雪女とクリームソーダ
福田若之
個人歳時記編纂中。ある疑問。「雪女」がいろんな歳時記で「天文」分類になっているのに違和感増幅中! 「雪女」は人事だろ? いやいや、行事だろ? 違う、あれは動物だ。社内論議沸騰してます。— 島田牙城@邑書林&里俳句会 (@younohon) 2018年3月9日
このツイートを読んで、興味深いと感じた(牙城さんのツイートは、俳句についていろいろ考えるきっかけになることがあって、ときどき見に行っている)。「雪女」は、季題として、なぜ天文の部に分類されているのか。
ただし、現に歳時記を編纂する立場から「雪女」をどう分類するのが妥当か、という問題には、正直なところ、そこまで関心が持てない。というより、それはあくまでも個々の歳時記の編纂者がそのつど考えればよいことだと思う。
そもそも、歳時記の分類というのは、とてもではないが厳密なものとは言いがたく、曖昧さを孕んだ便宜的なものにすぎないのではないだろうか。たとえば、今日市販されている多くの歳時記では、「河豚」は動物、「河豚汁」は人事に分類されていて、それだけ見れば、まあそうだろうな、と思うのだが、いざ「河豚」の例句を読んでみると、みなさん河豚食べまくってたりするわけである。おいしいですよね。
話を戻すと、「雪女」をどう分類するのがよいかという問いには、たぶん、はっきりした答えがあるわけではなくて、結局のところ、どういう歳時記にしたいのか次第だと思う。
けれど、「雪女」がなぜ天文に分類されてきたのかは、もしかすると、季題についての、ある時代の考えそのものに関わることかもしれない。だから、そのことは僕にとってもたしかに興味深いことだ。
すこし調べてみると、「雪女」というのは、それなりに古くから通用していた横題だったらしい。『毛吹草』にも、「誹諧四季之詞」のひとつとして「霜月」のところに小さく記載されているし、『俳諧歳時記栞草』には、「深山雪中稀に女の貌を現す、これを雪女といふ、雪の精なるべし」とある。ただし、これらの書では時候や天文といった部類での分類がされているわけではない。
ちなみに、1933年(昭和8年)に改造社から刊行された『俳諧歳時記』(全5巻)では、692項の季題が時候・天文・地理・人事・宗教・動物・植物の7部門に分類されており、「雪女」は、「雪女郎」の傍題として、すでに天文に分類されている。
ちなみに、1933年(昭和8年)に改造社から刊行された『俳諧歳時記』(全5巻)では、692項の季題が時候・天文・地理・人事・宗教・動物・植物の7部門に分類されており、「雪女」は、「雪女郎」の傍題として、すでに天文に分類されている。
まあ、なにしろ「雪の精」なのだから、「雪」と同じく天文に分類するというのは、それなりに理屈が通ったことかもしれない(もちろん、これはあくまでも個人的な感覚としてだけれど、動物よりは天文のほうがしっくりくる)。
しかし、それでは「佐保姫」や「龍田姫」が今日の歳時記においてしばしば天文に分類されているのはどうしてだろう。「冬将軍」とかは「冬」の傍題で時候なのに。
たしかに例外もないことはない。管見のかぎりではふたつ見つけることができた。ひとつは、辻桃子・安部元気『増補版いちばんわかりやすい俳句歳時記』(主婦の友社、2016年)で、「佐保姫」と「龍田姫」をともに時候に分類している。もうひとつは3年ほど前に新装ワイド版が出版された平井照敏編『新歳時記』シリーズ(河出書房新社、2015年、全5冊・別巻2)で、「佐保姫」のみ「春」の傍題として時候に分類している(「龍田姫」は収められていない)。だが、先日出版されたばかりの角川書店編『俳句歳時記 第五版 春』(KADOKAWA、2018年)をはじめ、少なからぬ歳時記がこれらの季題を時候に分類しているのである。
もちろん、佐保姫や龍田姫は、冬将軍などとは違って、単なる季節の擬人化ではない。そもそもは、五行説における方角と四季の対応関係に由来してそれぞれに春秋を司るとされることになった山の神霊だ。けれど、このあたりの成り立ちが、「佐保姫」や「龍田姫」を天文に分類する理由に関わっているとはどうも考えづらい。
