2016-11-06

【週俳9月の俳句を読む】 小澤實の中の川 青本柚紀

【週俳9月の俳句を読む】
小澤實の中の川

青本柚紀



ぼくの体の中には川が流れている。
川を見るのが好きだ。川を見るのが好きだ。川を見ているとき、眼前に流れている川と、ぼくの中を流れる川とを無意識のうちに比較している。
(邑書林『セレクション俳人 小澤實集』 初出は「FRONT」1999年9月号)
そう、小澤實の中には川がある。彼自身の中のみならず、その俳句 の中にもその川は見られる。滔々と流れる川が。

たとえば音の中。小澤實の韻律にはせかせかしたところがない。五 七五をはみ出ても言葉を尽くして書く、ということはなされている が決して定型をはみ出ることなく一句が悠然と立っている。
 
秋刀魚焼きをるは隣家か帰り来て 小澤實
爺ひとり住まひ新酒をコップに酌む
ミニカーを戻し放つや廊冷ややか
 
一句目。ゆったりとした句またがりが帰宅時のほっとした気持ちと よく響いている。家の近くで秋刀魚の匂いがするなと思っていたら 通り過ぎてしまったのだろうか。あるいは。匂いのもとにたどり着く前に帰宅してしまったのか。

二句目。上中下の各句に自立語が二つずつあることで少し波打つような韻律になっている。ゆっくりと夜を過ごしているのだろう。先日、おいしい酒を飲むのはおいしいという感情を誰かと共有する行為なのだと聞いた。時間のある夜にひとりで酒を飲むというのはさびしいことだ。老いるときっとなお。コップにこぽこぽと酒が注がれてゆく音をたった一人で聞かねばならないのだから。ときに誰かを思い浮かべながら。

三句目。濁音がひとつあるほかは比較的静かな音で構成されている。それゆえに動作の主体が子供ではないよう見えるのは作者名に引っ張られてしまいすぎだろうか。句中の言葉も大人びている、というよりは落ち着きがあるのだ。少なくとも句の主体からはそれが感 じられる。ミニカーがかたかた鳴るのをやめた先に静かな、誰もいない廊下がぽっかりとある。
 
川は景の中にも時間として存在する。「住宅地」十句には住宅地に息づく生活が描かれているが、そこでの時間は都市のそれとは違う独特な流れ方をしている。職住分離型の住宅地という仕事の場と切り離された生活の地の、そこで暮らすひとりの人間のゆるやかな時間の川が。

 ひとり、といえば小澤實の俳句の主体は圧倒的なひとりであると思う。これは他者の存在の有無の話ではない。ここに来て非常に感覚的になってしまい申し訳ないのだが、景を見ているひとりの人間の確かな目があることを、それがはっきりとした息づかいを持ってあることを思う。

ふはふはのふくろうの子のふかれをり 小澤實『砧』
遠足バスいつまでも子の出てきたる  同『立像』

 
彼自身は俳句は「謙虚な詩」であるとするが、(邑書林『セレクション俳人 小澤實集』初出は「澤」創刊号 2004年4月)徹底して眼前を書くということに集中することで かえって「見つめる主体」がはっきりと浮き彫りにされている。深淵を覗くとき、深淵もこちらを覗いている――ではないが、先に挙げた二句のなかにも「見つめる主体」が息づいているように思える 。

川を見て育った小澤實の中にはひっそりと川が流れている。それ と同じように俳句の中で描かれているものたちはもう小澤實の中に あるのかもしれない。小澤實の俳句は、景が作者の中から出てきたような確かさを伴っている。それゆえにか虚子にも通じる得体の知れなさや底知れなさが漂っている、というと言い過ぎなのだろうか。ともかく、小澤實の中の川は流れ続けている。

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