【週俳9月の俳句を読む】
同じ言葉から、同じモチーフから
森優希乃
結社・同人誌競詠「澤vs街」。同じテーマ、同じ題名でまとめられた連作だからこそ、比べてみるとやはり二つの結社それぞれの色がよく出ていて、さらに個人でもそれぞれ異なる面白さが惜しみなく発揮されているのがはっきりと伝わってきて、私は心が踊ってばかりだった。まず五感を伝える強さや、把握の独創性と共感性のバランスの上手さなどが特に心に残った。
羊刈る仕上げの鋏しやりと鳴る 池田瑠那
破水して羊水腿にぬくし秋 冬魚
一読した後、特に自分の五感の震えに気付かされる、そんな二句を並べてみた。まず、前者の句ではただの鋏ではなく、「仕上げの鋏」なのがいい。羊を刈るにしてもやはりプロのやる仕事であるだろうから、見る見るうちに羊から毛がするりと落ちていくのだろうが、毛刈りの仕舞として「仕上げの鋏」の二枚の刃が毛を挟んで閉じ切る、その過程だけはなんだか少しだけゆっくりと描かれているように思う。それは「しやり」という、少し緩慢な音を思わせる歴史的仮名遣いから生まれているだろう。そして鋏が閉じ切った途端「しやり」という音だけが秋気を伝わり、秋天に響く。毛刈りに立ち会った経験のないはずの鼓膜へ、この鋏の澄み切った音を確かに響かせる力。「仕上げ」と「しやり」のS音が、秋の爽快感を支えている。一方後者では、上五から中七下五にかけての一種の裏切りのような表現にまず魅かれる。「破水して」というもうじきの出産の合図に対する緊迫感を思わせてからの、「羊水腿にぬくし秋」という冷静かつ穏やかな言い方がいい。出産の経験がなくとも、腿をゆっくりと這い伝う熱をもった水の感触が、触覚を捉えて離さない。経験がない五感へ、もしや経験したことがあるのかと錯覚させるような強さの感覚を五七五が見事に引き出している。
暴風雨の真中が楽し新豆腐 茸地寒
まず、「暴風雨の真中」が「楽し」。この把握が独特でありながら、確かにそうだよなと読者に思わせてしまうから面白い。「暴風雨」、つまり台風の目に身を置くことはなかなかに稀有なことであろう。そういう稀有な状況に遭遇したとき、人間に「楽しい」という感情が生まれることがある。それがたとえ「暴風雨」という不穏に囲まれていたとしてもだ。さらに言うと、「暴風雨」の「真中」を楽しんでいる状況でこの人は新豆腐を味わうわけである。台風からしてみても、こんなに強く風を生んで数多の雨を降らせているにもかかわらず、そんな台風を楽しみながらぬくぬくと新豆腐を味わっている作者を見て、敵わないなあと思っているかもしれない。暴風雨という状況を楽しんでしまう作者の姿に、ある種の頼もしささえ覚えてしまう。
どんどんと詠み進めていくと、同じ言葉やモチーフを十七音という短い詩形に入れたとしても、それぞれの作家の紡ぐ言葉、感性、把握の仕方で句の印象や雰囲気までもがらりと変えられることに衝撃を覚えた。以下、似たようなモチーフや言葉を用いている句を並べてみて、五七五の可能性に少し迫っていきたい。
ななかまど母は魔女にも王女にも 井上さち
幽霊画のをんなの母に似たりけり 川又憲次郎
母をそれぞれ独特なアプローチの仕方で捉えた二句。こう並べてみると描かれている母の姿が実に対称的で面白い。前者の句は、母という、掴もうとしても掴み切れないような存在の在り方を捉えられている。「魔女」にも「王女」にも共通してあるのは、「母の頼もしさ」ではないだろうか。無論その魔力が、その権力が子どもである自分へ向かってくる可能性も大いにあるだろうが、いざとなればきっと魔女にでも王女にでもなって自分を守ってくれる、そんな母の力の頼もしさを言い得ている。いくつ歳を取ったとしてもこの先、母にはきっと敵わない。そんな思いも七竈の紅に見えてくるように感じる。一方の後者の句は前者とは異なり、母という存在を直接把握するのではなく、「幽霊画」を介してその母の姿を描き出している。母がこの幽霊に似ていると気付いてしまった作者の胸に渦巻く何とも言えない思いと、そんな母を思う気持ちが幽霊画の展示室の中で、誰にも知られることなく静かに生まれる。
