2018-01-14

【週俳12月の俳句を読む】全句雑感Ⅱ 瀬戸正洋

【週俳12月の俳句を読む】
全句雑感Ⅱ

瀬戸正洋


しぐるるや文字うすれたるみちしるべ  岸本由香

晩秋にやまみちを歩いていたらぱらぱらと雨が降ってきた。駅の方向、駅までの時間などの書かれたみちしるべなのだろう。みちしるべの文字は、いつのまにかうすれていくものなのである。うすれることにより、やまみちにも、やまそのものにも同化していく。さらに、ぱらぱらと降る雨にも同化していくのである。

ゆふぐれの茶の花に屈んでをりぬ  岸本由香

茶の花には風情がある。夕ぐれの茶の花には、さらに、風情がある。その茶の花に見入ってしまったのである。「屈んでをりぬ」とはいい表現である。夕ぐれの茶の花だから「屈んでをりぬ」なのである。当然、しばらくの間、茶の花とともに自分自身の来し方、そして、これからのことを考えていたのである。

出港を知らせる合図夕時雨  岸本由香

ともだちを送っているのか、愛しているひとを送っているのか。出港を知らせるサイレンが鳴ると、おあつらえ向きに、雨がぱらぱらと降ってきた。別れだから夕刻なのである。別れだから時雨なのである。別れだから海も陸もひとのこころも夕闇がおおい隠すのである。

雪になりさうと遠きまなざしで  岸本由香

遠くのものを視るように「雪になりそう」と言った。ただ言っただけではなく動作が加わったということなのである。雪は遠くはるかな世界から地上に落ちてくる。このひとは遠い世界からやって来た、非日常のひとなのである。そして、このひとは「旅でもしようか」などと囁いている。

勘忍と言うて色足袋脱ぎにけり  岸本由香

堪忍などという言葉を言い合っている男女など現実の世界にいるのだろうかと思った。色足袋よりも白足袋を脱いだ方が艶っぽいのではないかとも思った。私自身、演劇、小説のなかでしか堪忍ということばが出てこないとは、ずいぶん無粋で、殺伐とした暮らしなのだろうと思った。若いころ、一度でいいからこんな風に言われてみたかったなどと思った。

次の間に鶴来てをりぬ夜の房事  岸本由香

満員電車では必ず両手で吊革をにぎる。女子高校生の集団が乗車してきたら、隣の車両へ逃げる。職場では必ず挨拶を返し、言葉使いも丁寧に、そして、明るく余計なことは何ひとつ言わない。サラリーマン生活も最終コースをのろのろと走っているのだから、細心の注意を払い、身は守らなければならない。そんな老いぼれにとって「次の間に鶴来てをりぬ」などとは羨ましい限りである。朝でも、昼でも、夕でも、夜でなくても大歓迎なのである

鶴眠る紅絹の色なる夢を見て  岸本由香

鶴は片足で眠るのである。沼地、あるいは、雪原などで眠るすがたを写真等で見た記憶がある。日本には丹頂のような留鳥もいれば渡来する鶴もいる。紅絹の色とは、鮮やかな黄色がかった紅色である。あたたかそうな夢を見ているのは、その眠っている鶴を眺めているひとである。闇の中の片足で眠る鶴だからこそ、ひとも紅絹の色なる夢を見ているのである。

雪晴や折鶴に息吹き込んで  岸本由香

吸い込んだ空気は凍てついているのである。折鶴に吹き込んだ息はあたたかいのである。雪晴の大地が折鶴となる。ひとを介して雪晴が折鶴となるのである。大地のエネルギーにより折鶴は折鶴になり、ひとはひととして正しい生活をしていくのである。

書きなづむ一片の文しづり雪  岸本由香

なかなかことばが出てこない。何もないところから生み出すのだから至難の業なのである。書いては消し、消しては書いているうちに、はじめから書きはじめることになる。窓のそとをぼんやりとながめる。風が出てきたのか枝葉に降り積もった雪が散ってゆく。せっかく文章となったことばも、しづり雪のように散り落ちてしまうのである。

山眠る着信音のいつまでも  岸本由香

山眠るとは冬の山を擬人化したものである。着信音は何れ消えるものであるが、いつまでも続いているという。当然のことではあるが、電話をかけた相手は着信音が消えたとしても電話をかけ続けているのである。

