【週俳8月の俳句を読む】
相和丘陵にて(五)
瀬戸正洋
島村利正を読んでいる。
「秩父愁色」新潮社、昭和52年7月15日刊。「妙高の秋」中央公論社、昭和54年6月30日刊。「霧のなかの声」新潮社、昭和57年3月20日刊。「清流譜」中央公論社、昭和57年7月20日刊。随筆集「多摩川断想」花曜社、昭和58年11月25日刊、の五冊である。「清流譜」は遺作集、「多摩川断想」も遺作集であり唯一の随筆集でもある。五冊とも初版本で書きこみも皆無である。
書店で「多摩川断想」を見つけた。「師と私と-瀧井孝作」に興味を覚えた。「清流譜」は、「瀧井孝作全集」の月報に十二回連載された作品である。装幀は小池邦夫であった。「妙高の秋」は、中公文庫でももっていたはずなのだが見つからなかった。
●
しなやかに猫の重心なつやすみ 菅原はなめ
なつやすみとは思い出である。それも子どものころの思い出である。「ラジオ体操は見かけなくなりましたね」と接骨医はいった。腰痛の治療で通っているので、そんなはなしになったのである。
猫はしなやかなのである。弾力に富んでいるのである。うらやましいかぎりである。老人に重心などあるのだろうか。老人にとっての重心は拡散してしまっている。いつも、ふらふらしている。拡散がおわったときに老人は死ぬのだとおもう。
サンダルの匂う百円ショップかな 菅原はなめ
百円ショップに対する批判、サンダルへの批判であるのかも知れない。
早朝の海辺の百円ショップの風景。あかるい店内に海水浴、あるいは、地引網等で来た家族づれが立ち寄っている。ビーチサンダルを忘れてしまったのかも知れない。一日だけ間にあわせることができれば、百円でじゅうぶんなのであると考えている。
獏はいつ眠るのだろう夏の雨 菅原はなめ
獏は眠らないのである。ひとのゆめをたべるためには眠ってなどいられないのである。獏は悪夢をたべてくれる。だが、現実はたべてはくれない。現実をたべてこその獏なのだなどとおもったりもする。
ストローを行ったり来たりソーダ水 菅原はなめ
ソーダ水とは、作者自身のことなのである。ストローを行ったり来たりすることこそ人生そのものなのである。ソーダ水を注文する。ウエイトレスは、あのはじける泡とみどりいろの液体を持ってくる。アイスクリームをのせてみることも悪くはないとおもったりしている。
昼寝して下り電車のなかにいた 菅原はなめ
昼寝は下り電車がよく似合う。大事な要件が待っている上り電車だと、おちおち、昼寝などできないだろうとおもう。要件も無事に終了し帰宅のための電車に乗り込んだのである。幸運にも席を確保することができたのである。
私にとっては、小田急線新宿駅発急行小田原行の車中の昼寝ということになるのかも知れない。
夏蝶をカフカの残骸と思う 菅原はなめ
夏らしい強くはげしい蝶のことを「夏蝶」だという。「残骸」とは、役に立たないほど破壊されたもの、殺されて捨て置かれた死体とあった。
カフカについて語るひとをみかけるが、そんなときは、そのひとをじっとみつめることにしている。私はカフカのことは知らない。写真は見たことがある。作品名も知っている。ただ、それだけのことである。
地球また宇宙の一部飛び込みす 菅原はなめ
日本人のひとりである。地球に生息する人類のひとりである。崖からであっても、防波堤からであっても、ひとは飛び込まなくてはならないのである。海へ飛び込むのである。宇宙にむかって飛び込むのである。ひとは、無理をしなくては生きてはいけないのである。
海獣の皮膚の手ざわり水着脱ぐ 菅原はなめ
海獣とは、クジラ、アシカ、アザラシ、ラッコ、ジュゴン、マナティーなどの海に生息する哺乳類である。その皮膚にふれたことはないとおもう。それでも、水着を脱いだとき海獣の皮膚であることを感じたのである。不思議なことのような気もするが、海獣の皮膚であると確信したのである。
夏の果パイロンひとつ置いてあり 菅原はなめ
置きわすれたものなのかも知れない。パイロンがひとつ道ばたにある。道ばたにパイロンは似合う。誰も気にとめないぐらい似あう。月日がたつにつれてパイロンは自分の居場所を決める。季節はめぐり埃で汚れたパイロンは、その場所でふたたび夏の季節をむかえるのである。
