【週俳9月の俳句を読む】
雑読雑考
瀬戸正洋
サイゴンとは、旧南ベトナム共和国の首都である。
大河往く黒蝶の遠きサイゴン 五十嵐秀彦
政治のことはよくわからない。何があったのかも興味はない。政治は必要悪である。「往く」とは、移りゆく、過ぎさることである。おもうようにすすむという意もある。それでもサイゴンは遠かったのである。
かつて、蝶は韃靼海峡をわたった。黒蝶はサイゴンにはたどりつけないのかも知れない。
頸椎の組糸ほつれゆく炎暑 五十嵐秀彦
糸を組みあわせることで頸椎は成りたっている。それがゆるみ、ほどけたのである。それでも、頸椎であることに変わりはない。炎暑のせいだなどといわれても困るだろう。炎暑にしてみてもいい迷惑なのである。ほつれてしまったのは時が過ぎたから。ただそれだけのことなのである。すべてのものは壊れてしまうのである。すべてのものはかげも形もなくなってしまうのである。
炎天や母さん死はまだ怖いですか 五十嵐秀彦
父さんだろうと母さんだろうと死は怖いのである。炎天であろうとなかろうと死は怖いのである。考えるから怖いのである。
父さんだろうと母さんだろうと生きることは怖いのである。炎天であろうとなかろうと生きることは怖いのである。考えないから生きることが怖いのである。
踏切は植民の鐘浜蓮華 五十嵐秀彦
鐘とはひとつの精神を象徴しているのである。単なる音をだすための道具ではない。浜蓮華とはひとつの精神を象徴しているのである。単なるむらさきいろの花が咲く植物ではない。植民とは他国へ移住し経済的な安定をもとめることだという。踏切とは鉄道と道路が平面交差するところだという。
鐘がなり遮断機はおりる。いつものように、特別急行列車は踏切を通過していく。
蟬の時間聞こえなくなるまで涅槃 五十嵐秀彦
聞こえなくなるまでが「蟬の時間」なのである。何もいわなくなるまでが「ひとの時間」なのである。涅槃などといわれるとおもわずひれ伏してしまう。知人や家族に迷惑をかけずに野たれ死ぬ。他に何のぞみがあるのだろうか。
迸る滝にヒト科をかがやかす 五十嵐秀彦
ヒト科とは、霊長類の分類群のひとつである。チンパンジー、ゴリラ、オランウータン、ひと、そして、滝なのである。懸命に生きることはたいせつなことなのである。滝はひとに、ひとはオランウータンに、オランウータンはゴリラに、ゴリラはチンパンジーにと、何かを伝えていく。かがやくとは、何かを伝えていくことなのである。
アルゼンチン・タンゴ窓辺に置く桔梗 五十嵐秀彦
ピアソラ、バンドネオン、バイオリン・・・。港町のアパートの窓のそとには川がながれている。アルゼンチン・タンゴは、ブエノスアイレスで踊らなくてはならないのである。ただ、黙って聴いているだけではいけないのである。
窓辺に置いた桔梗を愛でていてもしかたがない。成田へ向かわなくてはならないのである。南米アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスへ向って飛行機に乗らなくてはならないのである。
満潮の香にあぢさゐの朽ちゆけり 五十嵐秀彦
折り合いをつけることは必要なことなのである。あぢさゐが朽ちてゆくのにも理由があるのである。生きていくということは馬鹿々々しいことの繰りかえしなのかも知れない。満潮の香があたりにたちこめている。
鶏頭や終りし時がはみ出して 五十嵐秀彦
はみ出すことは未練なのである。あとで考えてみれば何ともないことなのである。諦めきれなかったのである。ひとは弱いものなのである。鶏頭もひとも弱いものなのである。終りの時は、はみ出してはいけない。鶏頭もひとも謙虚でなくてはならないのである。
反世界色の日暮や秋薔薇 五十嵐秀彦
反世界とは物理学のことばである。われわれの世界の物質構成の基本粒子とは逆の反粒子からなると考えられている。そんな「考えられる世界」なのである。難しくてよくわからないから、「そんな」世界などというのかも知れない。
そんな色の夕暮れには、秋薔薇をながめていればいいのかも知れない。