山の神ということもあってか、佐保姫は霞を身にまとった姿で想像されるし、龍田姫は錦を着飾った姿で想像される。とはいえ、これが理由で「佐保姫」が「霞」と同じ天文に分類されているわけではない。「龍田姫」が「紅葉」と同じ植物の部に分類されるのかといえば、もちろんそんなことにはなっていないわけだ。それならば、むしろ、「佐保姫」といえば春の佐保山を思い、「龍田姫」といえば秋の竜田山を思うのだから、いっそ地理に分類しよう、という提案のほうがまだしも納得できる。
そもそも地理なり時候なりに分類されていたら、あんまり不思議にも思わなかったかもしれない。ちなみに、件の改造社版『俳諧歳時記』では、奇妙なことに、「佐保姫」は天文に分類されているのに「龍田姫」は時候に分類されている。改造社の『俳諧歳時記』は季節ごとに解説者が異なっているので、このようなことが起こったのかもしれない。春の部の季題解説は高濱虛子、秋の部は松瀬青々。虛子の解説文はいわゆる口語体なのに対して青々の解説文は文語体であり、こうしたことからも執筆者の裁量に任せられた部分が非常に大きかったことが想像される。ただし、参考執筆者の欄を見ると、いずれの部も時候・天文の部の担当者として気象学者である國富信一の名が記されている。
子規はどうだろう。俳句選集の『春夏秋冬』は時候・人事・天文・地理・動物・植物の6分類を採用しているけれど、「佐保姫」や「龍田姫」の採録はない。ただ、『寒山落木』の明治26年および明治28年の「龍田姫」の位置、さらに明治26年の抹消された「佐保姫」の位置から、子規はこれらを時候の季題と考えていたことがわかる。
もしかすると、「佐保姫」や「龍田姫」が、今日市販されている少なからぬ歳時記において天文の部に分類されているのは、虛子の判断に由来するところが大きいのだろうか。西村睦子『「正月」のない歳時記――虚子が作った近代季語の枠組み』(本阿弥書店、2009年)は、改造社版の『俳諧歳時記』とその翌年に三省堂から出版された高濱虛子編『新歳時記』(三省堂、1934年)を中心に、さまざまな書物の比較検討を通じて近代的な季語・季題の枠組みの成立に虛子が深くかかわっていたことを実証的に明らかにしているが、この「佐保姫」と「龍田姫」の分類に関しては、特に記されていない。
いずれにせよ、これらを天文に分類するのは、今日の僕らにとっては思いもしないような思考の枠組みが作用した結果だというふうに考えるのが自然ではないだろうか。それがはたしてどういった枠組みなのかは、知らないけれど。
歳時記といえば、「クリームソーダは季語かどうか問題」(と、僕が勝手に名付けた問題)もあった。今井聖「虚子編『新歳時記』を読む」の第3回「「ソーダ水」について」において提起されている問題だ。この文章に、「クリームソーダはアイスクリームと曹達が使ってありますが、これは季語なのでしょうか。恐らくダメなのではないですか」と書いてある。どうしてそんなことが問題になるのかというと、その事情についてはこう書いてある。
「ソーダ水」とは別に「ラムネ」や「サイダー」といった炭酸飲料が夏の季題とされるように、「クリームソーダ」だって場合によっては季題と見なしうるのではないだろうか。あとは、それを「ソーダ水」の傍題と見なすかどうかの問題だろう(実際、改造社の『俳諧歳時記』は先に記したとおり1933年(昭和8年)刊で、今井聖が話題にしている1934年(昭和9年)の虛子編『新歳時記』とほぼ同時代のものなのだが、その夏の部の「ソーダ水」の項には、すでに「アイスクリームソーダ」という傍題が挙げられている。 ちなみに、夏の部の季題解説は青木月斗、ソーダ水が収められた人事の部の参考執筆者は国文学者の武田祐吉)。
で、そんなことに思いながら読み進めていったところ、文章の終わりのほうに「スタバでキャラメルマキアートを頼んだのならそう詠めばいい。キャラメルマキアートには氷が入っているから百パーセント夏の季語になると思います」と書いてあって、これには思わず笑ってしまった。突っ込みどころはすくなくとも三つあって、それは次のとおり。