ガラケーをぱちんと閉じて夏終わる 菅原はなめ
夏が終わることにほっとしたのである。秋の訪れることを待ちのぞんでいたのである。ガラケーをぱちんと閉じたのである。じぶんの思いどおりにことがはこんだのかも知れない。あたらしい季節にはあたらしい何かが待っていることに期待をもたなくてはならない。
白墨を舐めて無口な人の秋 倉田有希
舐めるにはゆっくり味わうという意味がある。白墨とは黒板に書くために使うチョークのことである。
ものを書くひとの饒舌には胡散臭さがつきまとう。書くのなら黙っていればいいのとおもう。鉛筆と原稿用紙、萬年筆と手帳、筆と半紙、白墨と黒板。季節は秋、碌なものしか書くことができないとおもいながらも頭と手を動かすのである。
旋盤の金屑天の川になる 倉田有希
金屑(カナクズ)なのである。金の屑ではない。金の屑は屑ではない。金である。空にあるものは私たちの暮しと何らかのつながりがなくてはならない。「旋盤の金屑」こそ、天の川にならなくてならないものなのである。「旋盤の金屑」を思いきって空に放りなげる。天の川は、おおそらをゆったりと流れている。
新涼のノギスは人真似鳥の貌 倉田有希
絵画には模写がある。文学には書き写すという方法がある。子どもはおとなの真似をする。ノギスの使い方も見ておぼえるのである。
新涼とはすずしいこころもちのことである。夕がた縁側に腰おろしていると庭に舞いおりてくる。聴き惚れてしまうような鳴きごえをする野鳥もいる。ひとの視線などおかまいなしに自由に声高に美しく鳴きつづけている。
鳴きごえを真似るとはどういうことなのだろう。ノギスを使ってどう考えればいいのだろう。難問であるとおもっている。
小鳥来る鍍金工場の明り窓 倉田有希
鍍金工場と自然をつなぐものは明り窓である。明り窓とは、採光を目的としてもうけられた窓である。明り窓のさきからは何かがうごくような気配がする。ひとにとってたいせつなものは小鳥などではない。明り窓なのである。明り窓のさきにあるものなのである。
骨髄の絵を描かせれば柘榴かな 倉田有希
何故、「骨髄の絵を描かせれば」なのか。何故、それが「柘榴」なのか。理由はかならずあるのである。俳句は、他人のために作るのではない。自分のために作るのである。もうひとりの自分と折り合いをつけるために、そのことばをえらんだのである。他人に理解をもとめることは不要なことなのである。
こほろぎの仮死を見てゐるペトリ皿 倉田有希
ペトリ皿のなかの蟋蟀を見ている。それも仮死の蟋蟀を見ているのである。何かの餌なのかも知れない。餌は、蟋蟀ばかりだとペットもあきてしまうだろう。ひとはわがままである。ペットもわがままなのである。とどのつまりは、ひともペットも空腹であるということがたいせつなのである。
真鰯のたくさん釣れて尿酸値 倉田有希
尿酸値といえば痛風である。マイワシはからだにいいといわれているがプリン体をおおく含んでいる。マイワシを習慣的にたべることは尿酸値を上げる原因にもなる。
真鰯のたくさん釣れることは悪いことではない。ちからを抜いて生きることも必要なのである。すこしぐらい尿酸値が上がってもかまわないだろう。気楽に生きることはたいせつなのである。
ひぐらしの声しあはせに耳小骨 倉田有希
ひぐらしをきくことができたのは、耳小骨のおかげなのである。耳小骨が鼓膜につたわった振動を内耳に伝えてくれたから感じることができたのである。しあわせであると感じたのは、ひぐらしの声につつまれているからなのである。
相和丘陵でひぐらしが鳴きはじめたのは7月24日であった。
百舌鳥鳴いて鳴いて単焦点レンズ 倉田有希
単焦点レンズというとボケた写真をイメージする。ボケとは、老化に伴う記憶障害や判断力の低下などの症状である。ボケている世のなかをボケていることを知らずに生きることがつらいのである。ひとは、ボケなくてはならないのである。ボケなくては、しあわせな老後などやってくるはずがないのである。鳴いて鳴いてというリフレインが、それを象徴している。鵙は猛禽類である。ギチギチという鳴き声は決して美しくはない。