吐く息を見上げていたり鎌鼬  松井真吾

吐く息は白い。息は吐き続ける。それを見上げているのだ。何かの拍子に鎌で切ったような切り傷が出来た。この傷はこころの傷なのである。何故、傷つけられたのか分からない。吐く息が白いということ、それを見上げていること、そんなことは不運な出来事に出会わなければ気付かないことなのである。

時雨るればテールランプが点く車  松井真吾

前を走っている車のテールランプが点いたのである。テールランプが点くことなど日常茶飯事のことなのである。それが何故、気付いたのか。自分でも、よく分からない。そういえば、先ほどから雨が降っている。時雨てきたからテールランプに気付いたことにしようと思う。こうして、だれもが折り合いをつけて生きているのである。

水草の枯れて側転するこども  松井真吾

水草が枯れるには理由があるはずだ。何故、水草が枯れたのか考えなければならない。この場所は体育館ではなく、自宅の水槽の置かれている部屋なのだと思う。故に、水草が枯れたことを、考えなければならない。側転するこどもを眺めながら考えなくてはならないと思う。

餅を搗かなければ話してあげない  松井真吾

他人に対して、こんな態度をとれるなんてうらやましい限りである。子どもなら許される行為なのである。だが、内容はおとなの話なのである。そこが面白いと思う。ところで、ひねくれた老人なら「話してくれなくてもかまわない。餅だって搗いてあげないから」と無視を決めこむのだろう。

スリッパの重ね連なる雪催  松井真吾

公民館、あるいは、どこかの施設のスリッパなのであろう。木箱の中にスリッパが重ね連なり反りかげんに入っている。この集まりはあまり興味がない。そんなことより、帰るときの空模様ばかり気になる。今にも、雪が降りそうなのである。それにしても、スリッパの汚れが気になってしかたがない。

留守電になって襖に耳あてる  松井真吾

自宅の電話は留守番電話にしておくのが一般なのだろう。親しいひとからの電話は携帯やスマホにかかってくるに決まっている。留守番電話には、ことばが続いていく。それを襖を開けずに耳をあてて聞いているのである。襖を開けることのできない理由が何かあるのである。

フラメンコスタジオに置かれた兎  松井真吾

フラメンコといえば夏の暑さをイメージする。兎といえば冬の寒さ、あるいは雪をイメージする。何かミスマッチなのである。置かれたとあるので、これは人形、あるいは置き物の兎なのかも知れない。フラメンコダンスと置かれた兎。動と静、これもミスマッチなのかも知れない。

霜焼のゴレンジャーの黄と握手  松井真吾

ゴレンジャーの黄の名前は知らないが戦隊もののヒーローということでいいのだろう。子どもを連れて握手会に並ぶ。握手した自分の手を見れば霜焼けであった。子どもがあこがれているのはゴレンジャー。子どもを育てているのは父親である自分。霜焼けの手をじっと見る。

橇に乗るひとから外される視線  松井真吾

注目を集めているひとがいる。そのひとの視線は自分を無視しているような気がした。注目を集めているひととは橇に乗るひとなのである。誰もが自分を中心に回っていると思っている。それが外されるのだから、見る側だからと思いなおしても悲しくなる。あるいは、すこし、怒りがこみあげるのかも知れない。考えてみれば、そんなことは日常茶飯事なのである。視線を外されたことを気付くときもあれは気付かないときもある。自分が視線を外したことを気付かないことなどいくらでもあるのだから。

葱構えわたしのほうへ歩きだす  松井真吾

葱で身構えるのだから大したことではないのだろう。だが、異様なことだと思う。この異様なことが現代なのである。都会の雑踏の中を葱で身構えた男が歩いてきたら気を付けなければならない。決して、話しかけてはならない。うつむいて立ち去ることが賢明なことなのである。

老人の達治朗読初しぐれ  桐木知実

ラジオから流れてきたのは三好達治の詩。朗読しているのは老俳優である。何となくスイッチを入れたら、聞き覚えのある詩が流れてきたのだ。しばらくして、達治の詩であることがわかった。朗読の声に聞き覚えのあったのである。十数分の番組であったが、仕事の手を休めて聞き入った。気が付くと窓の外では雨が降り出してくる。初しぐれである。

