2016-11-06

【週俳9月の俳句を読む】 澤街の観察日記 翁長徹

【週俳9月の俳句を読む】
澤街の観察日記

翁長徹



二結社の競詠、大いに楽しみました。

今回は、詠者の持つ題へのテーマを探りながら、一人の句群から二、三句ずつ選び、評を書きました。

とはいっても、お恥ずかしながら、まだまだ双方の結社のことなど、知らずのうちに書いた文であります。ここはひとつ、詠者を観察しつつ、日記の心もちで評しようか、と思った次第でございます。評を楽しまずして、なんとやら。ということで、「朝顔の観察日記」ならぬ、「澤街の観察日記」です。お楽しみ下さい。


・「羊」
池田瑠那(「澤」)
仔羊反芻あきくさあまく融けゆくか
羊肉の煮えてにほふや秋夕焼

 
はじめに「羊」という題を見た時、真っ先に想像したのは羊ではなく、山羊だった。そののちに、ああ羊か、とすぐさま気持ちを切り替えて、はじめの鑑賞に臨んだ。池田瑠那氏の句は、羊の生態と身体を上手く結びつけた句が多いように感じた。

「仔羊反芻~」の句。あきくさは、私は食べようとは思わないが、仔羊にとっては馳走なのだろう。大人になり、豊かな毛を蓄える前の仔羊の愛くるしさが、作者の心眼を通じて、なんとなく垣間見えてくる。

「羊肉の~」の句。しかし、私達にとっては、羊の方が馳走なのだ。「煮えてにほふや」の、niの押韻が「や」の切れ字を経て、秋夕焼へととろけてゆく。個人的には「煮えて(niyete)」ぐらい、あまめに発音したい。羊も作者も、うメエ、うメエとうなりながら、互いの馳走を食べていたのだろうか。(自分で書いといて、月並みな洒落である)


冬魚(「澤」)
庭の枝に干し割烹着いわし雲
鼻歌や長芋摺り過ぎてしまふ

 
同じ結社で、こんなにも題の捉え方が違うのか、と思わず笑ってしまった。冬魚氏は、「羊水」というテーマから、ひとつの物語を描き出していると思われる。軽やかに展開される句群は、自由そのものだ。身体を自在に扱えないと、冬魚のような句群は作れないだろう。

「庭の枝に~」の句。割烹着といわし雲を、同時に視界へ入れる技法が見事。さらりと過ぎてゆく生活の中に見えた、ひと時の黄昏を詠んでいる。「庭」を持っている「家庭」という言葉遊びの茶目っ気も、句群全体から浮き出てくる。私もこんな庭、もとい家庭が欲しい。

「鼻歌や~」の句は、「や」という切れ字から、滑稽味がリズミカルにあふれ出てくる。「あぁ、長芋摺り過ぎちゃった」と気づき反省。しかし、そのあとには「そういうとこが、鼻歌の憎めないところだよナ」と、開き直るかのようにも見える。だからこそ、「鼻歌や」の軽やかさが利いてくる。変に洒落た野菜なんかを使っていないところが、この句のいい所だ。


金丸和代(「街」)
水引草しごけば樹海出入口
秋の蠅牛の眉間を打ちて過ぐ

 
金丸和代氏の句群は、動物園を見ているかのようで、様々な生き物たちが登場してきた。生命の鼓動を間近に感じた。それは、生の音と喪失の音のどちらとも取れた。

「水引草~」の句。水引草そのものは、紅白のつぶらな花が愛おしい。だが、「樹海」という場所へひきずりだされると、水引草とその下に流れる水が、途端に異化されていく。まさしく「樹の海」と言わんばかりの様相だ。蛇笏の「をりとりてはらりとおもきすすきかな」と同じような展開を感じつつ、作者の本地は、藪の中へと見えなくなるような句だ。

「秋の蠅~」の句は、率直な詠みぶりで、ミステリアスな「水無草~」の句とは対照的な印象を受ける。のっそりとした牛の動きと、ぴゅうっとあわてて過ぎていく蠅の、動きの対比が小気味いい。秋の蠅を上五に配置したことで、過ぎていった蠅から感じる、コミカルな生の有様が最後に余韻として残る。


茸地 寒(「街」)
モヒートのグラスの底の初秋かな
暴風雨の真中が楽し新豆腐

 
遊牧するかのように、ふらりふらりと気ままに句が並んでいく。茸地氏の句群を見た時、「羊がいない」と少し困惑してしまったが、もしかするとそれは「羊」という題が、「遊牧」というテーマとして遍在していたからかもしれない。