写真機は嘘をつきます秋桜 倉田有希
嘘をつきますの「吐く」とは、口からでるということである。誰もが、意識、無意識にかかわらず嘘をつく。ひとがこしらえた写真機が嘘をつかないわけがないのである。
写真が嘘をつくのは、ひとがかかわっているからである。目のまえにひろがっている秋桜をながめて美しい、それは真実である、などと安心してながめているひとの気が知れない。
真白き豪雨宵山の四条 玉貴らら
真白き豪雨、そんなときもあるのだろう。千年以上もつづく祭なのだから何があっても、それが「宵山」なのである。空は自由である。空はわがままなのである。私は宵山のことは何も知らない。
宵山というと「宵々山コンサート」になってしまう。YouTubeで高石ともやとザ・ナターシャ・セブンの「街」を聴いてみる。何もかもが、誰も彼もが、若かった。老人の感想は、いつもその程度のものなのである。
祭鱧産科医院の消えてをり 玉貴らら
祇園祭のころの鱧を「祭鱧」という。祭り膳に欠かせないところから、そういう名がついたのだそうだ。つまり、祭鱧とは歴史のことなのである。「産科医院」のなくなっていたことも歴史なのである。思い出さなくてはならない歴史なのである。思い出せなければ「産科医院」は、かげも形もなくなってしまうのである。
弾痕は維新の名残蔦青葉 玉貴らら
私たちのあずかり知らぬところで時代はうごいている。政変とは地殻変動のようなものなのである。一瞬のできごとである。気づいたときは何もかもが終っている。世の中は、いつも戦時であるとおもう。
「名残」とは、その気配や影響が残っていること。蔦青葉は、涼しげで美しいというよりも、廃墟(真実)をかくしているものなのかも知れない。
菜箸に赤きとこあり凌霄花 玉貴らら
調理、盛り付け、取り分けなどに使われる。持ち手のところが赤く塗られている菜箸もある。菜箸が長いのは、調理中の熱から手先の火傷を予防するためのものだという。凌霄花は、ももいろの花が咲く。花の蜜により、指さきがかぶれたり、目にはいると炎症を起こしたりもする。凌霄花の蜜には毒がある。
菜箸の赤と凌霄花のももいろには何の関係があるのだろう。何の関係もないところで存在しているのである。日常とは、そういったものなのだろうとおもう。
万緑や写生の人の背の曲がり 玉貴らら
大景を描こうとしているひとの背なかが曲がっている。自画像であるのかも知れない。万緑のまえに立ち、ちからのかぎり挑んでいるつもりであっても、他人からみればこのようなものなのである。自分のことはよくわからないものだ。他人には見透かされてしまっている。自分に酔うことなど止めた方がいいに決まっているのだ。
裁判所左右対称アイスティー 玉貴らら
裁判所が左右対称であるとは、「ひとは平等である」ということを象徴しているような気にさせる。要するに、ひとのからんだできごとのなかには決して平等なものはない。ひとのちからではどうすることのできないできごとのなかでは誰もが平等なのである。
アイスコーヒーを飲む程度の軽さこそ、人生にはふさわしく、たいせつなことなのである。
断層に木の根の這ひて風死せり 玉貴らら
断層、断層運動、嫌なことばである。木の根が這うとは、けな気なはなしである。空しいことだが、それは正しい行為なのである。ひとも同じような行為をしている。あたりまえのことなのである。生きていくということとは空しいことなのである。
空しさとは風のことなのである。止んでしまった風のことなのである。暑さのなか風が止んでしまうことを「風死す」という。風にも「生き死に」があるのだとおもうとほっとする。
意図せずに踏み抜くごきかぶりの音 玉貴らら
深く踏みこむことを「踏み抜く」という。ごきかぶりが嫌いなのである。そのごきかぶりを踏み抜いた自分が許せないのである。無意識のうちにしてしまった自分が許せないのである。ごきかぶりのつぶれた音の気もちわるさが許せないのである。