恐竜の爪ぬらぬらと冬に入る  桐木知実

博物館等の恐竜の爪は乾いているものだとばかり思っていた。だが、この爪は、ぬらぬらしていて滑りやすいのだという。生きている恐竜の爪は粘液状のものでおおわれているだろうから、よりリアリティーを出したかったのかも知れない。当然、生きている恐竜の爪がぬらぬらしているのだということも私は知らない。ところで、「ぬらぬら」ということばに興味を持った。老人とは冬のようなものだ。「ぬらぬら」とした爪を駆使して、生きていくのも悪くはないと思っている。

散髪の椅子の固さや冬紅葉  桐木知実

駅の構内やホームにある「十分間の身だしなみ」をキャッチフレーズにしている散髪店を利用している。千八十円である。当然、椅子は固く、そんなことを気にすることもない。この作品を読んで髪を切ることは女性も散髪という言葉を使うのだということを知った。郊外にある美容院だと思う。窓から冬の紅葉が見える。美容院の固い椅子と水分の無くなり枯葉に近くなった紅葉とが、ほどよく係わっている。

マスクしてマニキュアの濃い色ばかり  桐木知実

濃い色のマニキュアが気になる。いつもは、どんな色のマニキュアだったのかと考えても思いうかばない。季節のせいなのか、知らないうちに誰かにマインドコントロールされているからなのかなどと思ったりもする。よく見れば自分も濃いマニュキアをしている。マスクをしたせいなのかも知れないなどと思ってみる。

凍雲か空中都市が夕暮れる  桐木知実

まざまざと空中都市が見えたのである。夕ぐれのなか空中都市が見えたのである。だが、誰に説明しても信じてもらえない。作者にしか見えないのだから。説明のしようがないことは、はじめからわかっていたことなのである。「凍雲だから」とつぶやき、あきらめの照れ笑いをする。

冬蜂のよく死んでいる通学路  桐木知実

死骸というものは目につくものなのである。数匹であってもよく死んでいると思ってしまうのである。ひとは、苦しみ、もがき、恐怖を覚え、家族に迷惑をかけながら、惨めに死んでいくものなのである。誰にも迷惑をかけず通学路で死んでいる冬蜂に憧れがない訳でもない。

捕らわれているクリスマスツリーかな  桐木知実

クリスマスツリーは、誰のものでもなく、そこにいるみんなのものであるということをクリスマスツリーの立場で表現している。ひとりでいることの寂しさ、みんなでいることの寂しさ、クリスマスツリーの寂しさ、みんな同じだと言っているのである。

暖房のゆるく実験控え室  桐木知実

実験控え室があることを知った。実験室があるのだから、控え室があって当然と言えば当然なのだろう。実験室は、文字通り実験をする室なのだから、温度も湿度も管理されているのだろう。従って、控え室もそれなりに管理されているのかと思ったのだが、そうではなかったということなのである。

鴨なくやキリスト教の街宣車  桐木知実

鴨といえば鳴き声よりも、鴨鍋、すき焼き、鴨南蛮といったような食べ物の方になじみが深い。さらに、街宣車といえばキリスト教の布教というよりも右翼団体の軍歌しか知らない。「なく」「キリスト教」と、すこしひねってみたのだと思う。あとは、作者は何故、ひねりたくなったのかを考えればいいのだと思う。

冴え渡る星を烏の喰らいたる  桐木知実

空のこと、また、その上の宇宙のことなど、ひとは何も知らないのである。冴え渡るとは澄みきっていることである。さらに、冷えきっていることでもある。その星を烏が喰ったのである。このぞんざいさが烏らしいといえばそうなのかも知れない。誰も見たことのないものを見たのである。どんどん言いふらしてやることは正しいことなのである。

凍鶴のこゑを旅の荷ととのはず  鈴木総史

旅の支度ができていない。そんなときだからこそ凍鶴のこえを聞きたいと思っている。現状を肯定するのではない。また、否定するのでもない。ただ、こころは自由に遊んでいるのである。

あをぞらは花鳥を育て神の留守  鈴木総史

初冬のころの風や青空が、ひとが楽しむための花や鳥を育てるのである。神様がどこへお出かけになろうとも何の心配もいらないのである。晴天の日、特に、休日は、ひとのこころもからだもおだやかになるのである。

花枇杷や雨後の墓石の澄みきりぬ  鈴木総史

境内に枇杷の花が咲いている。白い花は冷たい雨がよく似合う。本堂から外へ出ると雨は既に上がっていた。卒塔婆を立てて、線香をあげてお墓をあとにする。振り返ってみると、墓石ばかりではなく裏山も参列者も何もかもが澄みきっている。