「モヒートの~」の句。そういえば私も、つい最近はじめてモヒートなるものを口にした。すうっと口の中へ苦さと涼しさが広がり、心地よく酔いを誘う一杯であった。甘めの酒の合間にモヒートをはさむと、とても良い。茸地氏にとってのモヒートの位置づけは私にはわからないが、透き通ったグラスの底へと、氷をすり抜けて沈んでゆく爽やかなモヒートは、まさしく静かな秋の訪れを予感させるものなのだろう。

ともすれば、「暴風雨~」の句からは、子供っぽいやんちゃ心が見えてきて、絵本作家のような、豆腐のような、つかみづらい感じがした。とても飄々としていて長生きしそうな人だと、句群から勝手ながら想像した。


・「秋服」

井上さち(「街」)
触角をきゅうんとしごく秋の夜
露草を枯らして回るのが仕事

 
テーマが変わると、趣向も劇的に変わってくる。今回の競詠の楽しみの一つだ。衣服というと、今はコスプレなども、その分野に大きな揺らぎを与えているのかもしれない。普段とは違う自分になれるのも、衣服の醍醐味だ。

「触角を~」の句は、きゅうん、という音が愉快だ。秋の夜の空間を、手に触れて捉えるというよりは、視覚、触覚、聴覚を併せたソナーのように捉えている。私が小学校の頃は、いつもてっぺんの髪の毛をピンとたてて学校へ行っていた。手で弄んでいるうちに、癖になってしまったのだ。思えば、あれは触角のようなものだった。ソナーでもあったし、考え事を深める指針をつくる仕草にもなっていたのだ。

「露草を~」の句。随分と物騒な仕事のように思えるが、なるほど昔は雑草のようにはびこっていたのが露草なんだと知ると合点がいく。しかし、今となってはめっきりその微細な青い花も見なくなり、つくづく人間の身勝手さを省みる。坦々と枯らされていく露草が、色無き世界を想起させる。労わることと仕事は、また別の仕草なのだろう。


玉田憲子(「街」)
秋服の袖口打身痕ちらと
無花果に向き柔道着滴りぬ

 
衣服が、なにかを隠すように見える時がある。それは仮装ではなくて、変装という言葉が近いかもしれない。私達は、素性を表すために衣服を身につけ、あるいは隠すために、衣服に着られているのだ。

「秋服の~」の句は、まさにそういった表現と隠蔽の表裏を、上手くとらえた一句だと思う。夏服だと、打身痕など練習の時にでもつけたものだろうと済まされるものが、ちらと隠すだけで捉われ方が変わってくる。何を表して、何を隠してしまうのか。衣服は、言葉よりも先に語る場合がある。

「無花果に~」の句。主体を柔道着へとずらした所が、まずは面白い。次に滴る雫のかたちや、柔道着の硬質な繊維から出てくる、でこぼことした様相が、無花果の形と重なってくる。柔道着は、洗濯したてで中はしっとりとしているのだろうが、さて無花果の中身は……。幾重にも考えをめぐらせてしまう。


岡本春水(「澤」)
宝石箱内張り赤し秋灯下
夜学子やポケット多き作業服

 
少し背伸びをして、身の丈に合わない服を買ったりする時もある。服に対する憧れというよりは、その服を着た姿、理想像なるものを求めて服を選ぶ時があるのだ。

「宝石箱~」の句。私の祖父母は宝石細工を販売していたのだが、指輪などを入れる小さな箱は、やはり内張りが赤かったものだ。真紅の内張りに囲われた指輪は、細やかな装飾もさることながら、美しさを求める私達の血潮の色を一身に受け、ひときわ鮮やかに色づいていたように思う。

「夜学子や~」の句の子は、たくさんの用具を使う細やかな作業へ日々励んでいるのだろう。その作業服は、少しは様になっているのだろうか。私は高校生の頃からトレンチコートに憧れているのだが、身長が低いため到底着こなせず、断念した。当句の夜学子は、一丁前に着こなせるよう、ひたむきに励んでほしい。そのような願いも「や」に込めてよい、と思わせてくれるようで、ありがたい、ありがたい。


