角川俳句賞とその時代〔後篇〕東京オリンピック前年
西澤みず季
西澤みず季
『街』第127号(2017年10月)より転載
≫承前
一九六三年(昭和三八年)翌年に開催されるアジア初の東京オリンピックに間に合わせようと、道を掘り起こし、川を埋め、新幹線を走らせ、高速道路を通し……東京全部が工事現場のようであった。この頃、中学を卒業し地方から都市部へ集団就職する子供達のために、専用の集団就職列車を運行させ、彼らは将来性もあり、安い賃金で働いてくれるということから、「金の卵」と呼ばれていた。
終戦直後から絶え間なく続く日本の高度経済成長は「東洋の奇跡」と称され、世界中から注目を浴び、日本はまさに高度成長期真只中にあった。
また一一月二三日、アメリカ通信衛星リレー第1号による日米間のテレビ初の衛星中継が行なわれた。これは翌年の東京オリンピックの放送を考慮した取り組みだった。しかしそこに映し出された映像は、テキサス州ダラスで空港から自動車パレード中の第三五代大統領J・F・ケネディが銃弾によって倒れるという衝撃的なシーンであった。
■昭和三八年 第九回角川俳句賞 「聖狂院抄」
撰者 秋元不死男・大野林火・加藤楸邨・中村草田男・平畑静塔・角川源義
受賞者 大内登志子
大正一一年一一月一一日生。昭和三一年「鶴」同人。三四年発作性精神分裂症発病。しばしば作句不能に陥るも、俳句即信仰と念じ間歇泉のごとく蘇りくる平常神経の中で詠いつづける。昭和三七年初夏より三八年晩春まで一年間ザビエル聖和荘入荘。受賞作「聖狂院抄」は精神分裂症を発症し病院に入院した時の作品である。
青梅の百顆よ子欲し乳房欲し
ぼうたんに巣食ふ蛞蝓散るまで喰ふ
鶏冠黴び聖狂院の烏骨鶏
梅雨おぼろ狂女を囃す韓の唄
ねんごろに夜の黴拭ひ不治狂者
百日紅霊室も鉄めぐらせり
露の狂者禱るかたちに血をとらる
霧に吐く言葉返し来疲れたり
蜩や責具のごと餉のはこばるる
麻痺の子のごと立竦む木の実独楽
瞑れば柊にほふ懺悔椅子
鉄窓に押し割る胡桃雪催ひ
寒の菊死期の狂者に狂気なし
死にちかき唇を凍て出づ一独語
酷寒の紅梅を吻ひ狂ふなり
芝を焼く狂者の数の監視人
檻鳴らし夫放ちけり罌粟若葉
受賞後の感想で作者は、こう記している。
私には俳句以外になんにもないのです。何回か死を覚悟しながら土壇場へきて俳句への愛執がいつも私から死を遮るのです。(…)世にも人にも未練がない生ける骸の筈なのに、俳句に触れていると不思議に血が騒ぎはじめ、吐く息が生臭く鮮やかに匂い出すのです。
なんと切実な言葉であろう。
しかし今回の受賞はすんなりと決まった訳ではなかった。最終審査の段階で、「『聖狂院抄』は実をいうと、非常に訴えるものがあって惹かれているのです。私はこの一篇だけを全部の中から今年はどうしても推したいという強い気持ちを持っているんですよ。」(秋元不死男)に対して、「私はちょっとでも病的なものは芯から避ける性質があるんです。―こういう特殊なものをただ一篇推すというのは、私は不賛成なんですけどね。」(中村草田男)。「私は狂院俳句には点がきついものですから(…)欲を言えば、あまり狂者、狂人という言葉が出てくるのがどうも難じゃないですか。」(精神科医である平畑静塔)
特に中村草田男には「これを推すのは少しジャーナリスティックな気がする。僕は体質的に嫌いだから。」とまで言わしめて、最終的に再投票になり一点差で「聖狂院抄」に決定した。
どうしても「聖狂院抄」を推したいという秋元不死男の熱意がこの受賞を決めたといっても過言ではないだろう。
審査終了後に平畑静塔の「楸邨さんが来ておるとよかった。」との言葉が印象的であった。何故なら、体調不良で最終審査欠席の加藤楸邨は最初から「聖狂院抄」には一度も点をいれていなかったのだ。
その加藤楸邨が今回の角川俳句賞についての感想を述べているが、それは現代にも通ずる言葉として最後に記したいと思う。
(…)多少荒っぽくても、自分の噴涌を大切にしてゐるものを推したいと思う。表現の未熟はやがて完成を期待できよう。ただ語法上の誤は致命的なものになることを知ってほしい。今年は全体として穏やかな作が多かった。俳句のツボを心得た点では安心できるものが多かったと言ってよいのだが、もっと突き上げてくる切実さがのぞましかった。結局賞に応ずるために作るという風が自分ではその気でなくても賞向きの傾向を知らず識らずの中に生み出していて、この結果を生むのではなかろうか。若し現代俳句の代表的新人がこの程度の枠の中に入ってしまうというのではいささかさびしい。平素自分自身の切実な要請が即して生み続けたものを、結果としてここにとり上げるというような持続的工夫が主になるとよいと思うのだが。
( 了 )
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