石蕗の花一歩に寺の軋みけり  鈴木総史

田舎にある檀家数の少ない寺なのかも知れない。本堂を歩いたり廊下を歩いたりすると床が軋むのである。庭には石蕗の花が咲いている。「ぎい」という音は黄色い石蕗の花のせいなのだなどと思ったりもする。

寒泉を鳥鳴き交はす一日かな  鈴木総史

寒泉とは澄んだ水をたたえた泉のことである。その泉には、近隣のひとたちが集まってくる。あるいは、噂を聞きつけて遠くから、その泉の水を汲みに来るひとたちもいるのである。近くの雑木林では、水を飲むために集まってきた小鳥たちが思い思いに鳴いている。

葱畑四五本育ちすぎてをり  鈴木総史

これは宿命なのである。何もかもがうまくいくことなど考えられないのである。どこの葱畑にも収穫しそこなった葱が、必ず、四五本はあるのである。もっとあるのかも知れない。ひとは、このくらいのことで自分を責めたり不快に思ったりしてはいけないのである。気楽に生きていくことは、耐えて生きていくことと同じことなのかも知れない。

帰りけり葱のあをさに眩みつつ  鈴木総史

目まいがしたのである。何故なのかはわからない。きっと、先ほどのことが原因となったのかも知れない。それにしても、打たれ弱いなと思う。そう思うことは不快なので、葱のあざやかな緑色が、この目まいの原因だとしようと決心する。自分が原因であっても、他人に押し付けてしまうことは、精神的衛生上よいことなのである。

綿虫や町暮れてより塔暮るる  鈴木総史

町の夕ぐれに綿虫はふさわしい。山村でも綿虫は夕ぐれがふさわしいのである。確かに、町は暮れても高い塔の先端には夕日が届いている。綿虫と町の夕ぐれならば、それだけのことだが「塔暮るる」としたことにより視野がおおきくひろがったのである。つまり、作者には視野をおおきくひろげなくてはならない必然性があったのである。

自転車に胴体のある夕焚火  鈴木総史

自転車といえは、前輪、後輪、ハンドル、ペタル、サドルとなるが、胴体としたことで意外性が出た。胴体とは三角の鉄パイプのことなのである。焚火といえば夕がたである。焚火の側を自転車が通り抜けたのである。当然、これは自転車の意思によるものなのである。

天井の迫つてきたる避寒宿  鈴木総史

蒲団の中で猛烈な寒さを感じたのである。あたかも、天井が落ちてくるような猛烈な寒さを感じたのである。寒さを避けるためにやってきた宿ではあるが自宅より寒いと感じたのである。何のために、ここに来たのかなどと思ってはいけない。当然、自宅の方が何倍も寒いことに気付かなくてはならない。

廃屋をこはさぬやうに照らす月  滝川直広

廃屋を壊していくのは月なのである。太陽や風や雨や雪ではない。月は、そのことを知っているから壊さぬように照らすのである。もちろん、廃屋もそのことを知っているから身じろぎもせず、月のひかりを浴びているのである。当然、月も雲の出てくれることを願っている。

みのむしの簑を月光漏れてきし  滝川直広

月光が漏れてくる建物であるなら、それは、あばら屋なのであろう。みのむしをてのひらにのせてみる。月のひかりは柱を壁を揺らすのである。そのとき、てのひらのうえのみのむしにも月のひかりがふりそそぐ。蓑のなかのみのむし、あばら屋の中にたたずむひと、わけへだてないようにふりそそぐ月のひかり。月には意思があるのである。月は間違ってはいないのである。

ドックより鉄気(かなけ)のにほひ泡立草 滝川直広

ドッグとは、船の建造、修理などのために築造された施設のことである。このドックはそれほど大きくないのかも知れない。ドッグに近づき中をのぞいてみる。造りかけの船よりも、鉄気の匂いに驚く。そのとき、ドッグの側には黄色い泡立草が咲き乱れていることに気づく。

巡礼の次散りさうな紅葉指す  滝川直広

巡礼とは、巡礼者のことではなく巡礼という行為のことなのだろう。巡礼とは、日常的な生活空間から離れて宗教の聖地や聖域に参詣し聖なるものに接近しようとする行為とある。巡礼者たちは巡礼の次には散りそうな紅葉を指すのだという。「散りそうな紅葉」を「指す」ことが、次のステップであり、巡礼のあとには、その次、また、その次があることを暗示しているのである。

