2019-03-24

【週俳1月・2月の俳句を読む】ティーチャーズ・エンジェル 美術部員 不良シンパ 堺谷真人

【週俳1月・2月の俳句を読む】
ティーチャーズ・エンジェル
美術部員
不良シンパ


堺谷真人


ある俳句を鑑賞する際、完璧にニュートラルな立ち位置や視座というものはあり得ない。作者と面識があったり、句集を熟読したりすれば、それなりに読みの手掛かりが掴めるし、詳細な俳歴を知れば、有効な作業仮説を方寸に収めて作品と向き合うこともできるかもしれない。が、一面識もない俳人の初見の作品を前にすると私は頭の中が真白になるのだ。

アラスデア・マッキンタイアは『美徳なき時代』(原題:After Virtue)の中で「キャラクター」という分析概念を使用している。今回、「週刊俳句」の作品鑑賞にあたり、私は聊か彼の顰みに倣い、独断と偏見で作者をキャラクターづけしてみた。読みを補う仮設の足場として。無論、見当違い、牽強附会の謗りは甘んじてお受けする。

「年」の作者・青山ゆりえは1997年生。里、早稲田大学俳句研究会、平成九年度俳句会。俳句と真摯に取り組む若者。きっと年長俳人の受けもよい。学級内のキャラクターはティーチャーズ・エンジェルといったところか。

やがて木を忘れよ年のワイン新た  青山ゆりえ

ワインの個性は葡萄の木の個性に由来する。いや直結するといってもよい。しかし、樽やボトルの中で熟成を重ねるにつれ、それ独特の色や香りを獲得する。師に学びつつ、師を越えてゆく俊英な弟子の姿を髣髴とさせる。

恐ろしく照つて脂の鰤切身  青山ゆりえ

寒鰤の切身。照り焼きにすると脂肪分がぎらぎら、てかてかと浮かび上がる。上五の「恐ろしく」で読者に謎をかけ、瞬時に台所俳句に回収する。居合抜きの技を見るようだ。

電飾が樅とせりあふ役場の冬  青山ゆりえ

役場の人間関係はややこしい。電飾派と樅派とに分かれて抗争が起きるらしい。「役場の冬」が荒涼としたビューロクラシーの隠喩となっている。クリスマスツリーという語を伏せ字にした面白さもある。

マフラーが賢しげな木に待合す  青山ゆりえ

「マフラー」も「賢しげな木」も共に換喩(メトニミー)であろう。下校時、校門の外の物陰で一見木石のような秀才君と待ち合わせるミーハー女子。何となく不釣り合いな組み合わせの二人ゆえに、級友の揶揄を懼れて校内では別行動を取るのだ。

おののくやマスクあまねく受験生  青山ゆりえ

「恐ろしく」と同工異曲の居合抜き俳句。上五でがつんと一撃を与え、受験会場へと強引に拉致する。マスクで表情を消された受験生たちはまだ何者でもない存在。未来に向けて宙吊りの状態に置かれている。

年の瀬のノートに君は無敵とあり  青山ゆりえ

「君は無敵」とは自分から誰かへの励ましか。それとも誰かから自分への励ましか。受験シーズンを控え、神経がぴりぴり尖ってくる年の瀬。愛弟子のノートに激励の一言を書き添える熱血教師の力強い筆跡かもしれない。

しらじらと艶のすぐれて河豚潔白  青山ゆりえ

塩をふってカリっと焼き上げた河豚の白子を思い、涎を禁ずること能わず。だが、この「潔白」は白子や刺身ではなく、生きた河豚の腹部の白であろう。水槽の中で不器用に鰭を動かしながら泳ぎ回る彼らは、たしかに身の潔白を愬えているようにも見える。

雪覆坊主に手取り二十万  青山ゆりえ

冬季の山間部、雪覆を架設した道路は雪害を免れ、車もすいすい走れる。そこだけが冬帝の権力の外に屹立するアジールなのだ。坊主の手取り二十万円は多いか少ないか。議論の分かれるところだが、非課税の宗教法人が享受する特権はまさしく現代のアジールそのものといってよい。

