【週俳8月の俳句を読む】
言葉からの距離
山岸由佳
祭鱧を食しながら、かつてあったはずの産科医院のことを思い出したのだろうか。産科医院が消えると書かれると、まるで命が産まれる場所、命そのものが消えてしまったようにさえも思われてくる。
さて、祭鱧とは、京都の祇園祭の頃の鱧のことであるが、祇園祭の起源を遡ると、平安時代前期に、京で疫病が流行した際、神泉苑(中京区)に、66本の鉾を立て、祇園の神を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされるそうだ。祭りには日常とは異なる華やかさがあるが、生きるための祈りや鎮魂の儀式であり、死の世界とは切り離せない。
また、自然のエネルギーと祭の荘厳さが一つとなり、幻想的な世界をつくりあげている一句目の「真白き豪雨宵山の四条」と合わせて読むと、祭の最中に建物自体がふっと消えてしまったような感覚に陥る。
百舌鳥鳴いて鳴いて単焦点レンズ 倉田有希
百舌がしきりに鳴いているなか、レンズを覗いている作者。単焦点レンズとは焦点距離の決まったレンズのこと。ズームがついていないため、構図を決めるのに、自分の足で近づいたり遠くはなれたりと撮影の対象までの立ち位置を決めることになる。聴覚と視覚に加え、距離というものがこの句から自ずと浮かんでくる訳であるが、作者がどこに居て、何にレンズを向けているのかは定かではない。
百舌鳥鳴いての「鳴いて」が二回繰り返されることで、百舌鳥の世界にぐんと引き込まれるのだが、次に「単焦点レンズ」と軽く突き放されることで、読み手もまた、この句の中で立ち尽くすことになる。必死に鳴いている百舌鳥のあはれさがそこはかとなく漂う中、ファインダーを一人覗いているまっすぐな眼差しと、また眼前にある言葉と一定の距離をとりながら。
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