反世界のことを調べていたら「鏡」について書いてあった。「反」に「反」が反応したのだろうとおもった。
窓といふ窓開いてゐる昼寝覚 若林哲哉
昼寝からさめたときのことである。窓という窓が開いていたのである。誰が開けたのだとおもう。ぐっすりと眠りこんでしまったのである。それほど疲れていたのかも知れない。目覚めたあとの不快な午後の日差しを感じている。
父の髪母より長しねぢれ花 若林哲哉
節約という理由で髪を伸ばしている。退職してからそのままである。坊主あたまであっても同じことなのである。「長髪の老人は、サヨク崩れのクレーマーに間違えられるから気を付けろ」などと野次られたりもした。
あぜ道に咲くねぢれ花に気づく。そんなにたいした理由もなく、ねぢれ花は咲いている。そんなに対した理由もなく、ひとは生きているのである。
揚花火果てて砂漠の匂ひかな 若林哲哉
そこへ向かう。場所を確保する。はじまるまでが楽しいのである。こころがときめくのである。はじまってしまえばあとは終わるだけのことだ。あっというまに楽しい時は過ぎ去ってしまう。
花火も果て、ぞろぞろと、最寄りの駅へむかって歩いている。そんな、ひとのうしろすがたに砂漠の匂いを感じてしまったのである。
出目金や天津飯の全き円 若林哲哉
「全き」とは天津飯のことなのである。そもそも「全き」円など存在しないのかも知れない。出目金にはおかしみがある。天津飯にもおかしみがある。「全き」円にもおかしみがある。自分は完全だといっているひとでも、いわれているひとでも、おかしみはある。おかしみとは、生きているというあかしなのである。
太腿に缶挟みをる油照 若林哲哉
太腿に缶を挟まなくてはならない理由などない。ただ、缶があったから挟んでみたのである。油照りだから挟んでみたのではない。ただ、缶があったから挟んでみたのである。ひとはこのようなことをして生きているのだ。こんなひとの仕草をながめる。悪くないことだともおもう。
パイナップル喉をとげとげしく通る 若林哲哉
パイナップルの残像が残っていたのである。パイナップルを食べたとき、その残像がよみがえったのである。これは、ひとつの強迫観念なのかも知れない。ある種の不安であるのかも知れない。余計なことは考えないに限る。余計なことは忘れて生きていくに限るのである。
おとがひのゆつくり乾く扇子かな 若林哲哉
おとがひとは、下あごのことである。へらず口をたたくという意味もある。扇子とは、あおいで風をおこす道具である。濡れた下あごを拭くこともなく乾かそうとするのである。それも、ゆっくり乾かそうとするのである。
合理的なことはきらいで、寄り道が好きなのである。扇子をもっているひとを街中で見かけることは、すくなくなってきた昨今である。
蟬しぐれコーラの泡のせり上がる 若林哲哉
ビールであろうとコーラであろうと、せり上がった泡を飲めば喉はうるおうのである。視覚によるうまさである。蟬しぐれというと、うだるような暑さを思いうかべる。聴覚からくる暑さである。もちろん、凍る寸前まで冷やしたコーラでなくては、泡をせり上げることなどできないのである。
肌脱の男と水を注ぎあへり 若林哲哉
肌脱ぎの男など、なかなか見かけることはできない。時代劇の世界なのかも知れない。酒を注ぎ合うのではなく、水を注ぎ合うとなると、これも、なかなか見かけることはできない。
独特の世界観である。見えないものが視えること、感じることのできないものを感じることは怖いことなのかも知れない。
標本の鯨の眼窩夏の果 若林哲哉
標本の鯨の眼窩に視線がとまったのである。そこから動かなくなってしまったのである。もの悲しい何かをおもい出したのかも知れない。去りゆく夏を惜しんでいるのかも知れない。
立秋や老いて十指のあたたかく クズウジュンイチ
十指があたたかく感じるということは、老いてきたということなのである。からだの衰えを感じたのである。健全であれば、気にもとめないのに。
立秋とは、二十四節気のひとつである。大暑から半月たったころであり、老人にとっては疲れもたまりはじめるころなのである。