ところで、聖さんの文章で肝心なのは「クリームソーダは季語かどうか問題」ではないので、それについては一言書き添えておきたい。
ちなみに、「クリームソーダ」は季題かどうかという問いに対しては、僕ならこう答える――「クリームソーダ」がそれ自体として季題であったり、そうでなかったりするわけではない。ただ、「クリームソーダ」を季題とする句は書きうるだろうし、読みうるだろう。
このことは、突き詰めれば、「クリームソーダ」のような言葉ばかりではなく、「春」や「夏」といった言葉についてさえ言えることだ。わざわざ《嗚呼夏のやうな飛行機水澄めり》(佐藤文香)といった例を持ち出すまでもない。《春の濱大いなる輪が畫いてある》(高濱虛子)において季題とされているのは、「春」ではなく「春の濱」なのである。
さて、このへんにしておこうかと思うけれど、雪女とクリームソーダを楽しみながら過ごす春の週末というのも悪くないな。ほら、舌が緑色になっているよ。
山の神ということもあってか、佐保姫は霞を身にまとった姿で想像されるし、龍田姫は錦を着飾った姿で想像される。とはいえ、これが理由で「佐保姫」が「霞」と同じ天文に分類されているわけではない。「龍田姫」が「紅葉」と同じ植物の部に分類されるのかといえば、もちろんそんなことにはなっていないわけだ。それならば、むしろ、「佐保姫」といえば春の佐保山を思い、「龍田姫」といえば秋の竜田山を思うのだから、いっそ地理に分類しよう、という提案のほうがまだしも納得できる。
そもそも地理なり時候なりに分類されていたら、あんまり不思議にも思わなかったかもしれない。ちなみに、件の改造社版『俳諧歳時記』では、奇妙なことに、「佐保姫」は天文に分類されているのに「龍田姫」は時候に分類されている。改造社の『俳諧歳時記』は季節ごとに解説者が異なっているので、このようなことが起こったのかもしれない。春の部の季題解説は高濱虛子、秋の部は松瀬青々。虛子の解説文はいわゆる口語体なのに対して青々の解説文は文語体であり、こうしたことからも執筆者の裁量に任せられた部分が非常に大きかったことが想像される。ただし、参考執筆者の欄を見ると、いずれの部も時候・天文の部の担当者として気象学者である國富信一の名が記されている。
子規はどうだろう。俳句選集の『春夏秋冬』は時候・人事・天文・地理・動物・植物の6分類を採用しているけれど、「佐保姫」や「龍田姫」の採録はない。ただ、『寒山落木』の明治26年および明治28年の「龍田姫」の位置、さらに明治26年の抹消された「佐保姫」の位置から、子規はこれらを時候の季題と考えていたことがわかる。
もしかすると、「佐保姫」や「龍田姫」が、今日市販されている少なからぬ歳時記において天文の部に分類されているのは、虛子の判断に由来するところが大きいのだろうか。西村睦子『「正月」のない歳時記――虚子が作った近代季語の枠組み』(本阿弥書店、2009年)は、改造社版の『俳諧歳時記』とその翌年に三省堂から出版された高濱虛子編『新歳時記』(三省堂、1934年)を中心に、さまざまな書物の比較検討を通じて近代的な季語・季題の枠組みの成立に虛子が深くかかわっていたことを実証的に明らかにしているが、この「佐保姫」と「龍田姫」の分類に関しては、特に記されていない。
いずれにせよ、これらを天文に分類するのは、今日の僕らにとっては思いもしないような思考の枠組みが作用した結果だというふうに考えるのが自然ではないだろうか。それがはたしてどういった枠組みなのかは、知らないけれど。
歳時記といえば、「クリームソーダは季語かどうか問題」(と、僕が勝手に名付けた問題)もあった。今井聖「虚子編『新歳時記』を読む」の第3回「「ソーダ水」について」において提起されている問題だ。この文章に、「クリームソーダはアイスクリームと曹達が使ってありますが、これは季語なのでしょうか。恐らくダメなのではないですか」と書いてある。どうしてそんなことが問題になるのかというと、その事情についてはこう書いてある。
