2018-11-25

【週俳10月の俳句を読む】素描:「見る」ような「読み」について 紆夜曲雪

【週俳10月の俳句を読む】
素描:「見る」ような「読み」について

紆夜曲雪


白い部屋林檎ひとくち分の旅  なつはづき「自転車で来る」

「白い部屋」、まず立方体に近い、美術館などで言うホワイトキューブに近い空間が想起される。その白さの印象が次に「林檎」の果肉に重なり、「ひとくち分の」と爽やかな甘さの印象に接続されながら、最終的に「部屋」からの離脱を告げる「旅」の一語に辿りつく。言葉は一方向に、リニアに流れてゆくという常識的な態度のもとで読めば、まずそのような読みになるだろう。あるいは、「部屋」→「そこからの離脱」という物語的時間経過のなかで読まれたこの読み以外に、「白い部屋」に滞在する時間自体が「林檎ひとくち分の旅」なのであるという、論理的なイコール関係として読む方向性もあるかもしれない。恐らく、その読みの分岐はいずれか一方に決定不可能であるのだが、こういう事態は俳句においても短歌においても、しばしば見られる。むしろ、決定不可能であることを重く見て、物語的な関係性、論理的な関係性を特に設けず、ただそのような言葉の配列としてある、という事実のみに定位して読む態度もあるかもしれない。ここでは、まず最後の読みの態度について少し考えたい。

上から下に、リニアな秩序に則って作品を読んでいったとき、「林檎ひとくち分の」と大きく修飾された「旅」の印象こそがこの作品において私に現前すべきだろう、とまず考えられるのだが、私にとってこの作品を印象づけるのは「白い部屋」の物質感の現前の方だった。一体、なぜこのような現象が起こるのか。

俳句の「読み」がリニアに、一定方向に流れてゆくということは、恐らく広く共有されうることだろう。小説や音楽と同じように、俳句もまた言葉である以上「読み」のプロセスが関わり、それは必然的に時間的経過を伴いながら現象せざるをえない、という認識である。たとえば、『プレバト!』で夏井いつきが上五まで読んだ時点では読者は「いったい何の話だろうか?」と考えるが、その次の中七を読み進めたところで謎が解ける構成になっている、というような解説をすることがあるが、これはリニアな読みの代表的な事例だ。夏井の説明はやや誇張的とはいえ、読みの現場をなるべく丁寧に説明していこうとすれば、あのような言葉の流れをひとつひとつ辿っていく説明にならざるを得ないと思う。私もまた俳句の「読み」においてリニア性、時間性がはっきりと機能していることは間違いないと思う。

だが、俳句という短い形式において、実はリニアでない「読み」の形態もありうるのではないか、とも考える。つまり、小説や音楽においては原理的に難しい「一見しておおよそのモチーフ、構図がわかる」という、「見る」に近い「読み」が、俳句にはありうるのではないかと思う。「白い部屋」「林檎ひとくち」「旅」といったモチーフがおおよそどういった系列をなしているのかが、細かな修飾関係、助詞の「を」「に」「へ」などの細かな選択――作品によってはそれこそが命となるような部分――を無視して把握されるという事態は、経験的にも受け入れられるものだろう。

絵画においてもおおよそのモチーフ、構図などが把握されたのちに、その線の方向性、マチエール、それぞれの人物の視線の交錯などが検討されうるように、空間的な把握――「見る」に近い「読み」の形態――は時間的な把握と対立するものではなく、むしろそれを基底から支えるものだ。つまり、リニアな秩序に従った、物語論的な、時間的な「読み」が成り立つとしても――絵画において、鳥が樹から飛び立った瞬間(物語的把握)を描いた絵が、依然として「樹」をモチーフとしてそのキャンバスに残し、私たちに現前させ続けるように――この「見る」という「読み」の契機を考えれば、「白い部屋」が「旅」より強い印象として現前するという事態は説明できる。物語的読みとはまた異なるところで駆動している「読み」の現場において、「白い部屋」が歴然と現前してくる、このような事態は普通に考えうる。このとき、「見る」に近い「読み」において強度を持つ部分と、リニアな「読み」において強度を持つ部分はそれぞれ別の文脈で語ることができる。直観的には、この整理がのちの議論に役立つことはあるように思える。

無論、この「見る」という「読み」が、絵画の場合とは異なって純粋な「見る」にはなりがたいということは、「白い部屋」「林檎ひとくち」「旅」といった語が「言葉」として把握されている以上、すでにそこに「読み」が介在しているということからも明らかなのだが 、俳句形式の鑑賞において、リニア=時間的な読みに先行して空間的な把握が先行する契機を認めるという態度は、特に否定される材料はないと思われる。