蜩の声は曲がらじ杉檜 クズウジュンイチ
日本の国土面積の約七割は、森林である。人工林面積は、その四割であり、人工林面積の七割を、杉、檜が占めている。私の暮す集落には、共有林があり、年にいちど下草刈りにでかける。草を刈っているときは聞こえない。鳴いているのかも知れないが記憶にない。山を下りはじめると、蜩は、いっせいに鳴きはじめるのである。背中を押してくれるのである。もしかしたら、「曲がらじ」とは、そんなことなのかも知れない。
静かなばつた口から泡を噴いてゐる クズウジュンイチ
さもありそうである。だが、ばつたが口から泡を噴いているところを見たことはない。蟹は、苦しいときに泡をふくのだという。ばつたも同様なのかも知れない。ただ、静かなとあるので、すでに死んでいるのかも知れない。「泡を噴く」とは、面喰うこと、不意をうたれて怒ることとあった。不意をうたれたときは、うつむいて何もいわないに限る。泡を噴いてみるのもいいだろう。ろくでもないことしかいわないだろうし、ろくなことにはならないとおもう。
いなごあたかも銃撃の砂埃 クズウジュンイチ
子どものころ、いなごを取った記憶がある。取ったいなごを食べるのである。田螺も取った記憶がある。もちろん、食べるのである。いつのまにか、食べなくなってしまった。あるとき、鮨屋で珍味だからといわれて蜂の子を炒って出されたことがあったが閉口した。
銃撃の砂埃とは、稲の穂のうえを飛びまわるいなごのさまを描写したものだとおもう。
棋士の指反つて小皿の黒葡萄 クズウジュンイチ
棋士の指が反るとは将棋を指すときの動作である。黒葡萄といえば巨峰しか知らない。棋士は、対局中に葡萄をたべたくなったのである。
棋士の指先は、つぎの一手を打つために反るのである。葡萄をたべるために反るのである。
鵙鳴いて襟が合成皮革かな クズウジュンイチ
合成皮革だとおもって手にしたことはない。つまり、合成皮革がどういうものなのか知らないのである。だが、作者は気になった。襟が合成皮革であることが気になったのである。
鵙は肉食である。鳴き声が澄んだ秋の空にひびきわたる。そんなとき、襟が合成皮革であることが気になったのである。
同じ田に椋鳥同じ木に帰る クズウジュンイチ
田に舞いおりてくるのは同じ椋鳥ではない。木にとまっているのも同じ椋鳥ではない。いつも、椋鳥は田に舞いおりてくる。いつも、椋鳥は木にとまっている。
ひとは、いつも同じ家に帰ってくる。家に帰ってくるのは同じひとではない。玄関をあけても誰もいない。ただ、テレビがついているだけなのである。
紫は通草に染みて卵焼き クズウジュンイチ
子どものころ通草を取って食べた記憶がある。種がおおかったことと甘すぎることに閉口した。通草に染みたのが紫なのだという。卵焼きに染みたのが通草なのだという。
染みることがよいのかわるいのか、よくわからない。そんなことは、考えなくてもいいとおもう。卵焼きを食べていればいいとおもう。
やさしくて指をしたたるレモン汁 クズウジュンイチ
何がやさしいのだろう。誰がやさしいのだろう。指をしたたるレモン汁は、いったいどこへいくのだろう。
要するに、何もわからないということなのである。やさしさとは、誰にもわからないということなのである。だから、危ないのである。だから、やさしいひとには気をゆるしてはならないのである。
死にながら墜ちて櫟の実なりけり クズウジュンイチ
生の恐怖、死の恐怖。どちらも耐えがたい恐怖である。死んでしまえば、それは論外のこととなる。墜ちるとは、失墜、墜落のことである。てのひらの櫟の実は既に死んでしまっている。
櫟の実もひとも必ず死ぬのである。生きるとは、死にむかって墜ちていくことなのである。
着火からはじまる宴竹の春 鈴木健司
竹は秋になると葉が青々としてくる。宴とは酒盛りの古称である。宴に限ることではない。歴史は誰かが何かに火をつけることからはじまるのである。そんなところに出会わすのは真っ平ごめんである。物騒なものは放っておくに限る。