気づいたか気づかないかが重要な問題なのである。ひとは気づかずに、ごきかぶりを踏み抜いている。ひとのこころを踏み抜いている。何も気づかずに生きていく。それは、それで幸せなことなのだとおもう。
保護犬と籠いつぱいの玉ねぎと 玉貴らら
無責任なひとがいるということなのだろう。犬には「ひと」がいる。ひとには「**」がいる。「**」とは、ひとのちからではどうすることもできない何かなのである。「**」には、隠すことなどできない。「**」は、何もかも知っているのである。
ひとは、からだにいいからなどといいながら、スライスした玉ねぎに、マヨネーズ、あるいは、ドレッシングなどをかけて食べたりしている。
何もなき亀甲墓に南瓜置く 玉貴らら
亀甲墓とは沖縄県にみられる墓様式であるという。訪れたのには訳があるのかも知れない。南瓜を置いたことにも訳があるのかも知れない。
菩提寺は、「R寺」である。集落の東側にある。元旦、お彼岸、お盆、お施餓鬼、年末、法事などのときに出かける。お墓からは自宅が見える。旧生命保険会社の本社ビルが見える。その先に、箱根連山、そして、富士山が見える。
●
夜中に老妻に起こされた。テレビを見ていたら、子ネズミが足元を通りすぎていったのだという。翌朝、憮然とした顔でネズミをはやく捕まえろという。ネズミを捕るには、粘着テープや捕獲ガゴをつかうのだが、どれだけたいへんなことなのかを知らない。
粘着テープで捕まえたネズミをたき火のなかに放りこんだとき「キュゥ」と鳴いたのにはまいった。捕獲ガゴにかかったネズミを小川に沈めるときは目を合わさず、捕獲カゴごと放りなげる。しばらくして、それを取りにいくのである。
「ぶるうまりん句会」のあと、何故か、そんな話になった。井東泉が、「捕ったネズミは、裏山へでも持っていって放してやればいいのよ」といった。それは名案だとおもった。こころの底から名案だとおもった。自宅からネズミを追いだせさえすればいいのである。
「秩父愁色」新潮社、昭和52年7月15日刊。「妙高の秋」中央公論社、昭和54年6月30日刊。「霧のなかの声」新潮社、昭和57年3月20日刊。「清流譜」中央公論社、昭和57年7月20日刊。随筆集「多摩川断想」花曜社、昭和58年11月25日刊、の五冊である。「清流譜」は遺作集、「多摩川断想」も遺作集であり唯一の随筆集でもある。五冊とも初版本で書きこみも皆無である。
書店で「多摩川断想」を見つけた。「師と私と-瀧井孝作」に興味を覚えた。「清流譜」は、「瀧井孝作全集」の月報に十二回連載された作品である。装幀は小池邦夫であった。「妙高の秋」は、中公文庫でももっていたはずなのだが見つからなかった。
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しなやかに猫の重心なつやすみ 菅原はなめ
なつやすみとは思い出である。それも子どものころの思い出である。「ラジオ体操は見かけなくなりましたね」と接骨医はいった。腰痛の治療で通っているので、そんなはなしになったのである。
猫はしなやかなのである。弾力に富んでいるのである。うらやましいかぎりである。老人に重心などあるのだろうか。老人にとっての重心は拡散してしまっている。いつも、ふらふらしている。拡散がおわったときに老人は死ぬのだとおもう。
サンダルの匂う百円ショップかな 菅原はなめ
百円ショップに対する批判、サンダルへの批判であるのかも知れない。
早朝の海辺の百円ショップの風景。あかるい店内に海水浴、あるいは、地引網等で来た家族づれが立ち寄っている。ビーチサンダルを忘れてしまったのかも知れない。一日だけ間にあわせることができれば、百円でじゅうぶんなのであると考えている。
獏はいつ眠るのだろう夏の雨 菅原はなめ
獏は眠らないのである。ひとのゆめをたべるためには眠ってなどいられないのである。獏は悪夢をたべてくれる。だが、現実はたべてはくれない。現実をたべてこその獏なのだなどとおもったりもする。
ストローを行ったり来たりソーダ水 菅原はなめ
