【週俳9月の俳句を読む】
逃げ
川嶋ぱんだ
私は、俳句を読むとき、一度俳句の解釈を行ってから俳句を鑑賞するという手順を取ります。頭からしっかりと読み下して解釈を行うと、何が書かれていて、何が分かり、何が分からないかが、はっきりすると考えているからです。
本稿は、( )内に俳句の解釈。その後、俳句の鑑賞を行なっています。本稿は、もっぱら自分の勉強のつもりで書いたため、なにぶんおかしなところもあるかもしれません。解釈や鑑賞におかしいところがあれば指摘していただけることを期待しています。
蟬の時間 五十嵐秀彦
大河往く黒蝶の遠きサイゴン 五十嵐秀彦
(大河を往く黒蝶にとっての遠くのサイゴン。)
大河は逆流することはなく上流から下流へ流れていく。「往く」は行ったきりで帰って来ないことを示しているのかもしれない。黒蝶にとって遠いサイゴンは、別の世なのかもしれない。ちなみにサイゴンはいまのホーチミンのことらしい。
頸椎の組糸ほつれゆく炎暑 同
(頸椎という組糸がほつれてゆく炎暑)
「首」と「頸椎」は同じ体の箇所だが、頸椎と表現されるとひとつひとつの骨を意識する。さて、それを組糸と表現したとき、折り重なってできた糸的なものを想像できるかというと、すこし難解な気もする。「炎暑」の体現止めが、力なく崩れていく頸椎の様子をイメージさせ、骨同士が折り重なっている感がある。
炎天や母さん死はまだ怖いですか 同
(炎天だ母さん死はまだ怖いですか)
「炎天や」のこの場所に母は、いない気がする。「母さん死はまだ怖いですか」というのはなんとなく死者である母に対しての呼びかけで、つまりは自分の死に対する恐れを表現している。気がする。
踏切は植民の鐘浜蓮華 同
(踏切は植民の鐘のように聞こえる。浜蓮華が咲いている)
踏切を植民の鐘(経済発展のための侵略か、迫害の追放か)だとは普段の生活で思ったことはない。なるほど、行きたいところには汽車で行けるが、行きたくないところに運ばれていくことも歴史的にあったのだ。たとえば汽車で運ばれる様子がホロコーストを連想させるかもしれない。この句では浜蓮華は思ってもみたかった場所に生えていて、綺麗且つ絶望のようだ。不安がよぎる象徴として踏切と浜蓮華が存在している。
蟬の時間聞こえなくなるまで涅槃 同
(蝉の時間の聞こえなくなるまで涅槃に)
蝉の声がしている間は煩悩から解き放たれた。と取るべきか、蝉の声がしなくなると煩悩だらけと取るべきか。句のテーマが<閑さや岩にしみ入る蝉の声 松尾芭蕉>に近い気がする~で、読みが止まってしまった。もっと広がりがある読みのできる方の評を聞きたい。
迸る滝にヒト科をかがやかす 同
(迸る滝にヒト科をかがやかせておく)
「迸る(ほとばしる)滝にヒト科をかがやかしている」という状態は難解で光景を頭で描くのは難しい。無理やり落とし込むなら滝行か?
アルゼンチン・タンゴ窓辺に置く桔梗 同
(アルゼンチン・タンゴをしている窓辺に桔梗を置く)
アルゼンチン・タンゴを見たことがなかったのでユーチューブで検索してみた。やや暗い場所の動画が多かったので窓もやや暗い気がする。「窓辺に置く桔梗」のフレーズの既視感は強いが、表現攻めてばかりでも単調になるので、手堅い言葉の置き方の句があってもいいのかもと思った。
満潮の香にあぢさゐの朽ちゆけり 同
(満潮の(潮の)香に紫陽花が朽ちていったんだなぁ)
過去の詠嘆「けり」があるから満潮を過ぎてやや潮が引きつつある時間帯と捉えたい。潮と花が朽ちる(枯れる)は理屈が通りすぎるかも。
鶏頭や終りし時がはみ出して 同
(鶏頭だ!終わった時がはみ出して)
「や」で切っているから単純に、あかあかと咲いた鶏頭が枯れたあとの姿だとは読めない。「終わりし時がはみ出して」の捉え方が難しいが、無理やり解釈すると、部屋の使用時間が過ぎているカラオケみたいなことか。
反世界色の日暮や秋薔薇 同
(半世界色の日暮だ。秋薔薇)
角川俳句歳時記によると薔薇は夏だけしかのってない。<思はずもヒヨコ生れぬ冬薔薇>は河東碧梧桐の代表句であるから、冬薔薇くらいは季語として項目が設けられているかと思ったがなかった。それはさて置き、「半世界色の日暮」というフレーズだけだと分かりにくいが、「秋薔薇」まで読むとブラウンぽい世界観なのかなと思った。
水を注ぐ 若林哲哉
窓といふ窓開いてゐる昼寝覚 若林哲哉
(窓という窓が開いている昼寝覚)