ひとは歳を重ねるにつれ、おぼろげながら「火」をもっていることを感じるようになる。それを「残り火」という。それをどうしたらいいのか、何もわからずに、その火が消えるまで生きていくのである。
釣瓶落し少し怠惰になる轍 鈴木健司
なまけることもたまには必要なのである。夕暮れはこころをおだやかにする。ゆっくりと暮れていってくれればいいのだとおもう。車輪のあとを轍という。どんな轍も疲れているのだ。生きるということとは疲れることなのである。
知らないことは知っていることよりも、すこしぐらいはましのかも知れない。
旧友のこと思ふなり鳥威 鈴木健司
鳥威のある風景は汚い。そこには切実な問題があるからである。旧友とは、ふるくからの友だち、昔からの友人である。旧友との再会は何の打算もない。ただ、懐かしいだけなのである。それでも、余計なことはいわないに限る。あたりさわりのないことばを口にしていればいいのである。
鳥やひとを威しても何も得ることはできないのである。逸らすこと、かわすこと、避けることが大切なのである。「三十六計逃げるに如かず」なのである。そうすれば、誰も傷つけず、誰にも迷惑をかけることなどないのである。
肉厚な林檎の皮を弄ぶ 鈴木健司
林檎の皮が肉厚であることは個人的な問題なのである。自分のしたことを弄ぶことも個人的な問題なのである。このようなことは日常茶飯事なのである。真剣に考えてばかりいては生きることに疲れる。弄ぶことでこころが壊れないのなら、それでもいいとおもった方が賢明なことなのである。
三日月の枕を高くしてゐたり 鈴木健司
枕を高くして寝るとは「ことわざ」である。心配ごとがなくなり安心して寝ることができるという意味である。畳のうえの三日月に頭をかけることもいいだろう。そのまま、夜空で寝ることも悪くはないとおもう。ことばの技には、ひとはいつもたすけられるのである。現実には、空に三日月が出ているだけのことなのである。
言ひ訳はいらない蓑虫の不在 鈴木健司
言い訳ほど醜いものはない。繰りかえせば繰りかえすほどほど惨めな気持ちになるだけである。声高に言い訳をしているひとを見かたりもするが、このひとは何て馬鹿なんだろうとおもう。その場にいないことを「不在」という。意志によって「不在」となるのである。意志によって「蓑虫」になるのである。
稲妻や回送列車の薄笑ひ 鈴木健司
気がつくと誰かが薄笑いをしている。日常とは、そんなものなのである。ひとは怖い、本心を明かさないから怖いのである。考えてみれば、本心を明かせば、それでおしまいなのかも知れない。耐えて生きなければならないのである。稲妻は、はしる。回送列車が目のまえを通り過ぎていく。回送列車もひとも薄笑いをしつづけていくのである。
足元にからまつてゐる秋思かな 鈴木健司
秋のさびしいおもいが足元にからまっている。からまるとは、ものごとが複雑に巻きつき、引き離しにくくなることである。からまるところが足元なので不自由になるのである。先に進むことができにくくなるのである。このいら立ちは相当なものなのである。たかが秋思などと馬鹿にしてはならないのである。
木の実落つ明日閉店の喫茶店 鈴木健司
これで閉店ではないのである。明日も来ることができるということなのである。マスターは何もいわない。貼り紙がしてあるだけなのである。何もかもが終わってしまったのである。余計なことはいわないに限る。舗道に落ちている木の実を踏みつぶしながら駅へと向かう。
三角を繋ぎて秋の野に至る 鈴木健司
バランスを崩すと三角は壊れる。生きているかぎりバランスは大切なものなのである。繋ぐには意思が必要である。秋の野では数おおくの花が咲き、いろいろな虫が鳴いている。それらのすべてを「繋ぐ」ということばで表現したのである。
■クズウジュンイチ 杉 檜 10句 ≫読む
■鈴木健司 蓑虫の不在 10句 ≫読む
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