ソーダ水とは、作者自身のことなのである。ストローを行ったり来たりすることこそ人生そのものなのである。ソーダ水を注文する。ウエイトレスは、あのはじける泡とみどりいろの液体を持ってくる。アイスクリームをのせてみることも悪くはないとおもったりしている。
昼寝して下り電車のなかにいた 菅原はなめ
昼寝は下り電車がよく似合う。大事な要件が待っている上り電車だと、おちおち、昼寝などできないだろうとおもう。要件も無事に終了し帰宅のための電車に乗り込んだのである。幸運にも席を確保することができたのである。
私にとっては、小田急線新宿駅発急行小田原行の車中の昼寝ということになるのかも知れない。
夏蝶をカフカの残骸と思う 菅原はなめ
夏らしい強くはげしい蝶のことを「夏蝶」だという。「残骸」とは、役に立たないほど破壊されたもの、殺されて捨て置かれた死体とあった。
カフカについて語るひとをみかけるが、そんなときは、そのひとをじっとみつめることにしている。私はカフカのことは知らない。写真は見たことがある。作品名も知っている。ただ、それだけのことである。
地球また宇宙の一部飛び込みす 菅原はなめ
日本人のひとりである。地球に生息する人類のひとりである。崖からであっても、防波堤からであっても、ひとは飛び込まなくてはならないのである。海へ飛び込むのである。宇宙にむかって飛び込むのである。ひとは、無理をしなくては生きてはいけないのである。
海獣の皮膚の手ざわり水着脱ぐ 菅原はなめ
海獣とは、クジラ、アシカ、アザラシ、ラッコ、ジュゴン、マナティーなどの海に生息する哺乳類である。その皮膚にふれたことはないとおもう。それでも、水着を脱いだとき海獣の皮膚であることを感じたのである。不思議なことのような気もするが、海獣の皮膚であると確信したのである。
夏の果パイロンひとつ置いてあり 菅原はなめ
置きわすれたものなのかも知れない。パイロンがひとつ道ばたにある。道ばたにパイロンは似合う。誰も気にとめないぐらい似あう。月日がたつにつれてパイロンは自分の居場所を決める。季節はめぐり埃で汚れたパイロンは、その場所でふたたび夏の季節をむかえるのである。
ガラケーをぱちんと閉じて夏終わる 菅原はなめ
夏が終わることにほっとしたのである。秋の訪れることを待ちのぞんでいたのである。ガラケーをぱちんと閉じたのである。じぶんの思いどおりにことがはこんだのかも知れない。あたらしい季節にはあたらしい何かが待っていることに期待をもたなくてはならない。
白墨を舐めて無口な人の秋 倉田有希
舐めるにはゆっくり味わうという意味がある。白墨とは黒板に書くために使うチョークのことである。
ものを書くひとの饒舌には胡散臭さがつきまとう。書くのなら黙っていればいいのとおもう。鉛筆と原稿用紙、萬年筆と手帳、筆と半紙、白墨と黒板。季節は秋、碌なものしか書くことができないとおもいながらも頭と手を動かすのである。
旋盤の金屑天の川になる 倉田有希
金屑(カナクズ)なのである。金の屑ではない。金の屑は屑ではない。金である。空にあるものは私たちの暮しと何らかのつながりがなくてはならない。「旋盤の金屑」こそ、天の川にならなくてならないものなのである。「旋盤の金屑」を思いきって空に放りなげる。天の川は、おおそらをゆったりと流れている。
新涼のノギスは人真似鳥の貌 倉田有希
絵画には模写がある。文学には書き写すという方法がある。子どもはおとなの真似をする。ノギスの使い方も見ておぼえるのである。
新涼とはすずしいこころもちのことである。夕がた縁側に腰おろしていると庭に舞いおりてくる。聴き惚れてしまうような鳴きごえをする野鳥もいる。ひとの視線などおかまいなしに自由に声高に美しく鳴きつづけている。
鳴きごえを真似るとはどういうことなのだろう。ノギスを使ってどう考えればいいのだろう。難問であるとおもっている。
小鳥来る鍍金工場の明り窓 倉田有希
鍍金工場と自然をつなぐものは明り窓である。明り窓とは、採光を目的としてもうけられた窓である。明り窓のさきからは何かがうごくような気配がする。ひとにとってたいせつなものは小鳥などではない。明り窓なのである。明り窓のさきにあるものなのである。
