2019-07-14

【週俳6月の俳句を読む】時評に少し触れて 柳元佑太

【週俳6月の俳句を読む】
時評に少し触れて

柳元佑太


前書きにしてはやや長いけれど、作品評に入る前に上田信治さんの時評について触れたい。上田信治さんのいわゆる「通俗性について」は色々反応があったみたいだけれど、ぼくは良かった、と思っている。別に「週刊俳句」に胡麻をすっているわけではなくて、必要なものだったと思うので。

前半(時評のようなもの5「それは通俗性の問題ではないか?」)から触れると、角川六月号の「令和の新鋭」特集で取り上げられた俳句の書き手は確かに、自分を含めて(ぼくも「澤」から推薦してもらって句を載せていただいていたので)、何かの価値観と非常に近いところで、そこへ向けて句を書いていて、自分を投げ出す運動がほとんど無かったと思った。

そしてそういうものは単純に読んでいて面白くないなと思った。内側から外側へ押す力が足りないと思った。句を論じてからそういうことは言ってほしい、という声もあって、それは正論ではあるとは思ったけれど、でもそれはこの時評の目的を鑑みた時、望みすぎだし、それが上田信治さんの批評に対しての唯一の反撃であるならば、書き手としてあまりにも寂しいな、と思った。

それから、神野紗希さんの時評への反応は、あれはいくつかのレイヤーで論じることが可能な問題であると思うので、そのひとつの眼差しとして、通俗性というレンズを用いたのは慧眼だったのではないか。昭和三〇年世代の書き手は、ああいうそぶりが得意だと思う。通俗かどうかを置いておくとして、なんらかのポーズを交えた主体、という話として。擬古典派、と呼ばれるくらいなのだから、書かれたテキストは明らかに何らかの仮面であって、問題とするべきは、なぜそのような仮面をいま被る必要があったのですか、ということなので、そういう意味では、直接的にフェミニズムの立場から内容を問うのではなく、ワンクッション挟んで、通俗性として問い直すのは、テキストに対して誠実だな、と思いました。

後半(時評のようなもの6「ふたたび通俗性について」)は、いよいよ切れ味が増していてちょっと慄いた。片山由美子さんを「野蛮」と見なすそういう言葉遣いには、ネット媒体における批評は、ある種の偏差値の低い炎上を伴う方が拡散しやすい、ということが狙われているように思った(そういう意味では「発火性物質(バズ・ワード)」だっただろう)。

そうなると次に、「野蛮」は倫理としてどうなのか、と問われなければいけないよな、と思った。人を「野蛮」というときの批評の倫理の話になってくるだろう、と。

結論としては、ゼロ年代以降のある種の相対主義から撤退して、きちんと「NO」と言ったものだと思っていて、ぼくはこれを積極的に支持したい。もちろん若干倫理には抵触するので、そこの傷を思わないわけではないし、それはそうなのだけれど、パワー(権力)にどう抗うかという問題だと思う。結局。

俳壇的に上位におそらくいるように見える(俳壇なんて何か意味があるのかというのは置いといて)片山さんに対して「野蛮」であると指摘するということは、パワー(権力)に対しての戦略なので、それを加味したときに(かつそれが批評というプロレスのリングの上であることを考えると)、これくらい許容されてもいいのではないかな、と思いました。もちろん許容されてもいい、という言い方は、自らの咎を認めてかつ相手にその許しを公然と求める態度なので、ある種ずるいのですが。でもしょうがないと思う。

しょうがないとはなんだ、と言われそうなので、そのしょうがなさをちょっとだけ書くと、ツイッターで「夕焼けて」とか「夏痩せて」などの言い方を「誤用」とすることの是非について盛り上がったけれど、学問的な(つまり言語学的な)アプローチをするなら、そもそも「誤用」だなんて絶対言えないはずで、つまり言語の変化(ゆれ)を「記述する」のが、学問的な態度なので。「判断する」のはアカデミックでもなんでもない。つまり「夕焼けて」「夏痩せて」が正しいかどうか問題は、文法の問題以前に、「誤用だと『断定』できるメンタリティーの問題」だと思うんです。単純に。「判断する」方たちは、学問的なステージで話をされておられないのだから、龍太の〈夕焼けて〉や鷹女の〈夏痩せて〉を提示したりしても、そんなに意味はないと思う。痛くも痒くもないと思う。もうそこに学問的な態度はないのだから。あるのは越権的な(自分の主義信条を、自分の結社やそれに準ずる場所以外において適用するのは越権以外の何物でもないでしょう)教条主義なだけなので。

だとすると、それに対抗できるぼくらの手段は、そういった越権行為に対して、そのメンタリティーは、もしかして「野蛮」と呼ばれるようなものではないですか?と言い続けることしか残されていないと思う。