いま少し思弁を進めよう。「白い部屋」「林檎ひとくち」「旅」といった(あるいは「白い」「部屋」「林檎」「ひとくち」「旅」かもしれないし、単語と連語が混淆したかたちで最初に認識されるというような事態も想像はできる)、空間的把握において把握される対象を一括して「オブジェクト」と呼ぶことにする。「白い部屋」「林檎ひとくち」「旅」など各オブジェクトは、「見られた」時点では時間的に構造化されていない。しかし、この時間的な読みが介在していない、ほとんど人間の認識が届いていない状態で、オブジェクト間にどのような関係性が築かれうるのかを思考してみよう。

キャンバスの上に「白い」「部屋」「林檎」「ひとくち」「旅」などの各オブジェクトが浮遊しているような、そういうまだ人間の「読み」による構造化がなされていない状態を考える。このとき、「白い」が「林檎」にイメージの上で影響を及ぼし、あるいは「部屋」が「ひとくち」と呼応し、あるいは「旅」が「白い」と関係性を持つなど、オブジェクト間の関係性はかなりの自由度を持って、原理的に思考可能なすべての可能性がそこには含まれているものとする――「白い‐部屋」「白い‐林檎」「白い‐ひとくち」「白い‐旅」「部屋‐林檎」「部屋‐ひとくち」「部屋‐旅」その他――。助詞による修飾や時系列など諸関係の構築はこの後になされる以上、ひとまずオブジェクトのみの状態ではすべての思考可能な関係性がそこにはあるものと考えられる(これは「そう考えるのが自然だ」というわけではなく、思弁的に想定されたオブジェクトが浮かぶ空間を考えたとき、その空間をどのようなものとして想定すべきか、という問題だ)。逆に言えば、この各オブジェクトが自由に関係性を持ちうる空間に対して、時間的な読みは、助詞や修飾関係、時系列などによってそこに構造をもたらし、オブジェクトの自由な空間に亀裂を入れ、オブジェクト間の自由度を決定的に減らしてゆくものとして考えられる。時間的な読みこそが、オブジェクトのあまりに自由な状態を束縛し、私たちの言語との連続性のなかで捉えうるものまで引き下げてくれる――このように考えてみる 。

空間的な把握、「見る」ような「読み」という契機を設定することは、時間的な読みの創造性の説明にもなると同時に、日常言語では把握しきれないような感覚が、俳句を読む経験においてはたびたび生起することをオブジェクト性の残存として説明することを可能にさせる。どういうことか。

「白い部屋林檎ひとくち分の旅」の「白い部屋」と「林檎ひとくち分の旅」の間にリニアな読み、時間的な構造化が介在しえないことをここで確認しておこう。すなわち、その読みは我々の日常的な経験に従って「物語的構造化」か「論理的構造化」かの二択までは絞られるが、しかし、それ以上の構造化は、端的に助詞の不在、修飾の可能性の不在によって、果たされない。このとき、ここに生起している事態を、「オブジェクト性の残存」と呼ぶことが、上記の議論を受け入れるならば、ある程度の妥当性をもって響くだろう。ただし、そのとき残存するオブジェクト性とは、相互に影響を及ぼす相手である、存在論的に等価なオブジェクトたちが存在する空間(「見る」ような「読み」が存立させる「場」)そのものが失われた状態のものである。すなわち、もはやこの「白い部屋」は自由に他のオブジェクトと関係性を持ちうる可能性自体が失われたもので、ただオブジェクトの残滓として取り残されてあるだけの言葉だ。それはオブジェクト以下のオブジェクトで、ゆえに「オブジェクト性の残存」としてのみしか名指されえない。積極的に見出だされるオブジェクトではなく、あくまでリニアな「読み」による時間的な構造化が果たされていない限りにおいて、消極的に取り残されてある、そのような性質だ。



「白い部屋林檎ひとくち分の旅」の「白い部屋」の物質感が、その後に続く言葉が導く時間的構造化にもかかわらず、なおも私に現前してくるという事態から、ひとつ、俳句における「読み」について考えてみた。

まとめると、私たちが常識的に受け入れているリニアな秩序に従った「読み」に先行するものとして、おおよその文字や言葉を視覚的に把握する「見る」に近い「読み」がある。これは経験論的にも受け入れられることだ。次に、その「見る」に近い「読み」によって把握される文字や単語、連語など一塊のものを「オブジェクト」と呼び、「見る」に近い「読み」が保障する意味論的な空間性について大雑把に、思弁的に想定してみた。オブジェクトはリニアな秩序に従った「読み」によって種々の構造化を経る前の状態だから、オブジェクト間の関係性は、考えうる関係性のすべての可能性の束として記述される。逆に言えば、我々が常識的に行っているリニアな「読み」とは、オブジェクト間の関係性の可能性を制限し、日常言語の舞台にまでオブジェクトを連れてくることだ。その上で、リニアな「読み」、時間的な構造化に限界があるような部分においてはオブジェクト性が残存する。「白い部屋」の物質感の現前も、そのような時間的構造化以前の「強度」として思考可能だ。