こゑがはりまへの少年石蕗の花  滝川直広

声変わりとは、発声器官の成長によって声帯振動、発声の様式が変わり声の音域や音色が変化することで、一オクターブほど下がると言われている。声変わりの時期は小学校卒業前後というのが一般常識である。また、女性の場合は自覚するほど変化は少ないとのことである。これは、誰もが知らないことなのだが、声変わりまえの少年は、誰もが石蕗の花の前を通りすぎるのだ。そして、誰もが、黄色い石蕗の花にこころがうごく。

鴨ののる水の中より暮れてきし  滝川直広

鴨が湿地、あるいは、沼地に群れている。その湿地、あるいは沼地でもなく、その水の中から夕ぐれがやってきたのである。鴨がのったから、そうなったのである。鴨がいるだけでは水の中から暮れてこない。水にのるという鴨の意思が大切なのである。

帰り花書体のちがふ墓碑と墓誌  滝川直広

帰り花は、季節を違えて咲く花のことである。墓碑とは墓石のこと、墓誌とは、名前、戒名、没年月日を記した石板である。墓誌は、その都度、書き足されていくものであるが、最初に、墓碑と異なった書体にすれば、その書体のまま書き足されていく。ただ、私は、まいねん、何度も、お墓に行っているが、墓誌の書体は、どうなっているのか知らない。書体は異なっている方が普通であるのかないのかも知らない。

短日の意訳のつづく字幕かな  滝川直広

映画の字幕が意訳なのか直訳なのか知らないが、意訳のつづくとあるのだから、意訳は珍しいということなのだろう。原語を知らなければ意訳であるかどうかも分からない。作者は、何度も、この作品を観たに違いない。短日だから、意訳であることに気付いたのかも知れない。

極月の百葉箱の眩しさよ  滝川直広

百葉箱とは、気象観測のための温度計などの観測機器を日射から守るため、また、雨や雪から守るための白い箱である。私が子どものころ、小学校の校庭の隅にあった記憶があるが最近は見かけない。この百葉箱を眩しく感じたのである。それも極月の百葉箱を眩しく感じたのである。作者には極月の百葉箱を眩しく感じる思い出があるに違いない。

積み上げて菜屑くすぶる蕪村の忌  滝川直広

くすぶるのだから乾ききっていない菜屑なのだろう。それを積み上げて、火をつけたから、くすぶり出したのである。その日は、陰暦の十二月二十五日、俳人であり画家であった与謝蕪村の忌日であった。

遠火事といふ祝祭に染まる空  滝川直広

他人の不幸は・・・だとしても、遠火事を祝祭としたことには考えてしまう。火の色に染まった遠くの空をながめていたら祝祭ということばが出てくるのであるから、作者の内には苦悩とか、あるいは恐怖とか、負の何かがあるのだと思う。ただ、私は自分のことを悪人だと思っているので「性善説」より「性悪説」で考えた方が間違えることはないと思っている。

イヤホンに音の通はぬ冬籠り  滝川直広

寒いから家に引きこもりたいと思う。当然、イヤホンも引きこもりたいのである。つまり、イヤホンのサボタージュなのである。ひとは、イヤホンが壊れたと思いすぐに買い替えてしまうが、話しあい解りあうことができれば、すぐに、イヤホンの音は通い出すのである。

初夢の中も単身赴任して  滝川直広

よい夢を見たことがない。こころもからだも好調のときは、そんなことなど考えもしない。身を守るために、初夢は、よい夢にしなければならない。そのプレッシャーが、単身赴任の夢を見させたのである。正夢だと困る。嫌な夢を見てしまったとつぶやく。

男役大寒の街大股に  滝川直広

女性が街を大股で歩いているのである。その女性は男役であった。男役なので男らしくふるまっている。男に似せようと男のしぐさを観察する。その結果、自然に大股になってしまったのである。一年中でもっとも寒い季節、女性は街を大股で歩く。

寒暁や耳鳴りに耳ふさがれて  滝川直広

寒さによってなのか、冬の明け方だからなのか、耳鳴りがする。そのために、何も聞こえなくなってしまった。耳がふさがれているような感じがする。それは、自分で自分の耳を聞こえなくしているということなのである。つまり、からだが聞く音を取捨選択をしているということなのである。耳もからだの一部なのである。

