2019-04-07

【週俳3月の俳句を読む】遠くへ 折勝家鴨

【週俳3月の俳句を読む】
遠くへ

折勝家鴨

黄蝶

多喜二忌の紙飛行機が蝶になる  安田中彦

紙飛行機をより遠くへ飛ばすために折方を研究したのはいつごろのことだったか。小学生のころは遠くまで飛ばせる男子(そう男子という呼び名だった)は人気者であった。牛乳の蓋を飛ばしたり、酒瓶の蓋だったり昭和はそういう時代だった。空へ飛んだ紙飛行機がゆらゆらとし出すと途端に世界が変わるように感じる。そうかあの感覚は蝶になる途中であったかと掲句にハッとする。

白い蝶は多喜二への作者の想いの形でもあるのであろう。

墜落の蝶に真白き昼ありぬ  安田中彦

同じくこの蝶が多喜二への想いであったのならこの墜落にも意味がある。

普通蝶は墜落などしない。何かにぶつかってしまったのか。
真白き昼が哀しい。

地面に落ちた蝶はあっという間に蟻が群がる。そうやって死は次につながっていくのだ。

かの人をみとりし人も死す黄蝶  安田中彦

その流れで読むとこの句も黄蝶に死を感じている作者がいる。

人生五十年の死は言葉は悪いが華々しく新しい命との交換があった。

今では100歳を過ぎ、介護者が先に倒れる時代となる。

順番に死がめぐる時代ではなくなったのだ。



八戸えんぶり

まずはえんぶりとは何ぞや。

冬の間眠っている田の神をゆさぶり起こし、田に魂を込める儀式とあるので八戸独特の祭りであろう。

掃きありし磴に零れて沓の雪  広渡敬雄

えんぶりが通る石段だろうか。きっちりと掃かれてはいるがそこは東北。参加者の沓が雪を運んでくるのだ。

靴から落ちた雪がほっこりと作者の胸を打つ。

落椿地(つち)の起伏のあきらかに  広渡敬雄

祭の句の中に落椿の句がありホッと目をとめる。

祭の高ぶりの端に紅い椿が咲いているのだが、見物人は祭に集中しているので作者のみのつぶやきなのだ。散り初めているのだろう、その地面の起伏がより鮮明に心に残る。喧騒と静寂と。同じ地に同時に存在する今日の日。

舞ひ了へて啜るや熱きせんべい汁  広渡敬雄

実は私はせんべい汁の唄を知っている。合いの手に「じるじる」と唄うのだ。

祭が終わった子供たちが(いや多分大人たちも)「じるじる」と唄いながら啜っているさまはまだまだ冬の八戸を温める。作者も一緒に啜り祭の後を祝うのだ。



つるつる

卒業や呼ばれてわたしだと気づく  加藤綾那

この卒業は大学だろうか。いままでのあだ名で呼ばれていたその学生という身分が終わるのだ。

嬉しさと怖さとは、そしてそれ以上に降って来るような未来がある。

わたしというものが意識をもって追い越していく感覚は読者にとっては眩しすぎる。

腕時計しない手首に春の雨  加藤綾那

できれば中七で切りたい。

腕時計が無い(しないより無いのだ)左手(なんとなくこの手首は左手に思える)と春の雨。

時間に縛られる生活はいつまでも実はつづくのだが、春の雨の間ぐらいはその解放感を楽しみたい。

恋をしてつるつるの鼻かわず鳴く  加藤綾那

つるつるの鼻が可愛い。鼻そのものがてかてかとひかり恋を実感しているのがわかる。化粧で隠してはこうはいくまい。素顔の青春ですね。





船腹の膨らみ春の夜を圧す  髙勢祥子

湾に停泊の客船だろうか。茫洋とした春の夜に部屋の窓から漏れる灯が船をより膨らます。実存の船のようでも幻の船のようにも読者は心地よく想像を膨らませることができるのは春の夜だからだろう。

朝寝して軀に裏と表あり  髙勢祥子

目覚めて現実に戻った瞬間のわが身の認識がおもしろい。

裏と表とはわずかの差のようで実は大きな違いがあり、そうやって現実に渋々と戻っていくのだ。

うしろより耳朶透けてゆく春日かな  髙勢祥子

耳朶のみで青春性を感じさせてくれる句。耳朶だけでほんのりと紅い頬やすらりと伸びた首など作者の姿が感じられる春らしい句。


第620号 2019年3月10日
安田中彦 黄 蝶 10句 ≫読む
第6212号 2019年3月24日
広渡敬雄 八戸えんぶり 10句 ≫読む
加藤綾那 つるつる 10句 ≫読む
第6213号 2019年3月31日
髙勢祥子 額 10句 ≫読む

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