【週俳9月の俳句を読む】
韻律の明暗と高低昇降のアクセント
鈴木茂雄
大河往く黒蝶の遠きサイゴン 五十嵐秀彦
一読、中句から下句に掛かるところで痞(つっか)える。わたしが俳句を読むときは、句の意味よりリズムを優先する。再読、やはり同じところで痞(つか)える。いわゆる句跨りの箇所だが、句跨りがいけないというのではない。むしろ、句跨りだから痞えるのは当然で、それがまた句跨りという俳句的修辞法を用いる目的のひとつでもあるのだが、この痞え方は、わたしの中では尋常ではない痞え方なのである。ふつう、句跨りであっても、揚句と同時発表の「蟬の時間聞こえなくなるまで涅槃」のように、一呼吸置くなどの工夫によって音律を整えることで、より律動的に次へ読み進むことが出来るものだが、揚句はなぜかそこで痞えてしまうのだ。リズムが良くないというのではないのだが、三読したところで気がついた。なぜ「黒蝶の遠きサイゴン大河往く」としなかったのだろうか、という疑問である。こうすればすっと読み下すこと(横書きの場合は、左から右へと淀みなく読み進むこと)が出来るのに、と。
サイゴンの句といえば「青田また青田サイゴン南下せり 吉藤春美」が思い浮かぶ。リズムはこの句の方が断然いい。「青田また青田」という繰り返しにも、「南下せり」という表現の仕方にも、句に勢いがある。初めて訪れた「サイゴン」を行く作者の高揚感が手に取るようにわかる、明るい海外詠の佳句であるが、サイゴンの句で思い出したこの句とのリズム感の違いから、揚句への疑問に対する解決の糸口が見えてくる。サイゴンはベトナムの首都・ホーチミン市の旧名だが、いまでもサイゴンという名の方が通りがいいし、実際にいまだにこちらの方が多く使われているようだ。しかもサイゴン川という川の名はそのままだ。揚句の「大河往く」はホーチミン市内を流れるサイゴン川だろう。サイゴン川とせず、また「大河往く」として上句に置いたのは、サイゴン川を強調するための倒置という修辞的手法。「行く」ではなくて「往く」という言葉を選んだことにも作者の重い意図を感じ取ることが出来る。
もうひとつ注目して欲しいのは、「黒蝶の遠きサイゴン」の屈折の箇所である。先に述べた「黒蝶の遠きサイゴン大河往く」とすると、語句の切断もリズムの切れ目もなくなるのに、と思う。であるにもかかわらず、作者はなぜ「大河往く/黒鳥の遠きサイゴン」と、五七五の定型(十七音に収まってはいるが)を逸脱してまで「コクチョウノトオ/キサイゴン」と破調にしたのか。それは、中句から下句に移るときに、読者が読み解くための意味がこぼれ落ち、思考の流れが中断され、それによって読者は、その箇所に注目を余儀なくされる。引っ掛かり、立ち止まる。そのために、作者は俳句的詩法ともいうべき「句跨り」という技法を用いたのである。そうなのだ。作者は、この句をすっと読み下して欲しくなかったのである。ここで痞えて欲しかったのである。そうすることによって、思考の流れの先に進んで消えかかっていた「黒蝶」が、突然、その流れに逆らって飛び立ち、浮かび上がり、宙で静止する。静止させて、この黒蝶を読者の目に焼き付けようとしたのである。
「大河往く/黒蝶の、」と読むか、「大河往く黒蝶の、」と解するか。手のひらほどもある大きな黒い蝶には様々なイメージがある。輪廻転生、復活、死者の魂などがそれを象徴している。「往く」という言葉には行ったきりというイメージがともなう。「遠きサイゴン」には、私たちの年代ではベトナム戦争とかサイゴン陥落といったイメージが付随するが、これだけは作者にしかわからないイメージがあって、いまもその胸中深くサイゴン川のように蛇行していることだろう。言わずもがなではあるが、結局のところは、リズムが良くないことがこの句の良いところであるということであった。というより、すべて作者の意図するところであったというべきだろう。詩はリズムであると思っていたが、詩の韻律はリズミカルでないこともまた大切なリズムの役目を果たす。原初的な生命のリズムはゆっくりと流れる大河から生まれ、鳥のように雄大に飛翔する黒い蝶へと伝わっていく。作者は、詩が意味でなく、韻律の明暗と高低昇降のアクセントで表現することを知った人である。
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