鳩とガスタンクもうすぐクリスマス  上田信治

クリスマスを待ち遠しく思っているのはひとだけではないのである。鳩も風も青空も、ガスタンクもタンクローリー車も街も、あらゆるものがクリスマスを待っているのである。人生とは待つことなのである。待つことがすべてなのである。ときどき、ひとは「死」を待っている自分を確認している。

指あかく見えない棘や触ればある  上田信治

老眼であるから棘は見えない。老人であるからどうでもいいと投げやりになる。感触では確かに刺さっている。触れれば痛い。刺さった棘をそのままにしておいた。数日したある日、皮膚が自力で棘を外へ押し出した。私は私の皮膚を褒めてやった。バーボンのソーダ割を一杯余計に注文し祝った。

きりん草枯れ靡きつつまぶしさよ  上田信治

眩しいとは、光が強く、あるいは、あまりに美しく、あまりに立派で、「まともに見ることができない」ということだ。きりん草が枯れて靡いていく様が眩しいとはどういう光景なのだろう。だが、作者が「枯れ靡きつつまぶしさよ」と言っているのだから、その通りなのだろう。

俳句は他人のために作るのではなく自分のためだけに作るのである。私のようなものが理解できないことなど、どうでもいいことなのである。

自分自身が読むために作るとは、未来の自分が読むためということなのである。過去の自分は現在の自分ではない。過去の自分の作品は現在の自分ではない。現在の自分の作品を現在の自分が読むことなどできる訳がない。できたとしたら、そのひとは狂人である。

北風が一方向へ人を押す  上田信治

その先には何かがあるのである。ひとは目的があって行動する。順番に、そして、整然と歩いているのである。そのとき、作者は、ひとの意志とは関係なく、北風の意志により、ひとの集団が一方向へ歩いていると思ったのである。ひとは意思により行動するなどとは恥ずかしくて言うことなどできない。

北風が橋の全てを巻き包む  上田信治

田舎の川に架かっている橋、その橋の全てを巻き包む北風、ずいぶんと、荒々しい風である。当然、巻き込んでいるのは橋だけではなく、家も木立も、枯草も、砂も、土も、ひとも、鳥も、何もかもを巻き包んでいるのである。

北風にとぶ鳩土手を吹き上がる  上田信治

土手から鳩が飛び立ったのであるが、あたかも、北風に吹き上げられているように見えたのである。北風の強さ、荒々しさを感じたのは作者自身であり、自分が感じたからこそ、鳩も、北風に吹き上げられたように見えたのである。当然、作者自身も、北風により土手を吹き上がっていくのである。
 
タクシーの会社のありぬ冬の月  上田信治

タクシーは路上で拾うとか、BARで呼んでもらうとか、駅前でならんで乗るものなのである。それがあるとき、街を歩いていたら、タクシー会社の看板を見つけた。事務所があり車庫にタクシーのならんでいる風景は新鮮であった。空には、さむざむとした冬の月が懸かっている。

ハンガーを捨てるきれいな冬休み  上田信治

ハンガーを捨てようと思っていたが、なかなか、踏ん切りがつかず捨てられなかった。あたまの中が、もやもやしていたのである。それを冬休みには捨てることができた。冬休みがハンガーを捨ててくれたのである。部屋の中も、あたまの中も、きれいになったということなのである。冬休みは偉いと思う。

石蕗の花そのうへに寝室の窓  上田信治

この部屋が寝室であるかないかは住んでいるひとでなければわからない。寝室の窓から外を眺めても石蕗の花には気が付かない。ある日、作者は庭から寝室の窓を眺めたとき、窓の下に石蕗の花が咲いていることを発見した。そのとき、不思議な感情の湧いてくる自分に驚いたのである。

朝はパン飛んでゐる白鳥を見る  上田信治

いつもは、ごはんに味噌汁派なのかも知れない。北海道あたりを旅しているのかも知れない。ホテルの朝食は周囲の景色が一望できるレストランのブュツフェ形式。今朝は、パンとコーヒーとサラダの軽めの朝食。飛んでいる白鳥に感激しながら、非日常である今日の予定を確認する。

夢ながら罪深くへ下りる鯨  福田若之

夢ではあるが道徳に反していることをするのである。夢であっても否定するこころと、夢にさえ出て来てしまうという怖れが入り混じっている。パサージュとは商業空間であり、その鯨であるので確かに「夢」なのだろう。パサージュの鯨とは、作者自身のことなのである。

