2018-10-07

【週俳9月の俳句を読む】肉球、あるいは君の寝息 堀切克洋

【週俳9月の俳句を読む】
肉球、あるいは君の寝息

堀切克洋

句というのは、世界をどう切り取ってくるかということである。しかし日本語の場合、対象物を切りとるやいなや、そのひとの意識のようなものが見えてしまう、というところに面白さ/難しさがある。「客観」という言葉が、俳句でこれほどまでに使われてきたのも、日本語で客観を言い表すことがそもそも不可能だからであり、それは20世紀初頭において、漱石が『草枕』を通じて解決を試みようとしたことでもあった(やっぱりだめだったけれど)。だから、

ぬいぐるみに肉球のあり明易し  及川真梨子

を読んだとき、句の意味がどう、とかいう以前に、中盤に差し掛かったあたりで、これは若い作者だろうな、と思いますよね。この作者にとって、世界のなかから、〈ぬいぐるみの肉球〉を取り出してくることが、意味をもっているから。八十代のおばあさんがそんな代物を世界のなかから取り出してきたら、ちょっと怖いでしょう。だから、ぜひこの作者は中学生か高校生、せめて大学生くらいであってほしいと思う。
つまり、〈ぬいぐるみの肉球〉はすでにそれ自体として作者の「生活」を伝えているという点で、客観的な言葉ではない。もちろん、その対象への共感の度合いは年齢や性別によって異なるだろうが、わたし(34歳・男)からすると、これはあまりに「幼い」し、個人的だなと思ってしまう。結果的に、「明易し」という季語は、置物のような感じがあるのも否めない。ただし、

弟の無骨な指や巨峰剝く  及川真梨子

はちょっと荒削りだけれど、〈弟の無骨な指〉を世界からわざわざ切り取ってきた感覚はわかります。やはりこの感覚も若いのではないかと。たとえば、姉が四十代、弟が三十代だとちょっと生々しすぎて嫌ですが、姉十七歳、弟十三歳くらいの感じだと、いいのではないかと。次の句を〈自転車のおとうと転ぶ刈田道〉としているのも、句としてはやりすぎなところはありますけれども、弟が心配でたまらないちょっと大人なお姉ちゃんの感じはよく出ています。
ヘルメットをかぶった田舎の中学生が、わざと畦道を自転車で走っていて、ずずず、がしゃーん、と滑り落ちたのである。

沢蟹が沢蟹を嫌がつてゐる  対中いずみ

この作者の句は、静かな日常の些細な一コマを切り取って拡大してみせているようなところがあって、そこがユーモラス。沢蟹のケンカの句。横書きにすると、蟹が蟹を追いかけているようなところがあって面白いですよね。あとの〈同じだけ傷ついてゐる石榴かな〉〈けつこうな大小のある石榴の実〉も、目の前のふたつのものを並べて、比べてみるというような作り方ですが、買ったのかもらったのか、ちょっぴり特別感のある日常がうれしい。〈まつしろに雨ためてゐる穂草かな〉〈菱の実の打ちあげられて石の上〉も、そういう奇跡的な自然との出会いが、作者にとっての無上の喜びであることがわかる。幸福感に共感。

はじめて聴く君の寝息と秋の雨  佐藤 廉

この作者にとっての無上の喜びは、〈はじめて聴く君の寝息〉だったということ(ということは、この作者も大学生くらいなのだろう)。これも冒頭の肉球の句と、とても似ているように思う。つまり、作者のプライベートな生活空間があって、そのちょっと外側に飾りのように自然空間があるというような感じの作り方。〈鳳仙花ゴミ捨て場まで寝癖のまま〉〈栗ご飯混ぜつつプレスリーを聴く〉。生活と自然の明確な分離がありすぎて、ちょっと露悪的に見えてしまいます。

象すこし笑ったような秋の昼  津田このみ

これはそれほど暑くない、秋晴れの日。動物園でゾウを見ているこちらもいい気分になって、もちろんゾウもいい気分になっている。これは、【週俳9月の俳句】で、いちばん好きな句でした。

十六夜の体側適当に伸ばす  津田このみ

もいいと思います。本当は正しい伸ばし方とかあるんでしょうけど、どうだっていいんだ。「十六夜」という、ちょっとアバウトな感じと響き合っていいですよね。


593号 201892
及川真梨子 隠門 10 読む
596号 2018923
対中いずみ 嫌がつて 10 読む
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597号 2018930  
津田このみ 大阪 10 読む


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