2019-09-22

【週俳8月の俳句を読む】言葉の力、言葉の引き出し 大石雄鬼

【週俳8月の俳句を読む】
言葉の力、言葉の引き出し

大石雄鬼


サンダルの匂う百円ショップかな  菅原はなめ

できあがった俳句を見れば、素直な自然に出た俳句、と思ってしまうが、こういう俳句を作るのは私にはとってもむずかしい。たとえば、百円ショップに行って、俳句関係なしに「おっ、サンダルの匂いがしている」などと思わないだろうし、百円ショップで俳句を作ろうとして「サンダルの匂い」はまず出てこない。そもそも「百円ショップ」で俳句を作ろうとしていない。俳句のことを考えていて、「サンダル売り場に偶然居て、匂いを感じ、その瞬間それを俳句にしようとした」ことは、けっこうハードルが高いような気がする。たしかに、百円ショップには、ゴム製のサンダルが並んでいて、ゴムの匂いがしていることには、説得力がある。それが百円ショップの普遍的象徴とすら思えてしまう。さらにそこからすこし海の匂いのようなものが感じとられれば、この句は俳句として成立する。ならば「ビーチサンダル」とすれば、完成度は高くなるような気がするが、「サンダル」という無季感、「さりげなさ」感は捨てがたい。なにか発見しようとしている今回の他の作品と比較して、このなにもなさげな感じが良いような、やはり物足りないような。やはり、季語(象徴的な物)の力が必要か。いや、このままでよいか。

昼寝して下り電車のなかにいた  菅原はなめ

「下り」がよい。都落ち、下野ということが無意識に頭に浮かぶ。「夢は枯野をかけ廻る」的な昼寝。「兵どもが夢の跡」的な昼寝。さりげない光景、生活の俳句であるがゆえに、「下り電車」が象徴的な微光を放っている。先の「サンダル」でよかったかどうか自信がないが、こちらの「下り電車」はうまく嵌っている。ちなみに私には、「下り」が「腹が下る」を連想させ、肉体的不安感も感じたのだが、それは私だけかもしれない。


万緑や写生の人の背の曲がり  玉貫らら

万緑を写生しようとして、前のめりになっている感じ。万緑の力によって、背(背骨)が曲がっていってしまったような面白さ。屋外で見かける写生をしている人は、椅子が低いせいなのか、ほぼ猫背。そのさまは、目の前の光景にのめりこみ、光景に落っこちていき、溶け込んでいくかのようだと、この句を見て、「写生の人」の姿が私の中で固まった。「猫背」ではつまらないが、「背の曲がり」という即物的表現が、万緑とあいまって魅力的なものとなった。

断層に木の根の這ひて風死せり  玉貫らら

「断層」に入り込んだ木の根。長い時代を反映した「地層」であっても面白いかと思ったが、さらにそれがずれ動いた「断層」にまでしたところが、面白くしている。地球内部の大きな自然とその上で営む小さな自然。そのふれあいが楽しい。ただ、「風死せり」はどうか。死も断層もネガティブな世界。もったいないかなと思う。


小鳥来る鍍金工場の明り窓  倉田有希

ひぐらしの声しあしせに耳小骨  倉田有希

これは読み手の私の責任なのだが、鍍金とか耳小骨という言葉が、私の言葉の引き出しの中にない。たとえば「鍍金」ではなく「メッキ」であったり、「耳小骨」でなく「内耳」であったら、私はこの句をすっと受け入れられたと思う。もちろん語句の意味は、辞書で調べればわかるのだが、もともと引き出しになかった場合、実感として受け取ることが出来ない。「季語」であれば、ほとんどを引き出しの中に入れている。読書量の少ない私は、「季語」以外の守備範囲が狭い。引き出しが少ない。あまり俳句で使用しない語句の発見はとても大事だが、引き出しにない語句は俳句の中で輝けない。「鍍金」や「耳小骨」の引き出しがないことは私の責任であり、この句を評価する者に値しないのだが、一般論として語句の引き出し(ただ、意味を知っているということではなく、体に染み込んでいる語句かどうか)は、大事だと思う。生活の上でのこなれた言葉を、新たに俳句に引き込むことは喜びであり、何にも増して重要なことだが、「体に染み込んでいる語句、こなれた言葉」という観点は、「垢のついた言葉」とは別次元で重要だと思う。


菅原はなめ しなやかぱちん 10句 ≫読む
642 2019811
倉田有希 単焦点レンズ 10句 ≫読む
玉貴らら 断層 10句 ≫読む

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