のぼせると鯨が背景に軋む  福田若之

のぼせているのは、そこを歩いているひとたちである。あふれるばかりの商品に、行き来するおおぜいのひとたちに、すっかり、のぼせてしまっている作者自身なのである。そのことに対し、鯨は不快になりいら立ち軋むのである。

鯨に幽閉された頭取ネクタイピン  福田若之

頭取とは銀行の代表者のことである。その銀行の代表者が鯨によって部屋に押し込められたのである。鯨には幽閉しなければならない理由があったのだ。

私は、スーツは作業服だと思っているので安物を買う。太っているので上も下もよく綻んでしまう。千円前後で修繕してくれるが「よく綻ぶようなので、見かけは悪いが丈夫な糸を使いました」と言われた。ところで、私はネクタイピンなどしたことがない。

ひとつではない無表情の鯨の再来  福田若之

かつて表情のない鯨が現れたように、今、まさに、その鯨が現れようとしている。こころの中の感情を現したものを表情という。過去に、幾度となく再来した無表情の鯨。あたりまえのことだが、無表情でいることは正しいことなのだし、その都度、無表情である理由が異なっているのは当然のことなのである。

太陽の廃液に打たれる鯨  福田若之

美しくかがやくために太陽は不要になった液体を捨て続けている。鯨はそれに打たれ続けている。鯨も正しく生きるために不要になった体液を捨て続けている。弱いものは強いものの廃液に打たれたくないと思っても回避することなどできる訳がない。ひとの廃液に打たれるものは地球と月と火星なのである。

欲する眼やがて鯨が尾をひねる  福田若之

鯨は迷っているのである。迷ったら動かない。悩んだら諦める。これは人生の鉄則なのである。鯨が尾をひねったことは正しい。欲する眼は、決断ができなかったのである。鯨は諦めてその場を去っていったのである。

書く愉悦跳ねて鯨の仰向けに  福田若之

書くことが、鯨にとっての、たのしみ、そして、よろこびなのである。鯨がものを書く場合は跳ねなければならないのだ。跳ねなければ新鮮なことばが浮かんでこないのである。したがって、鯨の姿勢も跳ねることにより仰向けになったりもするのである。

触れたそのそれらをではなくす鯨  福田若之

この作品「触れた/その/それらをではなく/す鯨」と切るのか。「触れた/その/それらを/では/なくす鯨」と切るのか。前者だと酢鯨に触れたことになってしまうので後者なのだと思う。「触れたそのそれらを」では、「なくす私」。となる。

去る鯨焚書の火がたわむからむ  福田若之

宗教書、思想書、禁書等を為政者が焼却しているのである。その火が生きているかのように撓んだり絡んだりしている。火も鯨も作者も抵抗の意志を示している。鯨は、それでよしと考え、その場を去っていく。

鯨その心臓がまだ柔く動く  福田若之

肉体を開いて心臓を取り出し柔らかく動いていることを確認したわけではない。自分が生きているということを確認したのである。おおきな出来事を乗り越えたあと自分自身の精神が壊れていないことを確認して、鯨は安堵したのである。

風邪すこし残りて財布買ひにけり  村田篠

風邪の治り際を「すこし残りて」とした。風邪が峠を越えたときは、誰もが、その微妙なからだの変化を実感すると思う。坂を下りはじめれば治ったようなものだ。行動を起こすときには何かが必要なのである。作者は財布を買う理由として風邪が治りそうだからとしたのである。

免税と書かれた窓の煤払ふ  村田篠

煤払いとは、正月前に、家中を掃除することである。窓に免税と書かれているので免税の商品を扱っている店なのであろう。その店も正月を迎えるために家中を掃除するのだ。特別な店であっても、誰もが同じようなこころを持って、同じようなことをして正月を迎えるのである。

左右から別の音楽クリスマス  村田篠

雑踏を歩くと、前からも後ろからも、上からも下からも、左からも右からも、何かしらの音楽が飛び込んでくる。そのとき、作者の耳は左右から別々なメロディーを捉えた。そのふたつの音楽は作者にとって特別なものだったのである。それが、たまたま、クリスマスの日であったということなのである。

冬晴や巣鴨プリズン跡に猫  村田篠

第二次世界大戦後、GHQによって接収された巣鴨プリズンは戦争犯罪容疑者たちが収容され処刑された場所である。その跡地には猫がいる。冬の太陽が降りそそぐおだやかな風景である。また、冬晴としたことで開戦の日もおだやかで、ごく普通のなんでもない日であったような感じを受ける。はじまりは、いつも、おだやかに、そして、そ知らぬふりでやってくるのである。騙されてはいけない。

