【週俳6月の俳句を読む】
「二人で暮らす」かつ「ふたりでくらす」
三宅やよい
「二人で暮らす暴風雨」というフレーズに引かれて電車の中なんかでも時々考えていたのだけど、さて上五は何だったっけと考えるけど思い出せない。句評を書こうと作品をじっくり眺めてみると「ふたりでくらす暴風雨」は題名で句は「かたつむり二人で暮らす凄まじさ」であることに気づいた。この違いってなに?
かたつむり二人で暮らす凄まじさ 柳本々々
この句は十句中五句目に配されている。ここで上五の「かたつむり」の言葉の働きを見ると殻を持ち、何かあれば身体を殻の中に引っ込ますかたつむりの生態が、二人で暮らす凄まじさに対して隠喩的に使われているように思える。「二人」の表記が漢字になっているが、それぞれが個の主体を持った「二人」で暮らすことを「凄まじさ」と表現するのは抽象的なので、それを補完する意味で「かたつむり」が置かれているのだろうか。「ふたりでくらす暴風雨」とタイトルはひらがな表記になっている。「ふたりでくらす」ことは暴風雨のようなものだ、とこちらも比喩ではあるのだが、「かたつむり」のような補完的な言葉が入る余地がないほど直接的に「ふたり」のくらしを言い当てているように思う。二人の関係性の意味をより膨張させて「ふたりでくらす」は「二人で暮らす」をくるみこんでしまう。
この句は十句の配列の五句目に配置されているが、全体の構成はこの句を頂点にして、シンメトリーになっているようだ。
二句目
梅雨晴間死ぬまでずっとおんなじ眼 同
最後から二句目
不思議な眼の女の子とラムネ飲む 同
自他をきれいに分けられるわけではないが、梅雨晴れ間のように見開かれる眼は普遍的な認識であるが、後者はまなざしを交わし合い恋の対象になる眼。
桜桃忌の句は三句目から六句目、最後の句まで四句
雨に濡れずっしりの服桜桃忌 同
手のひらのやぶけたところ桜桃忌 同
この「桜桃忌」の使い方は季語的で、太宰治の亡くなった「桜桃忌」の文脈からははずれることのなく、読み手は共通化した認識で句を読むことができる。これに対して
桜桃忌ちつちゃいフィギュアこぼれおち 同
は桜桃忌との関係がわからない。フィギュアは飾られた棚からこぼれ落ちたのか、人の手からなのか、なぜ?
最後に置かれているのは一番気になる桜桃忌の句
桜桃忌「どうにか、なる。」のなるのとこ 同
「どうにか、なる。」と言っても「なるわけないじゃん」という反語的なものが、「なるのとこ」に隠されているように思う。「なるのとこ」のあと永遠に、、、、、と、ならない状態が続いていきそうな気がする。これって「二人」の込み入った関係性に終止符を打つべく、心中で死んでしまった太宰に対しての突っ込みなのか。
どうにかならないまま、永遠に宙ぶらりんの「なるのとこ」。
漱石の『道草』の最後のところで健三が「世の中に片付くことなんでものは殆どありやしない。一遍起こったことは何時までも続くのさ、ただいろいろな形に変わるからひとにも自分にもわからなくなるだけのことさ」という言葉が、忘れられないのだけど、この句の「なるのとこ」にはそれと似たような懐疑が畳み込まれているような気がする。ふたりでくらす限り暴風雨は形を変えて続いてゆく。
鞄に犬静かな六月の電車 同
夏館大きな鳥にみえる人 同
七句目、八句目の二句も俳句的に見えるけど、鞄にいる犬は静かな六月の電車に乗っている私そのものである。と、いうような隣接性にもとづいた換喩的な言い換えに思えるし、建築物の横の広がりをウイングというように、西洋風「夏館」から鳥を連想させることも換喩的な表現に思える。「夏館」は季語的な使われ方ではなく、翼を広げた大きな鳥のようにみえる人を表すのに補強的に使われているのでないか。季語のように見えてもその言葉の使われ方は、俳句を読みなれたものから共通化した認識を引き出すべく、象徴的、暗喩的に使われているわけではない。一見俳句的に見える句も、読んでいると違和感がせりだしてくる。読みなれている(と思っている)ものと違う緊張関係を生み出すべく、ちょっとずらした位相で作られている。
「ふたりでくらす暴風雨」という題は文中の一句から表題をとりました。的な題名の付け方ではないことは句を追ってゆくなかで感じることができた。何より十句構成される世界に奥行があり、不思議かつ、魅力的な作品だと思う。
2019-07-14
【週俳6月の俳句を読む】「二人で暮らす」かつ「ふたりでくらす」 三宅やよい
【対象作品】
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