一条は橋のくれなゐ雪げしき  青山ゆりえ

満目白皚々たる雪景色と朱塗りの橋。簡潔無比な構図と色彩によって凛とした清浄な空気を描き得ている。数々の伝説に彩られた京都の一条戻橋をさりげなく連想させるところも巧い。

満遍なく木にしるされよ今朝の雪
  青山ゆりえ

「しるされよ」という命令形にはどこか祈りの気配がある。ふりつもる雪は木々の枝葉を荘厳し、聖別する。あたかもそこが標野ででもあるかのように。雪の朝、見慣れた風景がつかのま非日常に染まる時間。但し、これは降雪量の尠ない土地に住む人間の感性に違いない。


「手ぶら」の作者・小西瞬夏は1962年生まれ。『海原』同人。現代俳句協会会員。耽美奔放の世界に憧れつつも、自らには地道なデッサンの練習を課する。学級内のキャラクターは美術部員。

黒人霊歌諸手で掴む冬の空  小西瞬夏

黒人霊歌特有の歌い手の身体の動きがあるのであろうか。歌うのはスレンダーな少女などではなく、頑健な肉体を持つ中年の男女。日常生活から離脱したところに素材を求めてデッサンに励む。美術部員の面目躍如たるものがある。

兎追ふ昼の底ひの白むなり  小西瞬夏

普通「白む」とは闇に光が萌す状態を指す。しかし、ここでは白昼が更に「白む」のだ。露光過剰でホワイトアウトした山野の中で無心に兎を追う。この無心から狂気の領分まではあと一歩を余すのみ。

叡山の奥処へ椿放らなむ  小西瞬夏

両界曼荼羅に花を投げ、落ちた場所の仏菩薩と特別の縁を結ぶ。結縁灌頂のクライマックスである。比叡山の奥、万仭の谷に一輪の椿の赤がすうっと吸い込まれてゆく映像がくっきりと結ばれる。なんと耽美的な景であろうか。

はうれん草卵で綴じるやうな夜  小西瞬夏

ほうれん草のお浸しと卵焼きを別々に作るのではなく、一品物の卵とじにしてしまう。家事以外にやりたいことがたくさんある場合、仕方ないではないか。家庭科クラブの部員に対して美術部員が密かに抱くコンプレックスの吐露。

蛇口より漏るる光やラガー黙  小西瞬夏

蛇口から滴り落ちる水の音だけが聞こえている。傍らでは屈強なラガーマンたちが何故か沈黙を守っている。何があったのか。部員の不祥事のため、選抜大会への参加を急遽辞退することになったのだ。美術室の窓から一部始終をそっと見守っている作者。

海しづか鯨が夜を噴き上げて  小西瞬夏

昔、仕事で鯨の絵本を制作した。画家の作業が遅れに遅れ、痺れを切らして督促の電話をしたら、その画家を推薦したお偉いさんが烈火の如く怒った。静かな夜の海で鯨が潮を吹く。実に平和でよい。

冬暖か髭の猟師の手ぶらなり  小西瞬夏

何の獲物もなく手ぶらで帰って来た猟師。職業ハンターではなく、恐らくは遊猟の徒。「こんなに暖かいと鹿も猪も山奥から出てこないや」そんな愚痴が聞こえてきそうだ。いや、獲物はなくとも山小屋にはうまい酒と仲間の手料理があるではないか。

たましひの凍てて濃き墨あはき墨  小西瞬夏

厳寒の書道教室、かじかむ手で墨を磨った高校時代を思い出す。霊魂さえも凍てつきそうな寒気の中、墨の濃淡あやなす美の乾坤に没入する。忘我、無我の境地である。

毒消買ひ寒紅を買ひ桂川
  小西瞬夏

毒消丸も寒紅も、現代の我々の日常からはもう遙かに遠いものとなってしまった。でも、京都の桂川べりなら、そんな前時代的な商品を扱う店にふと出会えそうだ。

冬薔薇束ね冬薔薇に紛れ  小西瞬夏

冬咲きの薔薇を花束にしてもらう。誰にプレゼントするわけでもない。花器に移し、一幅の静物画を描こうというのだ。花束を持って帰る自分は他人の眼にどう映るのだろうかとあれこれ空想をめぐらす。「冬薔薇に紛れ」とはそういうことであろう。