骨髄の絵を描かせれば柘榴かな 倉田有希
何故、「骨髄の絵を描かせれば」なのか。何故、それが「柘榴」なのか。理由はかならずあるのである。俳句は、他人のために作るのではない。自分のために作るのである。もうひとりの自分と折り合いをつけるために、そのことばをえらんだのである。他人に理解をもとめることは不要なことなのである。
こほろぎの仮死を見てゐるペトリ皿 倉田有希
ペトリ皿のなかの蟋蟀を見ている。それも仮死の蟋蟀を見ているのである。何かの餌なのかも知れない。餌は、蟋蟀ばかりだとペットもあきてしまうだろう。ひとはわがままである。ペットもわがままなのである。とどのつまりは、ひともペットも空腹であるということがたいせつなのである。
真鰯のたくさん釣れて尿酸値 倉田有希
尿酸値といえば痛風である。マイワシはからだにいいといわれているがプリン体をおおく含んでいる。マイワシを習慣的にたべることは尿酸値を上げる原因にもなる。
真鰯のたくさん釣れることは悪いことではない。ちからを抜いて生きることも必要なのである。すこしぐらい尿酸値が上がってもかまわないだろう。気楽に生きることはたいせつなのである。
ひぐらしの声しあはせに耳小骨 倉田有希
ひぐらしをきくことができたのは、耳小骨のおかげなのである。耳小骨が鼓膜につたわった振動を内耳に伝えてくれたから感じることができたのである。しあわせであると感じたのは、ひぐらしの声につつまれているからなのである。
相和丘陵でひぐらしが鳴きはじめたのは7月24日であった。
百舌鳥鳴いて鳴いて単焦点レンズ 倉田有希
単焦点レンズというとボケた写真をイメージする。ボケとは、老化に伴う記憶障害や判断力の低下などの症状である。ボケている世のなかをボケていることを知らずに生きることがつらいのである。ひとは、ボケなくてはならないのである。ボケなくては、しあわせな老後などやってくるはずがないのである。鳴いて鳴いてというリフレインが、それを象徴している。鵙は猛禽類である。ギチギチという鳴き声は決して美しくはない。
写真機は嘘をつきます秋桜 倉田有希
嘘をつきますの「吐く」とは、口からでるということである。誰もが、意識、無意識にかかわらず嘘をつく。ひとがこしらえた写真機が嘘をつかないわけがないのである。
写真が嘘をつくのは、ひとがかかわっているからである。目のまえにひろがっている秋桜をながめて美しい、それは真実である、などと安心してながめているひとの気が知れない。
真白き豪雨宵山の四条 玉貴らら
真白き豪雨、そんなときもあるのだろう。千年以上もつづく祭なのだから何があっても、それが「宵山」なのである。空は自由である。空はわがままなのである。私は宵山のことは何も知らない。
宵山というと「宵々山コンサート」になってしまう。YouTubeで高石ともやとザ・ナターシャ・セブンの「街」を聴いてみる。何もかもが、誰も彼もが、若かった。老人の感想は、いつもその程度のものなのである。
祭鱧産科医院の消えてをり 玉貴らら
祇園祭のころの鱧を「祭鱧」という。祭り膳に欠かせないところから、そういう名がついたのだそうだ。つまり、祭鱧とは歴史のことなのである。「産科医院」のなくなっていたことも歴史なのである。思い出さなくてはならない歴史なのである。思い出せなければ「産科医院」は、かげも形もなくなってしまうのである。
弾痕は維新の名残蔦青葉 玉貴らら
私たちのあずかり知らぬところで時代はうごいている。政変とは地殻変動のようなものなのである。一瞬のできごとである。気づいたときは何もかもが終っている。世の中は、いつも戦時であるとおもう。
「名残」とは、その気配や影響が残っていること。蔦青葉は、涼しげで美しいというよりも、廃墟(真実)をかくしているものなのかも知れない。
菜箸に赤きとこあり凌霄花 玉貴らら
調理、盛り付け、取り分けなどに使われる。持ち手のところが赤く塗られている菜箸もある。菜箸が長いのは、調理中の熱から手先の火傷を予防するためのものだという。凌霄花は、ももいろの花が咲く。花の蜜により、指さきがかぶれたり、目にはいると炎症を起こしたりもする。凌霄花の蜜には毒がある。