川又憲次郎(「澤」)
歯を磨くシャワーバシバシ胸に浴び
ひとにあふための秋服吊し寝る

 
往来出不精の私は、必然的にファッションにも疎くなってしまった。というと言い訳がましいが、それでも人並みには、身だしなみくらいする。過ごしやすい秋ともなると、いつもよりもさらに気を遣う。

「歯を磨く~」の句、身だしなみは、なにも衣服だけではない。歯を磨き、身を清める。身体もまた、魂の器なのだ。いやはや、バシバシとは言葉が様になっている。惚れ惚れしてしまうな。見習いたい。

「ひとにあふ~」の句は、ともすれば、出不精の私のような感覚に似ている気がする。洒落た服を着る高揚感というよりは、「会いたくないな」という気持ちを「吊るす」という言葉から、感じてしまうのだ。絞首台につるされて、ほら見ろと言われているような。「あふための」という措辞からも、事務的な様子がうかがえる。だが、翌朝はけろりとシャワーを浴びているのだろう。バシバシと。


・「秋の海」

嶋田恵一(「澤」)
太刀魚の首掴み折る釣りたれば
基地いづる航空母艦あきつばめ

 
「海」というと、歌人・俵万智の「今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海」(『サラダ記念日』)が、私が始めに思い出す詩だ。海の深さと広さが、一番に出てくる。

「太刀魚の~」の句は、太刀魚の身体つきを上手く生かした句だ。ひらひらと海中を泳ぐ雄々しい姿は、人の手にかかれば、ぽきりと折られてしまう。太刀打ちできずに、ぶらりとうなだれる平たく細長い魚は、それでもしばらくは銀色に勇ましく輝いているのだろう。人も魚も秋の海も、陽が等しく照らす。

「基地いづる~」の句、航空母艦がゆっくりと海へ出ていく重厚感と、あきつばめの描く尾の軌跡が対照的で、景がしっかりと見えてくる。母艦や秋燕は、勇ましさを根こそぎ持ち去ってしまうから、帰りが待ち遠しくなるのかもしれない。航空母艦が去った分だけ、基地内には静謐な秋の海が戻ってくる。


望月とし江(「澤」)
海水に洗ふ俎板雁渡し
旅の荷は文庫一冊秋の海

 
秋になると、無駄にそわそわしてしまったり、なんとはなしに焦燥感にかられてしまったりする。余計にものを持ってみたり、変に着飾ってしまったり。要は、さみしいのだと思う。

「海水に~」の句。平らな俎板が、北風と海水を共に受ける。「海水に」という始まりにより、俎板の輪郭を海が包み込み、景に含みを持たせている。俗にいう三ツ星レストランなどでは、仕事が終わった後も、フライパンに油をコーティングして、大切に使うそうだ(ただの噂だが)。この句からも、そのような気合が伝わってくる。海と共に暮らす者たちの足音が、風に乗って聞こえてくるようだ。

「旅の荷は~」の句のような旅は、誰しもが一度は考えるだろう。「秋の海」という季語も、作者の旅行中に占める、読書の役割を示しているように思う。きっと、その本を読みこむ旅というよりは、旅の夜にその文庫を読みながら、あった事を思い返しているのかもしれない。夏のあら熱をゆっくりととっていくように、秋の海を眺めつつ、旅をするのだろう。


秦鈴絵(「街」)
夏掛けに目覚めて未だ水のまま
秋の橋渡りをはりて夜となる

 
私はよく考えが煮詰まると、突発的にシャワーを浴びたり、じっと流水を眺めていたりする。身を清めたりといった意味合いもあるけれども、水の不安定さが、むしろ心を安らげてくれるように思うのだ。

「夏掛けに~」は、寝起きの身体をぱっと言いきった一句。身体がまだ起ききらず、じんじんと鈍っている感覚を「未だ水のまま」と言いきったところが魅力的だ。盛夏の裏に潜む精神的な病理を、ぴたりと言い当てている。身体は何時いかなる時も、自分の思い通りの感覚に動くわけではないのだ。

「秋の橋~」は、抽象的な句だ。心象を「秋の橋」に託し、「夜となる」が句の方向性を示している。秋の橋の下は川水が流れ、作者はその上を歩いていく。どの時刻を過ぎたら夜、という明確な規定はない。この句の詩趣は、日の入りの微妙に揺れ動く時間帯を、橋の上で過ごしたところにあるのだろう。土を踏み、ほっと一息をついた作者の姿が「夜となる」から、見えてくる。様々な境界を捉える感覚が見事。