触角をきゅうんとしごく秋の夜 井上さち
虫籠に追込まれゆく頭かな 竹内宗一郎
虫を詠み込んだ二句を並べてみたが、双方に人間の姿が少し透けて見えるのが面白い。前者はまず「きゅうんとしごく」に妙なリアリティを覚える。さらに「しごく」のは、触角を持たない、持つことなどない人間の指である。何があっても自分には持てるはずのない触角という存在に対して、この作者は「触れる」でも「つつく」でもなく「しごく」わけである。秋の夜の落着きがまた、「しごく」という動詞の強さを引き出している。後者は「頭かな」という下五に人間の姿が思い起こされる。もちろん、「虫籠に追い込まれてゆく」のは虫であって、この「頭」は虫の頭のことであろう。しかしながら、「頭」というと何だか頭蓋を中心に進化してきた人間の姿が思い起こされるようで、そこにおかしみがある。よく省略の効いた、軽やかな一句である。
甚平の隣に犬の合羽干す 今井聖
犬嗅ぎ過ぎて桔梗の蕾なり 小澤實
どちらも「犬」と共に生きる日常が描かれた作品である。前者の句では、甚平の持ち主である飼い主とその飼い犬とが、対等に扱われているのがとてもいい。さらに句において余白がしっかりと効いていて、前日の散歩の様子や飼い主と犬との関係性が確かに見えてくるのである。たとえ雨であっても日課である散歩を欠かさない実直な男の姿。きちんと合羽を着せてやる思いやり。もしかすると甚平を洗わなければならなかったのは前日の雨に濡れてきてしまったからかもしれないと思うと、犬だけにしっかり合羽を着せてやる飼い主の姿が何ともおかしく、そして優しい。後者の句は散歩の景であるが、
犬と作者の距離感がこの五七五からよく出ている。作者は犬に先導される形でずるずると歩いており、犬の好きなように散歩させ、その後を追っていっている様子が目に浮かぶ。犬の興味はあらゆるものに移るから、そのたびに作者は振り回されるのであろう。犬が少し立ち止まって匂いを嗅ぎ、そしてすぐにそっぽを向いて別の方へ興味を移した。それを見た作者が何だろうと思って犬を追う形で近づいてみると、それが桔梗の蕾だったわけだ。桔梗の独特の蕾の形が美しく清らかに目に入ってくる。犬と蕾と、そして作者の距離の移り変わりが楽しい。
かなかなや銃身冷ましゐる時間 今井聖
かなかなを詰めてオレンジ色の雲 同
「かなかな」という同じ季語から始まる同じ作者の俳句であるが、その句の雰囲気が大きく異なることにまず驚く。一句目は競技の類であろうか、あるいは動物を撃ったのか、どちらにせよ銃に残る熱に作者の熱を感じる。「銃身を冷ましゐる時間」とは多かれ少なかれ銃を撃った自らの緊張や疲労を次の射撃に残さぬように休む時間であろう。銃も自分も休ませて、次の射撃に備えていく。次の銃声が鳴るまで、きっとこの空間に響き続けるのは蜩だけである。一方、二句目は主観が入った作品。「かなかな」と夕方との取り合わせともなれば要素が近すぎて成功させるのが難しくなるが、この句では「かなかなを詰め」たから「オレンジ色の雲」になったわけである。「かなかな」と夕方の空の様子の近さを逆にうまく用いることで、ここでの要素の近さ如何の問題は無意味となる。景自体も大変に美しいが、蜩が鳴き続けることでどんどんと雲の橙が濃くなっていくと読者に思わせてしまう、そんな断定の力に魅かれた。
同じような言葉、モチーフであっても、五七五は句柄をがらりと変えてくれる可能性を十二分に持っている。ともすると、未熟な自分はこういう句しか作れないといったような殻を自分勝手に作ってしまいそうになるが、十七音を信じてその殻を大いに破っていかねばならないと教えていただいた思いである。俳句の可能性を信じて、これからの句作に励んでいきたい。
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