずっとずっと続けた記憶をありありと思い起こさせる。畳や机なんかじゃだめで、長くてミニカーが落ちる心配もないような廊下がベストで、その冷ややかさでさえもおもちゃだったのだ。
2016-10-30
【週俳9月の俳句を読む】 僕の目から 脇坂拓海
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