竹内宗一郎(「街」)
敬老日波をイメージしたダンス
虫籠に追込まれゆく頭かな


海もただじっとしているわけではない。満ち引きがあり、波を立て、潮風を運んでくる。刻々と変化していく様子は、四六時中見ていても飽きることはない。

「敬老日~」の句。どんなダンスなのか、ジャンルまで言い当てることはできない。フラメンコかもしれないし、もしかすると、チークダンスでもいいかもしれない。しかし、ペアで手を取り合って踊りあっている様子は、踊りそのものが波でもあるし、二人の距離や、会場全体が、波のようにゆらめいているのだろう。余談だが、私の祖母の好きなダンスユニットは「EXILE」だ。

「虫籠に~」の句、頭から突っ込まれる虫たちが哀れだ。だが、虫取りの記憶を思い起こせば、確かに虫は頭の方へ進んでいっていた。この句では、その習性を逆手にとって、まるで虫がおのずから虫籠へ入っていったような錯覚までも与えている。もちろん、強制的に追いやられているのだが。不思議な滑稽味がある句であった。


・住宅地

今井 聖(「街」)
秋日さす犬の歯型のある椅子に
芙蓉もう一輪本の帯取れば
露草の一つ仮説のやうに我


偏屈なおじさんは、近所に一人でいいと思う。俳人や詩人が、身近に1人いれば楽しいが、大勢となると考え物だ。と、ここまで鑑賞してふと思った。

「秋日さす~」の句は、今回の今井聖氏の十句の中でも、特に好きな句だ。椅子の厚みが、犬の歯型で裏打ちされているし、その歯型が椅子の年期を想起させ、秋日でつんつるてんに照っているのが、面白おかしい。過不足なく、面白い一句であるように思う。これぞ住まいといったところか。

「芙蓉もう~」は、時間の流れが開花へと託された一句だ。朝の身支度や用事を一通り済ませて、さあ本でも読もうか、と思った時、七分咲きほどの芙蓉が目に止まる。そこで初めて、作者は過ごしやすい秋の到来に感じ入ったのかもしれない。「本の帯取れば」という閉じ方が軽やかだ。ついつい読みふけってしまう、作者の近未来までもが予測できる。

「露草の~」の句は、「住宅地」という題の、混沌とした部分を引き出している。青く微細な露草の一つと同じく、「仮説のように我」が存在している、という事だろうか。自らで自らに仮説をたてる、という不毛さが、露草のつぶらな青さと相まって、深層へ沈んでいく自己へとつながっていく。しかし、赤の他人へ「私という生き物はネ」と話しかけてくるオジサンがいたら、私は真っ先に逃げ出すだろう。結局、自分は自分で探りださねばならないのだろう。それがどんなに不毛な行動だとしても。


小澤 實(「澤」)
ミニカーを戻し放つや廊冷ややか
雑貨屋開店小菊の鉢を出し並べ
寿司出前専門店やスクータ据ゑ


最近、飲食店なのか、喫茶店なのか、雑貨屋なのか、てんでわからない洒落たお店が増えて、辟易している。住宅地、ここに極まれり、といったところか。

「ミニカーを~」の句、ミニカー視点から始める事で、廊の長さとつるりとした冷たさが際立っている。「戻し放つ」という動詞の連続する部分も、往来を繰り返す廊をうまい具合に演出している。

「雑貨屋開店~」の句、開店祝いの小菊すら売り物にしてしまいそうだ。たくさん並べられている「雑貨」の中で、しっかりと映える「小菊」の細やかな彩りが美しい。しかし、ああいった雑貨屋で一番恥ずかしいのは、商品かと思ってレジまで持っていくと「それインテリアなんですよ~」と言われる時だ。まぎらわしい。私は怒っている。なぜなら、大抵そういう商品に限って一番買いたいものだからだ。

「寿司出前~」の句。私は寿司の出前を取ったことがないので、あまり実感がわかない。しかし、家のすぐ近くに、外国人寿司なるものがあり、ローマ字で江戸と書かれていたりする。おそらく、お店のマスコットキャラクターのような立ち位置として、スクータがあるのだと思う。そして、そのようなお店に、恐いもの見たさで入ったり、出前を注文したりするのがなかなかに楽しくて、時折ハズレを引いて後悔するのだが、やめられない。こういった住宅地に垣間見える、番狂わせの一軒が面白いのだ。

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