【週俳5月の俳句を読む】
世界が当然
西川火尖
藤棚にひろがる食べられないぶどう うにがわえりも
「食べられないぶどう」は作品全体を通して、世界が当然そうであることを疑わない「フリをしている」子供のような「フリをしている」感性をまとっていると思った。それは作者の俳句デビューとなった「第十三回鬼貫青春俳句大賞」の受賞作「好きな女の子ができて」、同年の「むじな2017」の「蠟燭になる」から一貫して変わらない姿勢である。
恋文にメロンソーダで貼る切手 好きな女の子ができて
新学期最初にきいた君の声 同
君が僕の大事な人となる盛夏 同
扇風機拭いてやる今年もよろしく 蠟燭になる
君だけのために光らす蛍かな 同
前述の鬼貫受賞作に「一粒の欠けに気づかぬぶどうかな」、そして斎藤秀雄さんのブログ「orangeProse 別館」「角川『俳句』掲載&うにがわえりもさんの句(2017年3月号)」内に作者の「手に入れたいものばかりある 永遠になくなることのないぶどうなど」の短歌が載っており、ぶどうは先に始めた短歌でも好んで使われた題材であることが伺える。そしてそこに出てくるぶどうは、「永遠になくならない」「欠けに気づかない(主観上完全無欠)」「食べられない」と言った風に、永遠や完全性への志向が感じられる。
これらを下敷きに考えると、掲句は藤棚を「食べられないぶどう」に見立てるためではなく、「食べられないぶどう」を出すためだけに藤棚を据えたと考えるべきである。藤棚を「身代わりの季語」として有季定型のフリをしつつ、有季定型を成立させるという「どちらも成立する矛盾」がこの句の底にある違和感、あるいは面白さではないだろうか。それは他の句、例えば、
代掻きや足首にくる土の息
紫陽花の話すは雨の言葉かな
の振舞いのわざとらしさ、フリっぽさにも通じる底意である。この辺りは前述の斎藤秀雄さんの感想と若干被ってしまうが、「フリをする」ことで生まれる不気味の谷のような印象を「え?これ狙ってやってるでしょ」「もしかして無自覚?」と混乱させるような、得体の知れなさがある。句意が明るく浅いにも関わらず、底知れない怖さを感じるのだ。
尚、最近仕事から帰ると、作句や書き物をしたいとう欲求と、寝ないとやばいという現実と、風呂入るの面倒臭いという気力のなさの折衷案で、食後は自罰的なフローリング寝に落ち着くのだが、
フローリングなめらかマイケルジャクソン忌 うにがわえりも
はすごく好きな句である。
まなかひに炎をみつめ春惜しむ 藤本夕衣
「つややかに」より。目の前にある炎の、その揺らぎそれ自体が春であったかのような、そういう心持のする句である。
火の中の椎の若葉もありにけり 藤本夕衣
こちらは「火の中に」ではないことに注目させられる。眼前の火を見ながら、その場限りではなく、世界の中に「火の中の若葉もある」という広がりをもって捉えているところに俳句形式のもつ懐の深さを感じた。そういった俳句の魅力を十二分に見せてくれる句である。
ふと、最近少し話題になった「それは通俗性の問題ではないか?」を思い出した。この十句はここでいうところの田中裕明的な高踏性を志向しているようにも思う。これらの句が持つ高踏性の正体とは何か。ひとつ特徴的なことをあげるとすれば、どの句からも時代の特定ができないことではないだろうか。もちろん、それが高踏性の全てだとは言わないが、通俗性と高踏性を考えるにあたって、単純化するばらば、そういう切り分けも案外可能に思えてくる。
水争い松山五十万飢餓させよ 川嶋健佑
「鍵垢手垢」より。「飢餓させよ」という非常に剣呑な表現からはむしろ、松山五十万の人口が一手に水によって支えられているという構図の清々しさが感じられる。同時に、それが水争いというほぼ絶滅したと思われる季語によって引き起こされるというから、深刻ではあるが、俳句らしい滑稽さもあり面白い。と、ここまで書いてひとつ重要なことを思い出した。松山市は2012年から水道を民営化し、松山市の浄水場の運転・維持業務などはフランスのヴェオリア社が受託している。料金決定権などは無いと言われるが、掲句はあるいはそのことを暗に示しているのではないだろうか。
水争い自体も農耕の時代当時の非常に社会的な季語であったが、社会や技術の発展とともに潰えたかに見えた。それが、グローバリズムの隆盛によって、その形のままで現代に通じる社会性を帯びて蘇った季語として読むことができる。
このように考えると、この句は、中世の農耕の時代、領主の年貢と飢餓に苦しんだ人々の時代と、巨大企業の利潤の水源たる現代の人々が二重写しに現れるのだ。
2019-06-16
【週俳5月の俳句を読む】世界が当然 西川火尖
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