【週俳8月の俳句を読む】
言葉にすると消えてしまう、この世界のリアル
小西瞬夏
夏蝶をカフカの残骸と思う 菅原はなめ
カフカと言えば『変身』を頭に浮かべる。ある朝目覚めると巨大な虫になっていた男と、その家族の顛末を描く物語。その虫は、醜い毒虫ということになっているが、ドイツ語の原文は Ungeziefer となっており、これは鳥や小動物なども含む有害生物全般を意味する単語であるらしい。カフカは出版の際、「昆虫そのものを描いてはいけない」「遠くからでも姿を見せてはいけない」と注文をつけていたそうだ。カフカにとってこの「虫」は「虫」であって実際の「虫」ではない。富澤赤黄男が「蝶はまさに『蝶』であるが、『その蝶』ではない」と言ったように。この作者にとってのカフカの「虫」、自分という存在、そのなかでも醜い部分、人に見られたくない部分は、夏蝶のような存在なのだ。色がはっきりとしていて少し大きく存在感のある夏蝶。妖艶な姿でもあるけれど、建設的な生命力、自己肯定感を漂わせる。
「残骸」という措辞はやや直接的で観念的ではあるが、混沌とした内的世界を表現する。「~を~と思う」という散文的で、ふっと口にした心のつぶやきのような口語表現は、この内容に即している。
カフカの小説が下敷きになっていることで、実存主義の匂いを感じながら、同時に現代を生きる一人の人間の独り言を聞いてしまったようで、心がざわついた。
こほろぎの仮死を見てゐるペトリ皿 倉田有希
夏が過ぎ涼しくなってくると、なんとなく何かを眺めてぼんやりと物思いに耽ることが増えてくる。その「何か」というのは、山だったり、海だったり、空だったり、森の緑だったり、人や動物ということもあるだろう。今、時間を共にするそれらの生命をリアルに感じることで、自分の生を確かめようとしているのか。
この作者のその「何か」は「こおろぎ」である。そして、その「仮死」である。死んでしまっているのではなく、今だけ仮に死んでいる、しかし生き返り、そのあとは生きていかなければならないのだ。それでもたった今、目の前のこおろぎは死んでいる。からだを縮こまらせてじっとしている。そして舞台は草原や裏庭、またはてのひらのような場所ではなく「ペトリ皿」なのである。このこおろぎの命は、何かの実験として観察されている。そして瀕死の状態なのである。
それをただ見ている、ということを俳句に言いとめただけのこの作品からは、言葉では説明しきれないものが漂ってくる。それは、言葉にしてしまうと、きっと消えてしまうのであろう。
裁判所左右対称アイスティー 玉貴らら
私の住む町にも、近くに大きな裁判所がある。このなかで繰り広げられているであろう、人間と人間の争い。夫婦の軋轢であったり、交通事故の処理であったり、相続の争いであったり…人間という生き物の弱さや、目をそむけたくなるような醜い部分が渦巻いている場所でもある。そんな中の様子とは裏腹に、裁判所の外観は整然としていて破たんがない。そんなことが、中の混沌を余計に際立たせるようでもある。それに取り合わされたのは「アイスティー」だ。癖のない、すっきりとしたその飲み物を、近くのカフェで飲んでいるのだろうか。そこから見える裁判所を何気なく見ている。ただ、「見る」などの動詞は何もないので、そのような景を押し付けられることはない。そこには裁判所とアイスティーがあるだけで、唯一の作者の感覚として「左右対称」が置かれてあるだけだ。それらの言葉が不思議に響きあい、この世界のあるリアリティを切り取っている。
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