菜箸の赤と凌霄花のももいろには何の関係があるのだろう。何の関係もないところで存在しているのである。日常とは、そういったものなのだろうとおもう。
万緑や写生の人の背の曲がり 玉貴らら
大景を描こうとしているひとの背なかが曲がっている。自画像であるのかも知れない。万緑のまえに立ち、ちからのかぎり挑んでいるつもりであっても、他人からみればこのようなものなのである。自分のことはよくわからないものだ。他人には見透かされてしまっている。自分に酔うことなど止めた方がいいに決まっているのだ。
裁判所左右対称アイスティー 玉貴らら
裁判所が左右対称であるとは、「ひとは平等である」ということを象徴しているような気にさせる。要するに、ひとのからんだできごとのなかには決して平等なものはない。ひとのちからではどうすることのできないできごとのなかでは誰もが平等なのである。
アイスコーヒーを飲む程度の軽さこそ、人生にはふさわしく、たいせつなことなのである。
断層に木の根の這ひて風死せり 玉貴らら
断層、断層運動、嫌なことばである。木の根が這うとは、けな気なはなしである。空しいことだが、それは正しい行為なのである。ひとも同じような行為をしている。あたりまえのことなのである。生きていくということとは空しいことなのである。
空しさとは風のことなのである。止んでしまった風のことなのである。暑さのなか風が止んでしまうことを「風死す」という。風にも「生き死に」があるのだとおもうとほっとする。
意図せずに踏み抜くごきかぶりの音 玉貴らら
深く踏みこむことを「踏み抜く」という。ごきかぶりが嫌いなのである。そのごきかぶりを踏み抜いた自分が許せないのである。無意識のうちにしてしまった自分が許せないのである。ごきかぶりのつぶれた音の気もちわるさが許せないのである。
気づいたか気づかないかが重要な問題なのである。ひとは気づかずに、ごきかぶりを踏み抜いている。ひとのこころを踏み抜いている。何も気づかずに生きていく。それは、それで幸せなことなのだとおもう。
保護犬と籠いつぱいの玉ねぎと 玉貴らら
無責任なひとがいるということなのだろう。犬には「ひと」がいる。ひとには「**」がいる。「**」とは、ひとのちからではどうすることもできない何かなのである。「**」には、隠すことなどできない。「**」は、何もかも知っているのである。
ひとは、からだにいいからなどといいながら、スライスした玉ねぎに、マヨネーズ、あるいは、ドレッシングなどをかけて食べたりしている。
何もなき亀甲墓に南瓜置く 玉貴らら
亀甲墓とは沖縄県にみられる墓様式であるという。訪れたのには訳があるのかも知れない。南瓜を置いたことにも訳があるのかも知れない。
菩提寺は、「R寺」である。集落の東側にある。元旦、お彼岸、お盆、お施餓鬼、年末、法事などのときに出かける。お墓からは自宅が見える。旧生命保険会社の本社ビルが見える。その先に、箱根連山、そして、富士山が見える。
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夜中に老妻に起こされた。テレビを見ていたら、子ネズミが足元を通りすぎていったのだという。翌朝、憮然とした顔でネズミをはやく捕まえろという。ネズミを捕るには、粘着テープや捕獲ガゴをつかうのだが、どれだけたいへんなことなのかを知らない。
粘着テープで捕まえたネズミをたき火のなかに放りこんだとき「キュゥ」と鳴いたのにはまいった。捕獲ガゴにかかったネズミを小川に沈めるときは目を合わさず、捕獲カゴごと放りなげる。しばらくして、それを取りにいくのである。
「ぶるうまりん句会」のあと、何故か、そんな話になった。井東泉が、「捕ったネズミは、裏山へでも持っていって放してやればいいのよ」といった。それは名案だとおもった。こころの底から名案だとおもった。自宅からネズミを追いだせさえすればいいのである。
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