手袋を脱いで握手のあたたかき  村田篠

手袋のまま握手をするひとは少ないだろう。手袋を脱いで握手をしたのだが、冷たいと思っていたそのひとの手が、ことのほか温かかった。そのひとは、あたたかい感情を持っていてくれたのだと思った。そんなとき、幸せな気分になるのはあたりまえのことだと思う。

板状にひろがる寒さ日比谷口  西原天気

氷が板状にどんどん張っていく。そんな動きのある寒さである。JR新橋駅日比谷口改札を抜けると顔面を板状の寒さが襲い掛かってくる。そんなときは、雑踏のなかに紛れ込むに限るのである。雑踏のなかはあたたかい。ひとのこころもあたたかくてやさしい。だから、急ぎ足で酒神に会いに行くのである。

こゑとこゑ砂のごとくに十二月  西原天気

声はさらさらしたものなのである。濡れていてはならないのである。風が吹くと声は、どこまでも走っていく。十二月とは、おしまいの月なのである。おしまいの月だから、声はどこまでも走っていくのである。鉄橋を渡り、野原を越えて、町を横切り、どこまでも、流れていくのである。

夜遊びは夜空のやうな毛皮着て  西原天気

夜遊びは雑踏に溶け込まなくてはならない。夜空のような毛皮を着て自分を隠さなければならない。夜遊びの基本は隠れることなのである。午前零時を過ぎたころ、おとことおんなは闇のなかに溶けこんでいく。当然、闇もおとことおんなのなかに溶けこんでいくのである。
 
くちびるをたどりて冬の森のなか  西原天気

冬の森のなかは危険なのである。何故なら、妖怪がうようよしているからである。ひとは何をするかわからない。ひとは平気で嘘をつく。くちびるばかり見ていたので森のなかに入ってしまったことがわからない。どこにいるのかわからない。いちばん危険なのは、妖怪ではなく、そのくちびるのひとであることにも気づかない。

コートごとぎゆつてしたいけどがまん  西原天気

がまんは大切なのである。それさえできれば、つつがなく生きていくことができるのである。それさえできれば、しあわせな人生をおくることができるのである。コートごとぎゆつてすることなど、畏れ多くて、とんでもないことなのである。人生とは耐えること、人生とは待つこと。そして、誰にも知られずに、ただひたすら愛することなのである。

剝製の多すぎる部屋冬ぬくし  岡田由季

剝製であろうとなかろうと「過ぎる」ことはよくないのである。多すぎてもいけない。少なすぎてもいけない。ほどほどがいいのである。だが、そのほどほどがいちばん難しいのだ。冬のあたたかな一日、このことこそ、真実、ほどほどであるということなのである。

裸木となりても鳥を匿へり  岡田由季

木の本質は鳥を外敵から守るためにあるのである。葉が落ちて裸木になろうとも匿おうとする精神は、何ら変わることはない。ただ、鳥は裸木となった木に対して、木とは異なった考えかたで止まっているのである。これは、裸木と鳥との関係ではない。ひととひととの関係なのである。

採掘の助手と接吻耳袋  岡田由季

採掘の助手とは荒々しいものなのである。接吻も荒々しいものなのである。誰もが用心しなくてはならない。採掘とは鉱物などの地下資源を掘り出すことである。耳袋を耳にかぶせたぐらいでは、この荒々しさから、自分を守ることなどできないのである。

湯ざめしてキシワダワニとなる背中  岡田由季

キシワダワニは大阪で発見された新生代のワニのことである。その化石は、きしわだ自然資料館に収蔵されている。ワニは口先から尻尾まで、すべてが背中だとしよう。湯ざめをしたことによりキシワダワニの生息していた三十万年前の大阪平野に思いを馳せたのである。ちょっとしたからだの変化が時空を超えて背中がキシワダワニとなったのである。

冬ざれの汀に尻尾垂らしをり  岡田由季

冬の寂しい湖の水際に何かが動いている。湖というよりも沼といった方が適切なのかも知れない。何かが動いていることにほっとする。目を凝らすと尻尾が見える。水際を背にして餌を捜している小動物なのだろう。餌を捜しているうちにここまで下りてきてしまったのだろう。


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第556号 2017年12月17日
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