2019-01-27

【週俳12月の俳句を読む】わかりやすい句ではない句のために 橋本直

【週俳12月の俳句を読む】
わかりやすい句ではない句のために

橋本 直


堡塁に深き砲眼ふゆかもめ  花谷 清

「堡塁」の形状は、どうやらいろいろあるらしい。「深き」とあるから、頭に浮かんだのは要塞のような分厚いコンクリートの構造物。かもめがいるのだからこの「砲眼」は海の敵に向かって開いている。おそらくは近代の遺物であり、もうそこに敵を狙う兵士らの姿はなく、ただ暗く沈黙しているのだろう。では、この句の主体はどこにいるのか。まず、視点は砲眼に置かれている。堡塁の外にいるとすれば、かもめはそれ以前の視界の残像か、あるいは、並行する時間の中の音として、またあるいは、視点を転じて後の風景と、少し散漫化するように思うが、いずれにせよ、客観的外部にいる主体の心の働きへ集約されるだろう。一方、中にいる(と空想するのでもいい)とすれば、視点は一元化し、砲眼から覗いた視野の内に飛んでいるか止まっているかもめを見ていると解することができる。その視点は、それゆえにかつてそこに居た兵士らの日常のそれと重ならざるを得ないだろう。するとなにやら、この砲眼を通して、近代の亡霊が立ち現れてはこないだろうか。


火の恋し石包丁に孔ふたつ  花谷 清

歴史の資料で見たのだったか、「石包丁」がどのようなものかなんとなく知ってはいた。しかし改めてWeb検索してみると、面白いことに、たしかに判で押したように穴が二つ空いている。古代人が紐を通して手から離れないようにした工夫らしい。そして、包丁というけれども、実際には鎌のような用途で農作物の収穫に使ったらしい。この句は、おそらく資料館かどこかできれいに展示されていたものを見て詠んでいるのだろうけれども、石包丁を見ている主体は、この二つの穴を通して古代人がどのようにこの道具を使ったのかの身体感覚を我が身に召喚しているようにも思われる。「火の恋し」は、俳句における技術的な季語の斡旋云々ではなく、古代人の実感としてそこに現れてくるべきものなのだろう。


枯草を踏めば火の音ありにけり  相子智恵

「火の音」と聞いて浮かんだのが、宮澤賢治の童話「狼森と笊森、盗森」の、狼森の狼たちが火を囲んで「火はどろどろぱちぱち」と歌を歌う場面。「どろどろ」は火炎の形容で、「ぱちぱち」は燃える音の形容だろう。面白いことにこの火は言葉の呪力が大切らしく、狼が歌うのをやめると消えてしまう。さて掲句では、枯草を踏んだときになる音の中に「火の音」を感じ取っている。たぶんその音は、この「ぱちぱち」ほどは乾いてはいないだろうが、そう遠くなさそうな気がしていた。理屈を言うようだが、「ぱちぱち」は火の音というより、木が燃える音というのが正しい。つまり筆者は、恣意的にその木の燃える音をこの句の「火の音」に重ねて読んでいたのだが、もしかするとそれは安易に過ぎるかもしれない。「ありにけり」という下五は気づきの詠嘆であるから、この句の中の主体は、予想外のこととしてこの音を体感したとわかる。それはたしかに「火の音」として立ち現れたものなのであり、他に置き換えることはできず、狼の歌のように、途切れればたちまちすっと消えてしまうものなのかもしれない。


句帳置けば棺の冬菊沈みたり  相子智恵

この十句中、二句目から五句目は親しい俳人仲間の葬儀の風景の連作と読める。その三句目が掲句で、四句目が「せめて句集のこせよ冬晴をゆくなら」。故人は句集をつくらず亡くなってしまったようである。菊と棺で追悼句といえばなんといっても夏目漱石の「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」だが、自身も療養中であった漱石の句の言葉はひたすら願いの中にあって眼前の実景ではないから、追悼の作りとしては比較的四句目のほうに近い。掲句にあっては、描写された句帳を置く己の動作も、句帳の重みで沈む棺の中の冬菊も、動くものはすべて悲しみの中にある。その中で、おそらくは真っ新であろう句帳に、追悼者の願いが集約されているのだろう。