窓という窓が開いている昼寝覚は心地良さそうだが、「昼寝覚」だと一句全体で意味が通りすぎて余白が少ないか。
父の髪母より長しねぢれ花 同
(父の髪が母より長い。ねぢれ花が咲いている)
ねぢれ花は、たしかに髪を束ねている感がある。上五中七にかけて、すこし句材そのまま感があり説明しすぎと思ってしまった。俳句は分かりやすい方がいいと言う人もいるので句会では点数が入りそうだが、「長し」の言葉の使い方が名詞を信頼していない感じがする。
揚花火果てて砂漠の匂ひかな 同
(揚花火が果てて砂漠の匂いだなぁ)
揚げ花火から砂漠の匂いというのが詩的な飛躍で素敵に思う。においは火薬の臭いなのだろうけど、ここでは心地よく感じられる。ここでも「果てて」が言い過ぎで、どうしても理屈に流れる要素のように思われる。
出目金や天津飯の全き円 同
(出目金だ天津飯が全き円だ)
出目金のぷくぷくと丸い感と天津飯の円の共通点を紡いだのは手柄か。やはりここでも「全き」までダメ押し的に言う必要があるのかなぁ。と私の感覚。
太腿に缶挟みをる油照 同
(大腿に缶挟んでいる油照)
「大腿に缶」が曖昧な捉え方で、缶ジュースの缶もあれば、はごろもフーズの缶もあってそれぞれ全然形が違うし、親切に読めばジュースの缶だろうけど、はごろもフーズの缶の線も否定する要素がないので。どんな缶だったのかまで描ききって欲しいと感じた。大腿に挟んだ缶と油照のベタベタ感の雰囲気だけでは完成度が物足りない。
パイナップル喉をとげとげしく通る 同
(パイナップル喉をとげとげしく通る)
頭からそのまま読めばよい句で、すっきりしていて分かりやすい。サーフェス(表面)をセンス(感覚)として捉えたことは成功だと思う。句群の中で一番立っていたように感じた句だ。
おとがひのゆつくり乾く扇子かな 同
(おとがい(下顎)がゆっくり乾く。扇子だなぁ)
おとがいがゆっくり乾くが難解。濡れたままの顎をそのままにしていたのだろうか。「扇子かな」には、たしかにゆっくり乾く感がある。
蟬しぐれコーラの泡のせり上がる 同
(蝉しぐれのなか、コーラの泡がせり上がる)
コーラの泡がせり上がる様子を蝉時雨の生命感と取り合わせた。調和と取る人もいるだろうが、やや作り込み過ぎ。一読の驚きが少ない
肌脱の男と水を注ぎあへり 同
(肌脱の男と(どこかへ)水を注ぎ合っている)
さて、「と」の相手は男だろうか、女だろうか。水を体に掛けているとして、相手が女なら、この男は益荒男?男なら男色?何かの肉体労働としてなら、世界観として近世から近代くらいだろうか。欠けている部分が読みの幅を広げるに至っていない。
標本の鯨の眼窩夏の果 同
(標本の鯨に眼窩があった。夏の果であった。)
標本の鯨には眼窩はそりゃあるだろう。それを夏の果と置いたことで得るイメージは夏休みの終わりくらいだった。標本の鯨に眼窩に焦点を当てたところから更にもう一歩掘り下げるような表現を期待してしまう。
杉檜 クズウジュンイチ
立秋や老いて十指のあたたかく クズウジュンイチ
(立秋だ老いて十指のあたたかくある)
立秋になって夏の暑さが和らいだころ、十指のあたたかさに老いに芽生えた感覚といったところだろうか。老いてないので実感を得られなかった。
蜩の声は曲がらじ杉檜 同
(蜩の声は曲がらない杉桧の生える山)
蜩の声はまがらない。どうしてだろう。その答えはこの句にはないが、蜩の声が曲がらないことで杉檜の木の硬さのなかにある質感の違いに意識が向けられる。気がする。
静かなばつた口から泡を噴いてゐる 同
(静かな飛蝗は口から泡を噴いている)
飛蝗が泡を噴いているのかそこまでじっと飛蝗を見たことがないのでわからなかった。「静かな」が蛇足のようで、飛蝗の口の細かな動きまでイメージさせるのに効果がある。
いなごあたかも銃撃の砂埃 同
(いなごがあたかも銃撃の(ように飛んでいる)砂漠)
かつてテレビの仰天映像でみたような気がする光景。
棋士の指反つて小皿の黒葡萄 同
(棋士の指が反って小皿の黒葡萄を取った)
「棋士の指が反つて」までで、駒を動かすところをぎりぎりまで想像させておいて小皿の黒葡萄という裏切り。面白さだけでなく、黒葡萄を取るときの指の動きの繊細さまで想像させられたので、悔しい。いとも簡単にこういった句のような構成を作れるようになりたい。
鵙鳴いて襟が合成皮革かな 同
(鵙鳴いて襟が合成皮革だなぁ)
