肉化するダコツ⑦
雁ゆきてべつとりあをき春の嶺
彌榮浩樹
雁ゆきてべつとりあをき春の嶺
彌榮浩樹
蛇笏の句から、俳句の秘密をしゃぶり取ろう。
そんな目論見を持った極私的考察、その7回目。
掲句、これもまた、<ド蛇笏な句>だ。
一見単純な句にみえるが、どうしてどうしてなかなか手ごわい句。
俳句表現の上でのキモは、3つあると思う。
1.「べつとりあをき」
2.座五が「春の空」ではなく「春の嶺」であること
3.「~春の~」のかぶせ
1.について。
「べつとり」という素材の触感を現わす形容に「あをき」という色彩の形容を重ねることで、濃厚な春(→3と関わる)の空&山(→2と関わる)の<触感>が、不思議な味わいで描出されている。
これを<共感覚>と呼ぶべきかどうかは微妙だ。「べつとり」は触感の形容詞だが、視覚的に「べつとり」状態を見てとることは珍しくもない。「べつとりあをき」は視覚的印象の表現として、さほどアクロバティックな表現ではない。
ただし、「べつとり+色彩」と直結させる表現は(よく考えてみると)そうそう見られるものでもないはずだ。結果として、「べつとりあをき」という措辞が、「べつとりあをき」色彩を<リアル>な<感触>として読者に感じさせている。これは地味ではあるが、俳句作品において決定的に重要なことだ。
アタマで意味を理解させる次元とは別に、<感触>を<リアル>に体感させる。
わずか十七音の俳句作品のなかでは、言葉の、そうした働きを果たす<筋力>が大切なのだ。
例えば、中七をいじって、
雁ゆきていよいよあをき春の嶺 (改悪a)
とすると、<リアル>な<感触>はずいぶん減殺される。綺麗な風景を、記号として表現しただけになってしまう。
重要なのは、「べつとり」が、“粘り気が強いさま”という意味を伝える記号であるとともに、「べつとり」自体べっとりした感触を帯びた言葉だ、ということ(オノマトペの本質)だ。
だから、「べつとりあをき」は、(「ああ、べっとり青いんだな」という意味の次元で理解させる以前に)<感触>として「べつとりあをき」を読者に体感させる(いわば塗りつけてくる)のである。
2.について。
「雁ゆきてべつとりあをき春の~」と来たら、普通は「~空」で終わるはずではないか。
この句は、読者のそうした「読み」を前提としていると思う。逆に言えば、「雁ゆきて/べつとりあをき春の嶺」と、中七「べつとりあをき」を下五「春の嶺」の形容として読むことは、まずはしないはずだ。
しかし、事実この句は「春の嶺」で終わっているのだから、最終的に「べつとりあをき」なのは「春の嶺」なのである。これは、とんでもない措辞だ。「べつとりあをき」以上に、この下五の「春の嶺」こそアクロバティックなのだ。
この、下五の「空→嶺」へのイメージの切り返しは、例えば梅原龍三郎の絵を想わせる濃厚な量感を湧出している。
仮に、
雁ゆきてべつとりあをき春の空 (改悪b)
と素直に「空」で終わると、原句よりも柔らかな触感は深くなるものの、表現が素直すぎてイメージの<触感>が平板になってしまい、むしろ逆に「べつとり」が浮いてしまう。
そう。原句「べつとりあをき春の嶺」は、夏の「青嶺」の予兆までも秘めた、複雑なイメージの膨らみまでも孕んでいるのだ。
3.について。
この、句の途中に「~春の~」「~秋の~」と季をかぶせるのは、蛇笏の必殺技のひとつ、だ。この連載の一回目に挙げた「蟬落ちて鼻つく秋の地べたかな」もそうだし、おそらく最終回に取り上げるだろう「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」も「~秋の~」のかぶせの見られる句である。
ただ、その二句は「蟬」「風鈴」という夏の季語のあとに「~秋の~」とかぶせ、季感を湾曲させる<ねじれ>を生じさせていたのに対し、掲句は、「雁ゆきて」も春の季語だから、「~春の~」が、春に春を重ねる<かさね>の働きをしている。
この「~春の~」は、もちろん、春ですよという意味を伝える記号ではない。「春」独特の“ふくらみ・ひろがり”の<触感>を増幅しているのだ。
ここで、上五を少しいじって、
ゆく雁にべつとりあをき春の嶺 (改悪c)
とすると、どうだろうか?
原句に比べて、こちらの方がより柔らかな<触感>が感じられる。ただ、こうなると今度は、柔らかすぎる、のではないか。
原句
雁ゆきてべつとりあをき春の嶺
は、c「ゆく雁に」(とりわけ「に」)と比べて、上五の「雁ゆきて」(とりわけ「て」)のきっぱりとした<触感>が、最後の「嶺」の量感とも響き合い、やわらかすぎない<ふくらみを纏った屹立感>を感じさせるように仕上がっている。だから、この句はやはり「雁ゆきて」の頃の「春の嶺」の<触感>を表現した句、なのだ。
と、まあ、(冒頭に述べたように)なかなかどうしてたいへんに手ごわい句、なのである。
この手ごわさが、わずか十七音の俳句作品の醍醐味なのだ。
おまけに、蛇笏の春の「鳥」の句を三句。どれも濃厚で不思議な<触感>の句だと思う。
泪眼をほそめて花の梟(ふくろ)かな
老鶴の天を忘れて水温む
谷梅にとまりて青き山鴉
また、掲句と対になるような、こんな夏の句も蛇笏にある。
むらさきのこゑを山辺に夏燕
掲句と並べると、<トポスとしての山廬>というものへ、想いが誘われる。
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