さてようやく作品評に移る。どうもすみません。


○町田無鹿「飛沫」

町田無鹿さんは「澤」で句座を共にしている。「澤」は「方言」(これはいわゆる澤調の比喩です)が強いところのように思われていて、事実それはそうだと思う。しかしだからといって、その「方言」を理由にして読むのを止めてしまわれるのは不本意だ。「方言」を喋っていることだけをあげつらわれて評を終えられることもしばしばで、それはどこまで誠実なんだろうな、と思う。「澤調」のなかでも日々アップデートは行われているし、そのあたりまで読んでほしい、というのは傲慢だというのは分かっているけれど、そこに思いを馳せるくらいの身振りは行われてほしい。

というようになぜ鼻息荒く「澤調」の話をするかというと、

ソフトクリーム舐むれば凹み舌の幅

この句が「澤調」であることを理由に読み飛ばされるのはとても悲しいからである。「澤調」というのはパターナリズムみたいところがあって、それだけに、特に下五でどれだけパターンに抗うかというのが一句のかなりのウェイトを占める。掲句の「舌の幅」に関して言えば、「凹む」まで言いながら、さらにその凹みは「舌の幅」なのだ、と踏み込んでいく書き方は、「澤調」の王道そのものなのだけれど、でも、これはやはりパターンでは書けない。言葉の密度として、「幅」まで書き込まれたら、パターンの先まで到達していると言っていいんじゃないかなと思う。

薔薇紅し大輪なるは俯き咲き
 
逆に、この句は堂々としていて、かつ中七で切るという澤調の型からも少しずれているけれど、「俯き咲き」に微妙に澤の文法が内面化されている気がして、一句目よりはうまく乗れない。

薫風や犬乗せて来る乳母車
薄暑なりおのおの運ぶパイプ椅子

そしてこのあたりのシングル・ヒットはおそらく無鹿さんならすぐに書けるであろう句であって、無鹿さんのこういう句を褒めるなら、それは無鹿さんの作家性に対して失礼だと思う。おおむね箸休めのような気持ちで連作に組み込まれたのだろうなという気すらするので。

金雀枝や酒誉むるうた中世に
舞曲の弓おほきく使ひ涼しさよ
 
それよりも、こういった、趣味的な香が強く出ている句の方に惹かれるのは、ぼくは無鹿さんの作風を知っているからなのだろうけれど、こういった句がより強度をもったとき、内側から外側へ向けて膨らむように書かれる魅惑的な十七音のことを思うし、考えてみればそれは師と仰ぐ小澤實のひとつの書き方に似ているのではないか。そういう意味で、つまり澤調であるとか、そういう外形的な要素ではなく、内側から外側へ、伝統俳句の枠組みを推していくような書き方を志向する点において、ぼくは町田無鹿という「澤」の先輩を信頼している。


○谷村行海「群れ」

それとは対照的にというと語弊があるけれど、谷村さんの句は外側を内側にしようと試みる運動によって書かれているように思える。俳句の外の語彙を、俗っぽさ(これは上田信治さんがいう「通俗性」とはまたニュアンスが違うけれど)を引き受けながら、でも俳句の形式に馴染ませるバランスの操作を行いながら書く。そこの妙な歯車の回転が、書き味に変わっている句に惹かれた。

船酔ひやディズニーシーの春夕焼

例えば掲句は中七に置かざるを得ない「ディズニーシー」という語彙をいなそうと考えた時に、俳句的な語彙でサンドイッチしようと考えるのはすごく物理的な解決策ではあるのだけれど、この妙な湿度は、出そうとしても出せない気がする。

ヒヤシンス一本コロッセオの記憶
 
あるいは素材主義なのかもしれない。ローマにヒヤシンスがあるかどうかはわからないけれど、句としての価値をはかる四則演算の途中で手を放して二物衝撃を試みるような、すこし雑にも見える詩性への接近の試みは、もうすこし言語が練り上げられた感じが欲しい読者にとってはやや物足りないものになるかもしれない。

けれど、

恋猫は糞踏み舐めて見つめをり
 
この句のように、なんならやや「澤」の価値観に近いような言語処理もしたりできるし(動詞を三つ重ねるのはやや芸としてはインスタントさを感じるけれど)、実際は器用に書くを志向されているように見える。

ただ、

メンヘラの多くはアイス最中好き
 
には乗れなかった。素材で俳句を拡張しようとせんとき、最低限俳句の内部に素材を持ちこまないと俳句は拡張されないのではないか。ぼくはこの句に、俳句の内部に食い込めるほどの強度が織り込まれているようには思えなかった。


○津野利行「戻らない日」
 
子供、妻などの身の回りを書いている。全体として、言葉に無理がなく、定型のなかに水が満ちているなら泥煙などは一切ない。立つ鳥跡を濁さずとはいうけれど、言語操作をしたあとの言語の濁りのなさを思った。