「たまの嘘」の作者・五十嵐筝曲は1990年新潟県生まれ。2017年、北大路翼編『アウトロー俳句』入集。屍派。ちょっと危険な香りのする不良に憧れつつも自身は意外と保守的。学級内のキャラクターはずばり不良シンパ。

早起きやすでに割られてゐる氷  五十嵐箏曲

早朝、手つかずの氷を割るのは一種の特権的行為だ。気合を入れて早起きをしたのに、もう誰かが割っていた。真正の不良なら頭にきて通行人に唾を吐く。作者は翌朝あと30分だけ早く起きようと誓う。

節分の豆は本気で投げていい  五十嵐箏曲

節分の豆を本気で投げなくなってから、もうどれほど経つだろうか。人に対して純粋な怒りを素直にぶつけなくなってから、もうどれほど経つだろうか。

かといつて鬼やらひにも礼儀はある  五十嵐箏曲

前掲句への付句のような句。「かといつて」と事態を客体視するバランス感覚。無礼講の最中でも最低限の礼儀を忘れない規範意識。身内に巣食うこういった羈束の息苦しさから逃れるために人は不良ぶるのだろうか。

なまはげが来たら今でもたぶん泣く  五十嵐箏曲

純粋恐怖の原体験としての「なまはげ」。トラウマである。但し、このトラウマは実は恩寵ものかもしれない。自分は我を忘れて泣き叫ぶことができる人間なのだという認識を持っているかいないか。ここが重要なのだ。

浅春の風に揺らめかない鼻毛  五十嵐箏曲

太く逞しく、荒東風の中でも微動だにしない漆黒の鼻毛。それを堂々と見せている人物に作者は畏敬の念を覚えている。すごい。けど真似できない。

「病的に素直」が梅の花言葉  五十嵐箏曲

如何なる美質美点といえども、過剰となれば病的になる。
また、人と人の相互関係性の中である資質がどう作用するかという問題もある。「病的に素直」な人が結果としてパートナーの暴力的傾向を助長し、遂にはDVを誘発することだってあるのだ。梅の雄蕊は怯えて見開かれた睫毛。

春の月たまには近所でも迷ふ  五十嵐箏曲

虚子の『句日記』にでも出て来そうな句。ほどけた兵児帯を引きずってぼおっと徘徊する老人なのだろうか。春の月の引力で魂があくがれ出でてしまったかのようだ。いわく言い難いユーモアがある。好きな句である。

皮むきのアスパラの筋透けてゐる  五十嵐箏曲

これまた虚子晩年か、その高弟・素十の作と見紛う一句。いや、もはや立子の域に肉薄しているといってもよい。アスパラガスの皮を剥くという堅実な暮らし向きが美しい。

流氷をたぶん一度も見ずに死ぬ  五十嵐箏曲

なまはげが来て泣くのも「たぶん」、流氷を見ずに死ぬのも「たぶん」。どちらも蓋然性の話なのだ。ではどちらの蓋然性がより高いか。などと考えるうち、この「たぶん」は「きっと」と等価なのだ思えてきた。なまはげは無限遠の過去、流氷は無限遠の未来。

雪解けの雪は汚いから嫌ひ 
 五十嵐箏曲

雪国・新潟の産でならではの作。雪が珍しい地方の人間はとかく雪を美化したがる。しかし雪国の雪は実に厄介者だ。桜島の火山灰と択ぶ所がない。「雪は汚いから」には雪国のリアリズムがある。同調圧力の強い日本社会では「嫌ひ」という断言もなかなか難しい。不良シンパにとって「嫌ひ」は蠱惑的な魔法のコトバなのである。

第612号 2019年1月13日
青山ゆりえ 年 10句 ≫読む
第613号 2019年1月20日
小西瞬夏 手ぶら 10句 ≫読む
第616号 2019年2月3日
五十嵐箏曲 たまの嘘 10句 ≫読む

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