ゆつくりと空みせてゐる障子かな  浅沼 璞

だれでも知っていることだが、障子は光を通す。それが空へ向かう目線の先にあったのなら、我々の視覚はたしかに障子越しの空を見ているのに違いない。違うのは、そこに眼がもたらす実感がないことだけだが、別にそのような言い方をせずとも、障子にあたる光とその陰翳のうつろいに、空の有り様を看取することはできるだろう。たとえば「病牀六尺」の子規の感覚も、多くそのようなものではなかっただろうか。なにもかも視覚優位で直接目で見ることに慣らされている世界にいると、この「ゆつくり」はまどろっこしいかもしれないけれども。


なげやりのオブジェうごかぬ冬の空  浅沼 璞

平仮名表記の「なげやり」は、「投げ遣り」と「投げ槍」が掛けてあるように読める。後者とすると、実際に、解体された旧国立競技場の側にそのような投げ槍の像があったらしいけれども、ここでは筆者の恣意で前者で読む。その場合、よく駅前や公園や役所の敷地内などに設けてある石や金属で造られた謎の巨大なオブジェ(芸術作品)を思い起こすのは容易であろう。風や水の力で動くように設えてあるものの、予算がまわらないのか動かなくなっていたりするのを詠んでいるものかと思う。となると、整備不良へのシニカルな視点を含意する句と読めるのだが、そのようなオブジェは多くが人と自然の調和や共働をテーマとして都市に設置されるものであることを思うとき、それが動かないことは、もう少し深くこの世の問題を捉えているように読むこともできるだろう。ところで、「うごかぬ」を「冬の空」への修飾ととれば、たちまち今までの読みは反転し、動き方が投げ遣りなオブジェと、動かない冬空による退廃的な風景が立ち現れることになる。おそらくこの作者は、そのような読みの枝分かれを敢えて句に仕込んでいるのではないか。


どんどん増える清潔な靴  樋口由紀子

樋口の「清潔な靴」十句はすべて七七調をとっている。七七調といえば「武玉川」の短句や、Twitter等Web上で「武玉川」や「七七句」とタグがついて括られている句群を思い起こすわけだが、樋口の句はいわゆる「武玉川」のような付句ではなく、一句独立した作品群となっているし、五七五に慣れた筆者にもそう違和感はない。この句は文脈ではすぐに潔癖とか買い物癖を連想させる内容だけれども、個人の所有する靴とみるか、社会のなかで人々の履く靴のありようとみるかで味わいがことなるだろう。どちらでも解釈は可能だろうけれども、後者は社会全体でどんどん病的に潔癖になっていく風景であり、空恐ろしく、ディストピア感がある。


直に置かれる風呂敷包み  樋口由紀子

まるで自分が置いたみたいでつい反応してしまうが、それはさておき、いまどきそうは使わない風呂敷に包んで、となると、持ってきたのはそれなりの年配の人で、用途も改まった席などに限られてきそうである。けれども、「直に」となれば、そうではないということか。そもそも、この風呂敷包みはいったいどこに「直に」置かれたのであろう。無造作に玄関に置いたものか、あがって応接間のテーブルにぽんと置いたものか、あるいは迎えた人の膝の上か。少ない情報の中で、「直に」であることで改まった席の儀礼のようなものはスルーされているということだけは分かるから、持ってきた側の方が目上っぽい。とすると、「置かれる」の解釈には受身の他、尊敬も可能になるから、親しい目上、という解釈が可能になるだろう。逆に、非礼で迷惑な相手ととることだってできるわけで、読者が想像する風呂敷包みを持ってきた人物と渡された側との関係次第で、いくつかの読みの選択肢があり得る。七七句は敢えてそのような選択肢を残す、読者との想像の共同性、あるいは、坪内稔典の言う「片言性」を五七五よりも一層高く設定する詩型の試みということになるのだろうか。余談になるが、筆者の師である復本一郎も、切れと季語を入れ一句独立した作品としての「七七句」を新詩型として打ち出したことがあったが、あまり知られてはいないだろう。興味のある方、試しに詠んでみてはいかがだろうか。


608号 20181216
花谷  おとぎ話 10 読む
609号 20181223
樋口由紀子 清潔な靴 10 読む
浅沼  冬天十韻 10 読む
相子智恵 短  10句 読む

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