別に鵙か鳴いたから襟が合成皮革だったと気がついたわけではない。「柿食えば」でもいい気がする。それよりも、「襟が」の「が」のひねり。他は??と思わせ想像の余地を作っている。
同じ田に椋鳥同じ木に帰る 同
(同じ田に椋鳥同じ木に帰る)
同じ田んぼの椋鳥が同じ木に帰るところまでは見ていないだろうから、描写したわけではないと思うが、リフレインを駆使して、つがいを想像させる上手い句。
紫は通草に染みて卵焼き 同
(紫はあけびに染みて卵焼き(は黄色い))
紫色の通草ではなくて、通草に紫がしみたという表現の倒置は俳句の骨法のように感じる。通草に紫が染みる代わりに、卵焼きからよごれた色が抜けたような感覚になる。ふわふわした黄色がきれいな卵焼きをシメージさせる。
やさしくて指をしたたるレモン汁 同
(やさしいので指をしたたっているレモン汁)
ささくれがあると、レモン汁は指にしみて痛いような気がする。「やさしくて」の措辞が「かなしくて」になってもあまり変わらない気がした。
死にながら墜ちて櫟の実なりけり 同
(死にながら墜ちていく櫟の実であったんだぁ)
櫟の実が落ちていったんだぁ〜という実感について「死にながら」という形容があまりピンとこなかった。
蓑虫の不在 鈴木健司
着火からはじまる宴竹の春 鈴木健司
(着火から宴が始まる、辺りは竹の春だ)
着火から宴が始まるとは、焚き火のことだろうか。竹をさわさわと風が吹き抜けて気持ちが良さそう。
釣瓶落し少し怠惰になる轍 同
(釣瓶落としに陽が落ちて、少し怠惰になっている轍だ)
釣瓶落としに陽が落ちる、さっきまでくっきりとあった轍がぼんやりと見える。「怠惰になる轍」が難解で言葉の面白さに頼っている感は出ている。
旧友のこと思ふなり鳥威 同
(旧友のことを思っていると鳥威(がきらきらひかる))
旧友のことを強く思っている。鳥威は近くにあってもいいが、この句の場合は故郷の光景を眼裏に描いたと捉えることもできそう。
肉厚な林檎の皮を弄ぶ 同
(肉厚な林檎の皮を弄ぶ)
「肉厚な林檎の皮」まで描くと下五の置き方が難しい「弄ぶ」の着点は既視感が強く、言いすぎた感もある。
三日月の枕を高くしてゐたり 同
(三日月の枕を高くしている)
「三日月の枕」が比喩になっていて、ここを面白いと思えるかが勝負。「三日月の枕」以後を捻り過ぎても面白くないし、そのままでも面白くない。「三日月の枕」だけで世界が完結してしまっている。
言ひ訳はいらない蓑虫の不在 同
(言い訳はいらない。蓑虫は不在である)
何に対しての言い訳かは分からないが、言い訳は必要ない。そして蓑虫は不在である。この句では、ふたつ並べることの面白さが分からなかった。
稲妻や回送列車の薄笑ひ 同
(稲妻だ回送列車が薄笑い(しているようだ))
稲妻で一瞬の明と暗を表現するのはとてもきれいに決まっている。「回送列車の薄笑い」の比喩が想像できる範疇に収まっている気もする。
足元にからまつてゐる秋思かな 同
(足元にからまっている秋思だなぁ)
秋思のように概念を物体にする方法は多い。また、「〜は秋思だと」認識する方法も多い。今回は概念を物体のように捉えたパターンでこの方法で無限に作れてしまう。
木の実落つ明日閉店の喫茶店 同
(木の実が落ちた。明日閉店の喫茶店がある。)
木の実が落ちる場所の喫茶店が明日閉まる。木の実が落ちるので喫茶店としての立地は良さそう。
三角を繋ぎて秋の野に至る 同
(三角を繋いで秋の野に至った。)
三角を繋ぐが分からない。分かるのは秋の野にたどり着いたということだけだ。だが「秋の野に至る」というフレーズには既視感がある。
好きな句を選んで評をつけたり、褒めやすい句ばかり選んだりするのは「逃げ」な気がしたので全句に評をすることにした。率直に書くことは自分の勉強になると思って書いたため、いくぶん偉そうになってしまった。作者の五十嵐さん、若林さん、クズウさん、鈴木さんには乱暴な評をつけ、些か申し訳なく思います。この句評に時間を注ぎすぎて、仕事が進まない。その代わり、かなり真剣に書いたが、それでも雑な評になったものもあるのではないかと公開を恐れている。だが、全句に触れたおかげで、同じ9月の週俳を読むの他の評者と比較できるので、それを私は楽しみたい。
■クズウジュンイチ 杉 檜 10句 ≫読む
■鈴木健司 蓑虫の不在 10句 ≫読む
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