夕方が一番きれい麦の秋
 
言い回しに多少の差はあれ類想が無いわけではないのだろうけれど、気持ちよく読めた。読み下ろすということに価値のウェイトを多く割いている。ただそのぶん意味性に関してはやや俗に通ずるところが見える句もあって(これは上田信治さん的な意味とやや近い)、

戻らない日を夏蝶の飛びにけり
女房に食はす土曜の鰻かな

 
「戻らない日」は連作のなかの一句として読んでもややベタに見える。ことに鰻の句に関しては、小川軽舟の芋煮の句にも通ずる、ややたちの悪い俗だと思う。書かれている意味の緩さは、その定型感覚を込みで消費しないとあやういように思わせてしまうし、そういう意味でこの澄んだ定型のなかにどうやって意味を充足させていくか、ということを思った。

涼し気な音水筒に持たせくれ
自転車を押して二人の夏の月

 
イデアのような家族生活を見せるよりも、もので見せる方が安心して読めるなあと思ったりもした。

穏やかな海に戻りて夏の果
 
季語がベタにつくことでしか見えないものもあると思っていて、この句のベタさはとても好ましいように思えた。身の回りの言葉をきちんと信頼して使っている書き手のように感じて、それは十句のうちどの句からも立ち現れている。


○柳本々々「ふたりでくらす暴風雨」

川柳の力学と俳句の力学の違いはと、それを考えることの意味のありなしに関わらずときおり考えるけれど、この十句を前にした時に、何か言い得てようとするならば、向こうから踏み込んでこない句があって、その句についてまず考えてみたいと思った。

手のひらのやぶけたところ桜桃忌

どの手持ちの価値で回収していいのかわからない淡白さ、無欲さみたいなものを思うときに、

夏帽子バスから見えるバスの群
梅雨晴間死ぬまでずっとおんなじ眼
 

これらのような季語はどうもとってつけたような感じがして、それはどうも、言葉との関係の結び方の問題な気がするのだ。つまり、必要以上にひたらない、一定の客観性と距離がどの言葉の接続にもある気がする。

桜桃忌ちっちゃいフィギュアこぼれおち

ぼくたちは桜桃忌ということばを深読みすることを求められているのだろうか。しかし連作の言葉のタッチからしてどうもそうとは思えない。しかしそうすると季語をどう回収すればよいのかわからない。関係性が淡いのである。なんというか、すごく言葉にしにくいのだけれど、白昼夢のハンドリングが出来ないのに似た感覚を、思うのである。ただ眼差し、視点としてそこにあることのみを許された感じというか。うーむ。もちろん最低限のハンドリングはされていて、負荷もないのだけれど、どこかしらの茫洋とした感じ、螺子がしまっていないような感じがする。

雨に濡れずっしりの服桜桃忌
かたつむり二人で暮らす凄まじさ

 
「ずっしりの服」あるいは「凄まじさ」などは俳句の力学にないズレを感じて、もちろんこういう見える差異も面白いのだけれど。

夏館大きな鳥にみえる人
 
逆にこの句などは、けっこう俳句として読めた。
解像度があっていない感じがもどかしかった。柳本さん、すみません。


○山根真矢「龍穴」
 
端正な句の読みぶりで、配慮が行き届いているように思った。ぼくが鑑賞として言葉を尽くす必要がない句が多いと思って、それがとても嬉しいと思った。

走り梅雨らしき糸雨ポプラの木

糸雨のすじを引いて垂れていくイメジがポプラの木に転化されて、あざやか。

蜘蛛の乗る芥は岸を離れけり
 
たしかな句があるというのはいいよな、と思った。

胡麻ほどの萍に根のありにけり

「ある」という簡素な措辞が写生を成り立たせることがずっと不思議なのだけれど、ぼくにはこれが写生の価値にコミットしているように思えるし、やはり何が写生を成り立たせるのかというのはじっくりと考えてみたい。

子蟷螂透きとほる足踏ん張つて
 
と思えば、対象に没入していくような写生も出来る。

鳶来れば湖近し夏休
 
この句が抜群に好きでした。フレーズも、季語のおおらかさも。ぼくもそろそろ夏休みだな。


【対象作品】 
町田無鹿 飛沫 10句 ≫読む
谷村行海 群れ 10句 ≫読む
第635号 2019年6月23日
津野利行 戻らない日 10句 ≫読む
柳本々々 ふたりでくらす暴風雨 10句 ≫読む
山根真矢 龍穴 10句 ≫読む 

2 comments:

yamane さんのコメント...

拙い句を読んでくださった皆さん、ありがとうございました。柳元佑太さん、丁寧に評していただき、御礼申し上げます。「澄んだ定型」ー私ももっと勉強しないとと思いました。山根真矢

津野 利行 さんのコメント...

読んでいただき、またコメントもいただき、ありがとうございました。
津野利行