空間的な把握と時間的な読み。一般的な意味での「読み」に近い、時間的な「読み」があまり機能できていないと感じられるときに、言葉の奥から覗いてくる、「何者か」の印象があることに、覚えはないだろうか。違和感なのか、何なのか、言表しがたい「何者か」。私にとって「白い部屋林檎ひとくち分の旅」もまたその「何者か」に触れるものであり、その「何者か」の正体を、大雑把にではあるがスケッチしたものが以上の文章だということになる 。



以下、その他面白いと思った作品について触れておく。

象も蝶も一頭分の涼新た  なつはづき「自転車で来る」

「象も蝶も」と語っているが、その連続性・類比性について語っているというよりは象と蝶がそれぞれ異なる存在であることを前提にした上で、「一頭」という言葉の上で重なりあえてしまう、そのことのおかしみを「涼しさ」のもとで肯定的に詠んだ句として読んだ。「涼新た」と冒頭に置いた上で、象と蝶の差異を無化しながら季語の感覚のもとに画一的に描いてしまうことも、恐らくはありえただろうが、この句はそうならず、「象一頭分の涼新た」と「蝶一頭分の涼新た」がそれぞれの個別性を涼やかに謳いあげている。

この作者は「虫時雨この横顔で会いに行く」の「虫時雨」のなかに埋没せず、「この横顔」と名指す感覚や、「くすり指」が「鵙」の鳴き声のなかでやはり輪郭を保っているような、事物と環境の間に線を引く感覚に特徴がある気がした。それゆえに「そのひとは自転車で来る豊の秋」の、稲穂の輝きが「自転車で来る」「そのひと」に直接的に媒介されているように見えるこの句は、その線を引く境界性の恍惚とした溶解を告げているようで、好ましい。

明洞てふカラオケ喫茶ゑのこ草  市川綿帽子「横浜」

明るい洞。言い得て妙だ。「明るい箱」なら朝吹亮二だが、そんな詩情はここにはない。人間がそこに潜りこんでゆく洞だ。しかしそこは明るい、ほの明るい。「洞」という一語がどうしても暗さを湛えて、「ほの」という印象を私にもたらす。しかし、その「ほの」は心地よい印象だ。「ゑのこ草」もまた私に「ほの」を印象づけさせる言葉だ。

永遠に建設中や秋暮るる  市川綿帽子「横浜」

個人的には永田耕衣の「コーヒー店永遠に在り秋の雨」を想起せざるをえないが、「永遠」という言葉の不思議さをやはり想った。「建設中」の対象はないのだが、もはや「永遠」という言葉がそこにあれば「永遠」の物質的な重さがそこにあるように感じられる。「建設中」の中身が何であるかは関係なく、「永遠」であるだけで存在論的な重みが生じてくる。そこがやはり不思議で、秋の夕暮れの不思議さに相応う。

丹波栗鳥獣戯画に拾ひけり  今井豊「いぶかしき秋」

丹波栗を鳥獣戯画のなかで拾った、という意味内容だと思う。作中主体が鳥獣戯画のなかにいるのであれば、その世界を「鳥獣戯画」としては認識できないだろう、とも思うのだが、むしろその内と外の認識の交錯こそが面白いのだと思う。「丹波栗」の具体的な地名がむしろ幻想への回路を開く言葉にもなっているようでもある。

泪してこのよならずや菊枕  今井豊「いぶかしき秋」

「鳥獣戯画」の句と同じく「このよならずや」という認識が存立する場所はやはり「このよ」でしかないはずなので、その内外が撹乱されているところが面白い。「このよならずや」のひらがな表記、「泪」が及ぼす視覚のジャック、「菊枕」の香りがもたらす感覚、「このよならずや」という「このよ」においては断定不可能なものへの疑問が、表現として成立していると感じる。

底紅や昼からともる洋燈館  中岡毅雄「底紅」

「底」という言葉の暗さからか、ルネ・マグリットの「光の帝国」(1954年)を想起した。「底」に「紅」が広がっている景、「洋燈館」の灯りが広がっている空間もまた「底」的な、暗い「昼」なのではないか、というアナロジー的な把握が働いたのだろうか。いずれにせよ昼の灯りに対して「底紅」の季語によって存在感を付与することに成功した句、とは言えるだろう。

念力の角の欠けたる新豆腐  馬場龍吉「豊の秋」

「念力」というインパクトのある語から、村上鬼城の「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」も想起するが、こちらはすでに「角」が「欠け」てしまっている。にもかかわらず、というよりだからこそ「念力」なのだろう。「角」が「欠け」ながらも「新豆腐」であらんとし続けるためには、自らを保ちつづける「念力」ほどのパワーが必要とされるのだろう。いや、むしろ「角の欠けたる」という欠点をはっきりと見出しつつも、「新豆腐」の力を信じて疑わない凝視の力を持つ作中主体こそが「念力」を働かせている、ともいえるのかもしれないが……。



なつはづき 自転車で来る 10 読む
市川綿帽子 横浜 10 読む
今井  いぶかしき秋 10句 読む
中岡毅雄 底 紅 10句 読む
ウラハイ  馬場龍吉 豊の秋 読む

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