ソーダ水は虚子の時代のハイカラな特定の飲み物です。『新歳時記』には「炭酸曹達を原料として作った清涼飲料水」とありますが炭酸曹達を原料としている清涼飲料水ならばみな季語になるわけではありません。たしかに、季題としての「ソーダ水」は「炭酸曹達を原料としている清涼飲料水」一般を含むとは言えない(ちなみに、いまでもたとえば神保町のさぼうるとかに入るとふつうに「ソーダ水」というメニューがあります。色を選べるのが楽しい)。けれど、これはちょっと話がずれている気がする。
「ソーダ水」とは別に「ラムネ」や「サイダー」といった炭酸飲料が夏の季題とされるように、「クリームソーダ」だって場合によっては季題と見なしうるのではないだろうか。あとは、それを「ソーダ水」の傍題と見なすかどうかの問題だろう(実際、改造社の『俳諧歳時記』は先に記したとおり1933年(昭和8年)刊で、今井聖が話題にしている1934年(昭和9年)の虛子編『新歳時記』とほぼ同時代のものなのだが、その夏の部の「ソーダ水」の項には、すでに「アイスクリームソーダ」という傍題が挙げられている。 ちなみに、夏の部の季題解説は青木月斗、ソーダ水が収められた人事の部の参考執筆者は国文学者の武田祐吉)。
で、そんなことに思いながら読み進めていったところ、文章の終わりのほうに「スタバでキャラメルマキアートを頼んだのならそう詠めばいい。キャラメルマキアートには氷が入っているから百パーセント夏の季語になると思います」と書いてあって、これには思わず笑ってしまった。突っ込みどころはすくなくとも三つあって、それは次のとおり。
1. そもそもキャラメルマキアートは氷が必ず入っているとは限りません。単にキャラメルマキアートとだけ聞いたらホットのほうを思い浮かべるひとが多いのでは?とはいえ、まあ、どんな歳時記も、突き詰めてしまえばこういうよくわからない分類のもとに成り立っているのかもしれないなあ、とは思う。まあ、季題かどうかは別にして、たしかに「スタバでキャラメルマキアートを頼んだのならそう詠めばいい」っていうのは、一理あるけれど。
2. むしろクリームソーダには氷入ってますよ、ふつう。
3. というか、氷が入っている飲み物ならばみな季語になるわけではないでしょう、それこそ。
ところで、聖さんの文章で肝心なのは「クリームソーダは季語かどうか問題」ではないので、それについては一言書き添えておきたい。
僕が「ソーダ水」を一例として申し上げたいことは、虚子が時代の先端をいく季節の飲み物として採用した季語「ソーダ水」は今や郷愁か、よほどのお年寄りが頼む飲料になってしまったということ。ならば、虚子が自分と同時代の世界を「写生」したように僕ら自分の眼で見て体験した世界を詠いたい。要するに、説明がよくなかったというだけだ。この一節だけ読めば、その主張は、ひとりの作家が個人的な創作態度を明らかにしたものとしておおむね明瞭であり、「ならば」の飛躍を除いては不審な点はほとんどない。それに、この飛躍にしても、読み手の側で充分に思考の筋道を補うことができるものだ。ただ、「ソーダ水」という言葉が歳時記に季題として立項された当時の文脈を説明するうえで「クリームソーダ」という言葉を持ち出したところに、というか、その持ち出しように問題があったというだけのことなのである。
ちなみに、「クリームソーダ」は季題かどうかという問いに対しては、僕ならこう答える――「クリームソーダ」がそれ自体として季題であったり、そうでなかったりするわけではない。ただ、「クリームソーダ」を季題とする句は書きうるだろうし、読みうるだろう。
このことは、突き詰めれば、「クリームソーダ」のような言葉ばかりではなく、「春」や「夏」といった言葉についてさえ言えることだ。わざわざ《嗚呼夏のやうな飛行機水澄めり》(佐藤文香)といった例を持ち出すまでもない。《春の濱大いなる輪が畫いてある》(高濱虛子)において季題とされているのは、「春」ではなく「春の濱」なのである。
さて、このへんにしておこうかと思うけれど、雪女とクリームソーダを楽しみながら過ごす春の週末というのも悪くないな。ほら、舌が緑色になっているよ。
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