【週俳5月の俳句を読む】
わからなさを楽しむ
山田耕司
椅子のない部屋が灯って鳥雲に 川嶋健佑
夕刻になって灯る部屋。「鳥雲に」という季語。
「椅子のない」部屋というところに注目することで、関わりがないようなふたつのことがらが、ふと面白くからみだすような気分がしてきます。「椅子のない部屋」によって、人間の営みがうすめられている空間の味わいが感じられるからでしょうか。あるいは、座るという行為が失われている空間そのものになんらかの浮揚感を感じ取ってしまうからでしょうか。読者に取って、このところはうまく言葉にできません。
このように、うまく言葉にできないような感覚を「うまく言葉にしないで(注1)」うまく言葉にする(注2)俳句が好きです。(注1)のほうは「うまく説明することなく」というような意味です。別の言い方をするならば、他の人にこの句を説明するときにあれこれ魅力を語るよりも、句そのものを見せてしまったほうが早いようなテイストを維持しているということになります。(注2)の「うまく言葉にする」は、それが言葉として通じるようになっているということです(言葉としての機能を停止してしまってめちゃくちゃな言葉の連なりになっている句も嫌いではないのですが、それがめちゃくちゃであればあるほど、俳句形式というフレームを破壊するどころか甘えているのでは? という気分になることが少なくないのです)。見どころとすれば、季語が生かされているかどうか。ただたんに季節を示す約束事として書き込まれているのではなくて、「椅子のない部屋が灯」ることと「鳥」が「雲」を越えて移動しようとしていることとの空間の対比がこの句には意図されています。意図はしていますが、作者がそこのところを説明せずに、しかしながら俳句の約束事を約束事に留めずに言葉として生かしている、というところにおもしろみを感じるのです。
読者が面白さをうまく説明できなかったように、作者もうまく説明できないからこそ、〈うまく言葉にしないでうまく言葉にする〉ということが起きるのかもしれません。「灯って」という単純接続のかたちでふたつのことがらを結びつけるのは、なんだかうまくわからないけれどこのふたつにはとてもかかわりがあるとおもうんだよね、という積極的なはたらきかけが埋め込まれているように思います。ともあれ、一般的に俳人がこの句の批評をする場合には、この「灯って」というつなげ方が強引でよろしくないという感想がでてくるのではないでしょうか。「では、どうすればよいのでしょう」と尋ねても提示された答えは元の表現とは異なったものになってしまっているし、その提案がより面白い結果をもたらすかどうかは別の問題ということになります。結局は目指さなければならないゴール、というものが見当たらない感覚とでもいうような事態ですが、こういうあいまいさをよくないことと嘆くよりも、なんだ答えがいっぱいあるじゃないかと楽しむことで、次の面白い句が生まれてくるのだと思っています。
火の中の椎の若葉もありにけり 藤本夕衣
ふむ、「火の奧に牡丹崩るるさまを見つ 加藤楸邨」のような句なのだろうと思ったのです。火の中で、ということは、滅びの瞬間に、命が輝きを見せる。その、むごくも美しいありさまのことなんだろうと早合点をしました。
しかし、この句は「火の中に」ではなく、「火の中の」と示されています。「椎の若葉」が火の中にあるのではなく、「火の中の椎の若葉」が、どこかにあるというような印象へと読者を導きます。しかも、助詞の「も」によって、もともと何かが存在しているところに「火の中の椎の若葉」が加わっていて、「あ、君もいたんだね」というように認識されていたと思われるのです。
言葉の流れに身を委ねれば、そのような意味内容にたどりつきます。さて、そこからが、読者の想像力の出番です。もともと何が存在していたのだろうか。「火の中の椎の若葉」とは、「火の中の椎の若葉のようなもの」なのか、「火の中の椎の若葉」という物質および状態そのものなのだろうか。
結局、答えは出ません。答えのヒントとなるようなものが見つからないからです。俳句がもたらしてくれる見かけ上の情報は限られているのです。
ともあれ、答えが出ない想像を重ねていくうちに、自分の中のイマジネーションが引っ掻き回されて姿をあらわし始めるのを感じることがあります。作品はうまく読み込めませんでしたが、自分自身のイマジネーションには触れることができたような気分になります。何かを伝える機能を求めることもさることながら、何かが伝わらないことを以って刺激を受ける自分自身への手応えを求めることこそが、俳句作品というものを楽しむ上では大切なのではないか、ということをこの句を読みながらあらためて感じました。
逃げ水や夢のつづきをみるこころ うにがわえりも
夢をみるのは、たしかにわたし自身ではあるのですが、かといって、あらためて思い返してみると、夢をみる主体は、すんなりと「はい、わたし自身です」とも言い切れないような気もします。ましてや、「つづき」を見ようという感覚は、自分自身の管理下から離れたあてどないことにふみだすような気分でもあります。こうした、わたしからの離脱を言い表すためなのでしょうか、「こころ」という主体を作者は示したようです。ともあれ、たいていの読者は、「わたし」と「こころ」は同じものだという感覚だと思われますので、「なにもわざわざそんなことを言わなくたって」という感想を漏らすかもしれません。そもそも「わたし」とはなんなのか、「こころ」とはどんなものなのか、など説明しはじめたらどれだけの分量の言葉を費やさなくてはならないかけんとうもつかないほどです。面倒ですね。それを「逃げ水や」と言いのけています。「逃げ水」が「夢のつづき」とどう関係があるのかを考えても仕方がないでしょう。むしろ「夢のつづきをみるこころ」という状態をまるごとひきうけて「な、わかるだろ、こういう感じなんだよ」と示してくれているようです。「そこかとおもえばそこにはなくて追いかければ追いかけるほど迷わされる」というようなイメージが「逃げ水」には備わっています。科学的な説明や歴史的な使用経歴まどはちょっと横に置いておいて、読者のいだくおぼろげながらも他者と「だよね」と共有できるようなイメージが俳句の読解ではステージのセンターに立つようですから、「逃げ水」への理解もこのようなものになるのです。この「そこかとおもえばそこにはなくて追いかければ追いかけるほど迷わされる」というイメージは、「夢」にほどこされているというよりは、夢をみる主体である「わたし」に与えられているものなのではないかというのが山田の読後感なのですが、かなりひねくれているので共感が得られるとも思っていません。
2019-06-16
【週俳5月の俳句を読む】わからなさを楽しむ 山田耕司
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